珈琲の香りと本音
札幌育ちのエレナにとって、六月といえば「初夏」のイメージ。さらにいえば、梅雨のない北海道からすると、その時期の本州は毎日雨が降っていて薄暗くて肌寒い……漠然とそう考えていた。
しかし、暮らしてみればそれがいかに実態にそぐわない思い込みであったかよくわかる。
暑い。
まだ朝の早い時間だというのに、早くも日中のうだるような熱気を予感させる気温。
洗面室から男たちが退去しているのを確認して顔を洗い、部屋に戻って軽くメイク。普段から調理師学校通いということもあり、化粧は最小限しかしていない。それこそ、顔の印象が変わるようなことはないはず。すっぴんだと気づくのはよほど顔を見ているとしか。
――かわいい
思い出した瞬間、顔から火が出た。
(暑いせいだと思う……! 暑いから赤くなるし、樒さんもたぶん頭の中茹で上がってたんじゃないかな)
あれは何かの間違いだと思いながら、小さなバッグにスマホと財布だけを詰めて椿邸を出る。
すぐ近所の、セロ弾きのゴーシュに向かった。
引き戸に手をかけると、まだ朝六時前だというのに手応えがあって、からりと開く。
「ごめんください……」
中から、ふわっと珈琲の香りが溢れ出した。
「いらっしゃい。カウンターにどうぞ」
樒の声に誘われるように、エレナは店内に足を踏み入れる。
印象的な灰色の髪。ごつい黒縁メガネ。水仕事でもしていたのか、白い長袖シャツをまくりあげ、クリップ式のアームバンドで留めている。胸当て付のエプロンは焦げ茶色。
エレナにふっと視線を流してきて、「座って」と声をかけてきた。
「おはようございます。朝からお店を開けて頂いて、ありがとうございます。椿邸、今日はなんだか騒がしくて。落ち着いて珈琲飲めるの嬉しい……」
カウンターの椅子をひきながら、エレナは笑顔で言う。
「藤崎さんのために開けた。しばらく貸し切りだからゆっくりして行って」
藤崎さんの、ために。
平常心をかき集めた。
息が止まりそうになったのは、気づかれていないと信じたい。
(他意はないはず。ないはず。だって樒さんと私は……、始まらないで終わっているというか)
二週間ほど前。樒から告白らしきものを受け、「それがもし告白なら受けられない」というニュアンスでエレナは断りを入れていた。
この先、二人でいるのは無理だろうな……と互いに察するようなやりとりがあった。
要するに、すべてが曖昧なまま「だめらしい」「見込みがなさそう」と了解した形で終わっている。
エレナとしては、樒を翻弄しようとしたわけではなく、それがそのとき自分の示せる精一杯の「誠実さ」だと信じていたのだ。それなのに。
「なんだか樒さん、今日機嫌良いですか?」
「そうだね。朝から藤崎さんに会えたから」
「いや。いやいやいや、あれ……、ええと、そのリップサービスはどうしちゃったんですか。樒さんそういう感じじゃ……」
「軽い?」
コンロの上の薬缶から、湯の沸く音がする。
カウンター上の最低限の間接照明だけで、薄暗く暑さとは無縁の心地よい温度の店内に、窓からの爽やかな風が吹き込んできた。
珈琲を淹れる準備のため、年季の入ったミルで豆を挽く手元を見ながら、エレナはこの妙な空気はやり過ごそうと心に決める。
すべて受け流すのだ。大人の女のように。
「軽いというか、言われ慣れてないので。樒さんみたいなひとに言われると、ドキッとします」
「そう。それが狙い。この間香織に言われてさ。『そもそも樒さん、口説いたんですか? 雰囲気だけでわかってもらおうとして、通じなかったからだめだって諦めただけじゃないですか? それ、告白でもなんでもないですよね』って。嫌こと言うよな、あいつ」
エレナはひくっと頬をひきつらせた。
(香織さん? 樒さんに何言ったんですか? というかこの二人はそんなこと話す仲でしたっけ?)
そう思いつつも、そのことを咎められないのはエレナ自身、香織に泣きついた経緯があるからだ。「私の味方じゃないの?」とは言えない。香織が誰に肩入れし、どう振る舞うかは香織次第だ。エレナと樒の間に何かあったとわかってしまった以上、樒とやりとりが発生しても不思議はない。
「香織さんにそう言われて、樒さんもそう思ったってことですか」
探りを入れてしまう。
ネルドリップの準備をする自分の手元に目を落として、樒は「そうなんだよねえ」と言って口元に笑みを浮かべた。
「俺が藤崎さんにフラれたのはわかっているんだけど、それはそれとして。俺も、踏み込みすぎないように遠慮しすぎたのはあるなと。この年齢になると、好きになって、だめになったときのことを思うと、傷つかないように加減を考えて行動するから。自分にも相手にも負担にならない『好き』を見極めて動こうとした。それで失敗した」
「でもそれは、ふつうですよ。誰だって、傷つかない塩梅を考えます。落ち込んでも仕事しないと家賃が払えないとか、風邪ひいたわけでもないのに会社休めないとか。生活を維持できる落ち込み方を見越して、何事にも深入りしないのがクセになって」
人生をかけるような恋愛に憧れを抱いても、自分には無理だと初めから諦めている。
それでいて、運命の相手がどこかにいれば良いと思う。それはエレナにもよくわかる感覚だ。
(運命……、ある意味運命だった香織さんとの関係で、私は会社辞めて縁もゆかりもないここに引っ越してきているので。たぶん、この先、本気で恋愛したら生活がさらに変わっちゃうって警戒心が強い……)
コンロのつまみを、カチッと切る音。
しばし、珈琲を淹れるために樒は無言になり、エレナもその時間を厳かな気分で味わった。
いよいよ、湯を注がれた珈琲が、頭の芯がしびれるほどの香りを漂わせる。
やがて、ブルーのカップに珈琲を注いで、樒がエレナの前に差し出してきた。
「それで、嫌な香織が言うんだよ。『重く考えすぎ、遊びの恋愛すればいいのに。大人なんだから』って」
湯気が立ち上る。胸いっぱいに吸い込みながら、エレナは思わず樒の顔を見た。
(香織さんがそれを言うんだ? 自分はそれ、できるの?)
「つまり?」
眼鏡の奥から、ひどく澄んだ瞳に見つめ返された。
その目が、にこっと笑みを形作る。
「一利あると思った。この場所を動けない俺が、ここが地元ではない藤崎さんに交際を持ちかけるということは、故郷を捨てさせることになるとか。付き合う前から考えすぎていたけど、フラれた後になってみると無駄な悩みだったと自分に呆れた」
「真面目なのは悪いことではないと思いますが」
「それが魅力に変換されなかった時点で、藤崎さんにとっては意味のない真面目さだよな。むしろ、どうせ眼中に無いなら、この先俺は俺で好きにしようと開き直ったね。だから、かわいいと思ったらかわいいって言うし、すきあらばこうして二人になろうとする」
珈琲を飲もうと、カップに伸ばしていた手を思わず引っ込める。
「そんなにはっきり、二人になろうとしたって、下心を告白してくれなくてもいいですよっ?」
「大丈夫。俺に下心があろうがなかろうが、藤崎さんは気にしなければいいだけの話。俺が勝手に藤崎さんを好きでいるだけだから。だけど俺も男だから、あんまり俺の前で無防備にはなるなよ。朝に珈琲出すくらいなら変な気なんか起こさないけど、夜に二人で飲んだら、次は帰さない」
さらっと。
追い詰めるような危うさを見せつけながら、樒はにこにこと邪気のない笑みを浮かべる。
(に……、肉食の顔してた……!)
これまでつとめてエレナを脅かさないように振る舞っていた樒が、牙をむいた気配。
動揺を隠そうと、エレナはカップを手にする。珈琲をひとくち。美味しい。美味しいという正常な感覚の一方で、味なんてもうわからないと心の中でわめく自分。
「気を、気をつけます……」
なんとか言うと、樒はしれっとしたポーカーフェイスで答えた。
「今だから言うけど、ひとめぼれなんだ。目の前で珈琲飲んでいるだけですごく幸せ。毎日来てくれればいいのに」
「考えて、おきます」
「うん。待ってる」
逃げないと。このままでは追い詰められる。
そう思いつつも、エレナは椅子から立ち上がることもできずに、珈琲を飲み続けた。
★「樒さんが攻めてる……!」という感想が相次いだため、
ちょっと寄り道エピソード書きました。
(๑•̀ㅂ•́)و✧




