朝の挨拶
★新章です! よろしくお願いします!
まさか生きているうちに、自分が結婚する日がくるとは(生きていないと結婚できなくて、死んでからでは遅いのですが)。
* * *
「それじゃ、今日ミュゼのランチタイム終わったら一度戻ってくる……つもり。また連絡するから」
出勤にはいつもより少し早めの朝八時。
軽く朝食を済ませた伊久磨が、シャツの袖のボタンを留めながら静香に言う。普段から起きてすぐに顔を洗い、身支度をすませる伊久磨だが、今日はきっちりとしたグレーのスーツ。
六月十六日。
レストラン「海の星」の系列店「ミュゼ・ステラマリス」が、同じ市内の川沿いにある美術館にオープンする日。
本格レストランである本店とは違い、ランチとアフタヌーンティーがメインのカフェスタイル。
当初、「多少混んでもどうにかする。望むところだ」と、キッチンも接客もすべて西條聖ひとりでこなすことになっていたのだとか。「ひとを雇う余裕もないし、聖は大丈夫だろ」とオーナーである岩清水由春も同意していたものの、美術館の館長である野木沢まどかが待ったをかけた。「当面、昼間のピーク時は美術館スタッフがサービスと会計に入る」と。しかも、パート任せではシフトの問題や給料体系がややこしくなるからと、館長であるまどか自らが助っ人に入ることに。
「月曜日に一日だけ、館長も『海の星』で研修したって聞いたときはびっくりしたけど……。この土壇場で。野木沢館長、さすがの責任感」
ローテーブルに飲み干したコーヒーのマグカップを置き、静香も立ち上がる。
ハンガーにかかっていたジャケットを取り、伊久磨の背後に回って着せようとするが、「ありがとう」と言って受け取られた。伊久磨はひとりですべて身支度するのが身についているので、手伝いをあまり必要としない。
自分でさっと袖を通しながら、静香を見下ろして微笑む。
「館長、真面目だから。『海の星』と『ミュゼ』の接客のレベルが違いすぎたら申し訳ないって。俺からも少し心構えは伝えたけど、肝心なのは西條さんと息が合うかどうかかな。あの二人だから、心配はしていないけど。あとは今日、どのくらいお客様が来てくれるかだね」
話しながら、ワンルームの生活空間を横切り、キッチンを通り過ぎて玄関へと向かう。出社する伊久磨を見送るのはいつもの習慣で、静香も後に続いた。
一緒に暮らして、それなりの時間を過ごしてきているのに、毎日の別れに今も胸が小さく痛む。
(いってらっしゃいのキスなんて、最初の一、二回で照れてしなくなっちゃったけどね)
靴を履く伊久磨の背に向かい、静香はつとめて明るく声をかけた。
「常連さんには、ミュゼのオープンを案内しているんだよね?」
戸を背にして体ごと振り返った伊久磨は、丁寧に答えてくれる。
「お客様の方から聞いてくれる感じかな。西條シェフのファンも多いし、本店よりリーズナブルってことで、特に女性は関心がありそう。官公庁とか、オフィス街も近いから昼休みに足伸ばして、という需要もあるかも。ランチも良いけど、アフタヌーンティーも豪華だし。市内では珍しいし、『海の星』でも現状やってないから、俺も客として行ってみたい。そのうちビュッフェの日なんかも作ろうって話しているんだ。月一くらいで、予約になるだろうけど」
「絶対、人気出そう。だけど伊久磨くんは、お客さんとして行くのは難しそうだね。さくらが必要なくらい空いているならともかく、予約でいっぱいなら本店のスタッフがテーブル占めているっていうのも外聞が悪いって気にするでしょ。顔見知りもいそうだし。そもそも『海の星』の定休日開催にして、助っ人で入ることになるんじゃない? 今日みたいに」
静香が言い終えると、伊久磨が、くすっと笑った。
ちょうどこの日、「海の星」の定休日ではないが、伊久磨は休みをとっていた。誕生日であり、婚姻届を出すという数ヶ月前からの約束があったから。そして夜には、「海の星」で記念日ディナーの予定だった。
しかし、ミュゼ・ステラマリスのオープンが六月十六日と決まった段階で伊久磨の方から申し出たらしい。「その日、店は休む予定なので、手伝いにいけますよ。婚姻届出すだけならそんなに時間かかりませんし、決まった予定は夜のディナーだけなので」と。
結果、とても慌ただしい日となった。
伊久磨は朝からミュゼのオープンに開店準備。
静香も、少し遅れてフラワースタンドの納品に行く。実は、早朝から実家の作業場で作業をしてきて、一度アパートに戻ってきたところだった。伊久磨と朝食を一緒に取るために。
この後、すぐに実家に戻って最終確認、積み込み、配送、搬入作業が待っている。結局のところ、静香もミュゼのオープンに立ち会うことになる。すなわち、二人揃って仕事である。
休みをとるとは、なんだったのか。
(べつにいいけどね……! 仕事している方が、伊久磨くんらしいから)
その静香の心の声が聞こえたかのように、伊久磨が楽しげに言う。
「大切なミュゼのオープンと誕生日と結婚記念日が一緒だったら、さすがに俺でも忘れないかな。毎年この日がくるたびに思い出しそう」
「伊久磨くん、仕事が絡んだときの記憶力は人並み以上だもんね……!」
何かと忘れ去られたことも多い静香がそう言うと、伊久磨は目尻を下げ、子どものように顔をくしゃっとさせて笑った。
そのまま、腕を伸ばして来る。
(なんだろう?)
ゴミでもついていたかな? と自分の体に目を落としたところで軽く抱き寄せられ「静香」と低い声で呼ばれた。
顔を上げたところで、唇に唇が一瞬触れるだけの短いキス。
視線がぶつかった。胸が痛くなるほど、優しい瞳。
「いってきます。今日はよろしく」
「あ、うん、よろしくお願いします! ささっと納品行くんで!」
焦って早口になったが、伊久磨はにこにことしたまま、今度は額に口づけて言った。
「それもだけど、婚姻届。結婚。蜷川になってくれてありがとう」
「……はい!」
「じゃあね」
笑ったまま、今度こそドアを出て行く。
その後姿を見送ってから、静香は「はーっ」と長い息を吐き出した。
夢からさめたような感覚。少し力が抜ける。
この日、静香の夫になる伊久磨というひとは。
ときどき忘れっぽくて、ミュゼの周年記念でもなければきっとこの先、結婚記念日なんて自分の誕生日ごと忘れるようなひとだ。
だけど、こんなにも優しくて、「ありがとう」の言葉をくれる。
「好きだなぁ……」
ついに結婚できるんだ、と思うと満ち足りた気持ちになった。
このまま今日一日なんのトラブルもなく終われますように、と思わず祈る。
それは逸る気持ちを押さえる儀式のようなもの。
このときの静香は、まさかその日に限って何かあるなんて、ほんの少しも思っていなかった。