ひよこと親鳥
何度か顔を上げる仕草をしただけで、すぐに気づかれた。
「そろそろオープンの時間だな」
工場を抜けて、店舗裏の事務室で作業をしていたときのこと。
香織はさりげなく壁時計を気にしていたつもりであったが、湛には見透かされていたようだ。
応接セットのソファに腰掛けて、書類に目を通しながら、湛は机に向かっている香織を見もせずに言った。
「気になるなら顔出せば良いのに。差し入れでも持って」
「いいよ。忙しいときに対応させるのは申し訳ない。どうせ西條とは毎日家で顔を合わせているんだし、行くにしても一週間くらいしてからかな……」
「だけど今日は伊久磨もいるんだろ。誕生日だし、結婚記念日? 今回は結婚できるんだよな。顔見るだけでも行って来いよ」
重ねて言われると、もともと気持ちがぐらついていただけに、香織は「んんん~~」と唸り始める。椅子の上で悩ましげに頭を抱え、結局「そうなんだけど」と煮え切らない態度で呟いた。
見かねたように、湛は書類をローテーブルに置き、香織を見た。
「『海の星』のオープンのときは、何をしていたんだ」
「何してたっけ……、花くらいは贈ったと思うけど」
「ずーっと店の前うろうろして、そのあげく全然客が入らないのを気にして食事して帰ってきたって言ってたぞ」
「あ……」
ごまかそうとしたわけではない。ただ、本当に忘れていたのだ。
湛に指摘された瞬間、香織はそのときのことを思い出して苦笑いを浮かべる。
「岩清水に伊久磨を預けた手前、知らないふりはできなかったっていうか。興味もあったしね。この街でああいう店が、本当にやっていけるのかなって。客がいないならいないで、伊久磨の練習台になってあげなきゃとか。あと岩清水の料理も心配で……」
話しているうちに、自分で自分にギブアップ。香織は手にしていた書類をばさっと顔にかぶせて「恥ずかしいんだけど!」と声を上げた。
「いろんな意味で、すごく気にかけていたよな。子どもの成長見守る親かよってくらい」
「そうだよ。俺はあいつらがちっちゃいよちよちの雛鳥の頃から気にしてきたんだよ。危なっかしくてさ~~」
「ミュゼは?」
簡潔に問われて、ぐうの音も出ない。
たたみかけるように、湛が続けた。
「最近よく経験者に言われるんだけど、『子どもが小さい時期は本当に短いですよ』って。それで、毎日写真撮ったりするんだとか。俺は自分がそうなるかはまだわからないけど……、雛が雛の時期は短いらしいぞ?」
「うるせ~~、俺は親鳥じゃねえよ。なんであいつらの記念写真撮りにいかなきゃいけないんだよ! 勘弁してよ湛さん」
香織は唇を引き結び、目を閉ざした。
生まれたてのひよこが料理を作り、皿を運んで接客している光景が頭をよぎる。
もちろんそのひよこたちは、聖と伊久磨によく似ていた。
「後悔するぞ」
「しないしない。絶対しない。仕事もあるし、幸尚のケーキ作りも監督しないとだし……」
「あ、香織さんいた。おはようございまーす」
事務室の出入り口に下がっている暖簾を片手で払い、オレンジ頭の幸尚が顔を出す。
こざっぱりと身支度を整えていて、以前より垢抜けた印象。
湛に対して「工場、どうもありがとうございました」と礼をしてから、香織に向き直った。
「佐々木さん、『海の星』に向かったみたいです。シェフの奥さんと連絡取ったら、キッチン使えって言われたみたいで。俺にはいまシェフから電話が。それで、俺も今から行ってきます」
「え……? ああ、そう。まあそうだよね。向こうの方が使いやすいだろうし、仕上げまでうちですると運ぶ手間が……」
「そうなんですよ。ニナさんは今日二号店に入ってるから、いまの時間は絶対に顔合わせないだろって。俺もそこまでする義理はないんで、作ったら東京帰るつもりだったからちょうど良いし」
「会わないの?」
あれ、ここまで来て、そこまでするのに? と香織が目を丸くして尋ねると、幸尚はそっと視線を外して横を向いた。
「べつに良いんですよ。感謝されようとか思ってないし。祝いは俺の代わりにケーキが伝えるんで」
「ケーキ優秀……」
そしてお前は照れ屋だな? と思ったが、追い詰めたら噛みつかれそうだったので、香織は口をつぐんだ。
言うだけ言った幸尚は「それじゃ、お世話になりました~」とあっけからんとした調子で言って出て行ってしまう。
取り残された香織がなんとも言えない表情で固まる中、湛がダメ押しのように言った。
「お前がここに残る理由が消えたみたいなんだが。ぐずぐず言ってないで行けよ」
湛は間もなく育児休業を取得する。そうと決まった半年くらい前から、やけに「今だけなんだから」と香織に時間を作ろうとしてくれていた。
(たしかに、湛さんがいなくなると大幅戦力減で、俺も身動きとれないだろうし……って言って、これまでもだいぶ甘えてきたんだけどな)
「まあ……そこまで言うなら」
香織が考えながらそう答えると、湛はちらっと暖簾へと目を向けた。
「今なら幸尚を『海の星』に送る名目で車出せるぞ。止めないから」
「そうだね……」
答えようとしたところで、工場の方から「ああー!!」という幸尚の叫び声が聞こえてきた。
続いて「ごめんなさいっ!!」という聞き覚えのある声は、椿屋の従業員である柳奏のもの。
「なんかやったな」
湛がとても淡白な調子で言う中、香織はがたっと席を立った。
「どうしてあいつは毎回何かやらかさないと気がすまないんだっ」
悪態をつきながら駆け出す。
その後を追うでもなく、湛は書類を見ながら「この仕入れ減らそうかな」とのんびりと呟いていた。