訪れるひと
ざわざわとした空気が、野木沢美術館の玄関ホールに満ちていた。
午前九時、開館。
チケット販売をしているカウンターは、ミュゼの正面。十五分ほど最初の入場客対応をしたまどかは、受付を抜け出てミュゼの前に立つ人物に声をかける。
「今日、お客様が明らかに多いです。入場待ちのお客様が並んだことなんて、私が館長になってから初めてですよ」
「それは重畳。幸先が良いことだ」
答えたのは、野木沢美術館と「海の星」を結びつけた立役者、「銀の星企画」の岩清水政道。オープン前のミュゼにて、来館客から「予約はできるのか」と問い合わせを受けると、整理券を配って対応していた。
その落ち着き払った対応がいかにも堂に入った、年相応に渋みのある容貌の持ち主。体の線を拾いすぎないスーツがいかにも上品で、年長者らしいスマートさがまどかの目にはまぶしく映る。
「岩清水さん、このたびは本当にありがとうございました。お客様がたくさんだとわくわくしますね。この賑わいが続けば良いんですけど」
「もちろん続きますよ。そこは西條くんの腕の見せどころとして、この店が話題にならない方がどうかしている。そのうち遠くから、ここ目当てにくるお客様もいるでしょう。本店である『海の星』はシェフの方針で取材も受けたり受けなかったりだが、ミュゼは館長の考え方ひとつだ。この先忙しくなりますよ」
心にストレートに届く、まっすぐな話し方。
力強い口調で言われて、まどかの胸にふわっと温かいものが広がった。
「岩清水さんにそう言ってもらえると、本当にそうなるんじゃないかと未来に希望が持てます。大人になると、期待しない生き方が身についてしまっていて、良いことばかり言うひとは疑いの目で見てしまうんですけど。耳に優しい言葉を聞くと反射的に抵抗したくなるといいますか」
「それはそうです。野木沢さんは立場もあるから、そうならざるを得ないでしょう。私のような形のないものを売り物にしている人間を、よくぞ信用してくれました」
おどけることもなく、真摯に受け止められる。話しやすい。話しやすすぎるせいで、詐欺ではないかと最初の頃はずいぶん悩んだものだ。自分に自信がなかったからこそ、余計に。
美術館の起死回生に、コンサルタントを頼んで大胆な改革をすると聞いて、古参のスタッフが良い顔をしなかったのもある。
(変化を望まない人々には「君は今でも、よくやっているじゃないか」となぐさめられていた。でも、言われるたびに、妙な居心地の悪さがあった。本当に「よくやっている」なら、もっと良いことが起きるはずなのに。見通しが明るいものにならないのはどうして?)
親しみを覚えるひとたちから発せられる、その言葉こそが、自分を底なしの沼へと引きずり込む甘言なのではないか。
美術館に新しい風をと考えて、「銀の星企画」と出会ったことは、幸運だったのだ。
「いつも同じことばかりしていても、頑張っていることにはならないと思って。私にとっては大きな賭けだったんですが」
賭けという言葉の持つ響きに、まどかは自分で言ってどきりとする。とんでもないことをしてしまったのではないか、という弱気が湧き上がりそうになる。それを見透かしたように、即座に返された。
「勝てる勝負が目の前にあるなら、打って出るのは当然です。運も大切ですが、それも本人が動いてこそ。野木沢さんは良い時期に決断なさったと思います。コンサルタントの仕事の中でも、ビジネスマッチングというのは非常に慎重になります。トップの相性もありますし、会社としての将来性も大きく関わってくる。片方にしかメリットがない提携はありえません。今は低迷していても、必ず上昇すると確信を持てる企業でなければ、パートナー企業は見つかりません。その意味で、双方にメリットがあるからこそのミュゼです。あのとき西條くんがこの街にいたのが大きいですが」
聖の名前が出て、まどかはちらっと店内に目を向ける。キッチンで、聖が忙しく立ち働く姿が見えた。
「西條さんって、やっぱりすごいんですよね」
「経歴は。実際、腕も素晴らしい。ただ、館長も想像はつくかと思いますが、『すごいひと』で居続けることは本当に難しい。気を抜かないように見張ってあげてください。どんな人間でも魔が差すことはある」
そこで、「あの~」と女性から声をかけられ、まどかはぱっと振り返る。
母親くらいの世代の女性、二人組。目が合うなり、堰を切ったように話し出す。
「今日オープンだって聞いて」「美術館見てようと思ったんだけど」「なんだか混みそうじゃない?」「予約できるの?」「ゆっくりできる?」「あらっ、蜷川さん、蜷川さんよ」「蜷川さーん!」
体をひねって店内をのぞきこみ、目当てを見つけたとばかりに声を張り上げて名を呼んだ。「あ、え? ええと」と対応しそびれてまどかも振り返ると、気づいた伊久磨が黒のソムリエエプロンを翻して颯爽と近づいてくる。
「おはようございます! ありがとうございます、来てくださったんですね」
「蜷川さんがうちに婿に来ないから!」
(婿?)
どういう会話? と首を傾げるまどかの前で、女性たちは伊久磨にまとわりついてやかましく喋りだす。
「あっという間に結婚しちゃって。うちの娘がまた行き遅れるわ~」
「行き遅れも何も。いまお嬢様に出会いが無いのは、どこかに出会うべき相手がいるからです」
「ま、よく言うわ。私は蜷川さんがそうだと思っていたのに。うまいこと言って逃げようとしちゃってまぁ~」
まぁ~、まぁ~。あはははは。
女性たちの声と軽やかな笑い声が重なり合う。
これはいじられてる? 助け舟は必要? とまどかはひたすらハラハラしていたが、そもそも伊久磨が鉄壁の笑顔を崩さず応じているのを見ていると、自分が手を出すことは何もない、と了解した。
その間に、伊久磨は流れるように整理券を渡し、「今日は混みそうなので、着席から一時間程度で、次のお客様のために席をお譲りくださるようお願いするかもしれません」と説明して了承を得ていた。その対応に満足したのか、「忙しいんでしょ」「またあとでね」と言い置いた女性たちは常設展の方へと去って行く。
「蜷川さん、さすがですね。なんていうか……女性得意ですね!」
褒めようとしたが、伊久磨に微笑まれた瞬間(ちょっと言い方間違えたな)と気づいた。それを訂正する間もなく、話が進む。
「本店によく来てくださるお客様なんです」
「その、婿に欲しがられていたんですか?」
「まず、店に身上書が届いて、シェフから婿に出されかけまして……。手強くて。あのときは、本当に婿にもらわれてしまうかとそれなりに危機感が」
(どうしよう、蜷川さんが何を言っているかわからない)
わからないなりに、いまは仕事の邪魔をしてはいけない、と思い直して「大変ですね!」と言っておくことにした。
「オープン十一時ですけど、整理券のお客様が戻ってきたら、時間前でも席にお通しします。本当にテラス席作らないといけないかもしれませんね。思った以上にお客様が来てくれそうで」
伊久磨がさっと話を切り替え、岩清水政道が「蜷川くんがいてくれて助かったよ」と答えている。
まどかは軽く会釈をして、受付カウンターへと戻った。
この賑わいを、今日だけのものにしてはいけないと、強く自分に言い聞かせる。
賑わうホールを見ていると、涙ぐみそうになる。
この先もずっと、こうして風を呼び込んでいこう。
そのまどかの目の前に、背の高い男性が立った。
「企画展と常設展、大人一人分で」
眼鏡をかけた顔立ちが、外国映画の俳優のように整っている。すらりとした体つきにも無駄な肉付きがなく、ひとめでナイスミドル、と確信する中年男性。
(美術館に来そうなタイプではあるけど……、「海の星」のお客様?)
「もし、美術館レストランのオープンに合わせていらしたのでしたら、店の前で整理券を配っていますよ」
せっかく来たのに入れなかったということにならないよう、まどかはすばやく必要事項を告げた。
男性は「いえいえ」と感じよく微笑んで、さりげない調子で答えた。
「近くに来たから寄ってみたんですが、今日は忙しいでしょう。元気に働いているなら良いんです」
関係者のような、そうでないような。
不思議な話し方をするひとだなと思ったが、次の客が現れて対応しているうちに、順路へと消えてしまっていた。




