あまりまろきは、転びやすきぞ(3)
オレンジ頭は、真田幸尚、と名乗った。「海の星」の元従業員で、いまは東京のパティスリー勤務ということ。
奏に簡単に自己紹介をした後は、香織に店の奥の座敷に通され、茶を飲んでいた。
「まだ本決まりじゃないんで、ハルさんには言ってないんですけど。海外行くかもしれないんです。いま言葉勉強中」
「へえ、すごい。東京行って正解。『海の星』にいるより全然良いよ」
「そういう言い方するとハルさん傷つくんで、なんていうか。俺はべつに……、どこにいてもやることは変わらないけど、今はたまたまそういう話があるっていうだけで」
閉店業務の傍ら、奏は聞くとはなしに二人の会話に耳を傾ける。
「岩清水は喜ぶだけだと思うよ。ゆきを手放す前から、そこまで見越していただろうから。ここで終わって欲しくない、どこか遠くへ行って欲しいって。たぶん、一番思ってた」
「そうスかね。まぁ、経験しておくに越したことはないってのは時々言ってましたね」
客はもう来なかったが、レジでお金を数えたりしていれば、会話のすべてが聞こえるわけでもない。それでも、内容は奏にもなんとなく把握できた。
幸尚は香織より、ひとまわり若い。高卒か専門卒くらいで「海の星」に就職したのではないだろうか。
(一度は地方で就職したのに、東京行って海外って、よっぽど仕事に適性があって、才能もあるんだ。大学とか出ていなくても。髪がオレンジでも)
見た目だけでいえば、夜のコンビニ前でたむろって、ゲラゲラ笑って騒いでるメンツと何も変わらないのに。幸尚は、いつどんなときに、自分の前には道が開けていると気付いたんだろう。
遠くまでいける翼がその背にあると、確信が持てたのだろう。
時刻が十九時になったところで、奏は正面のドアに鍵をかけた。
和やかに話し込んでいる二人を振り返って、告げる。
「閉店しました」
「お疲れ様。さて、それじゃあゆきは材料買い出しに行く? 車出すよ。柳はついでに家まで一緒に送ってもいいけど」
「いえ、ケーキ見たいです。家には連絡するので。プロのひとが作るの、見たいんです。結婚祝いですよね、それってウェディングケーキですか?」
帰されてなるものかと奏が強気に言い返せば、香織に続いて座敷から立ち上がった幸尚が笑って言った。
「誕生日ケーキのつもりだったなぁ。式を挙げるときにこんな風に来れるとは限らないし、まぁ……そっちも兼ねて祝っても良いかな。一応、ニナさんは三年一緒に働いた同期だし」
横で聞いていた香織が、思い出したように口を挟む。
「岩清水が結婚したのは聞いてる? あいつ、伊久磨より先に4月の自分の誕生日に入籍してた」
「はいはい、聞いてます。ほんっと、仲良いですねハルさんとニナさん。ハルさんはニナさんに負けられなくて、ニナさんはそれ見越して譲った感じかなって思ってました」
「伊久磨の結婚が岩清水の後になったのは、ただの事務手続きミス。美談なんて何もない」
幸尚は軽く伸びをし、腕を伸ばして首をまわすストレッチの仕草をしながら、香織に目を向けた。
「ところで香織さんは?」
「俺の話はいいんだって」
「ええ……、ええっ!? あれ!? おかしいな、一番結婚しそうなひとなのに」
男同士の気安い会話の最中、香織の視線がすうっと奏に向けられ、すぐに通り過ぎて行った。
三人で連れ立って裏口から出て、小道を通って店の正面まで出たところで、香織が「車まわしてくる」と場を離れる。
幸尚と二人。
どうしようと思う間もなく、幸尚の方から奏に話しかけてきた。
「珍しいスね、椿屋に若い子。大学生?」
「高校中退です」
「あ~、そうなんだ。和菓子が好きで? 製菓に興味がある? ケーキ作りの何を見たいの?」
(答える前からどんどん話が移り変わって、置いていかれそう。頭の回転早い人だ)
緊張しながら、奏はぎきこちなく答えた。
「友達が結婚するんですけど、お祝いが何かわからなくて」
「おめでとうで良いんじゃない? それ以外に何が必要?」
幸尚のあっさりとした返しに、口をつぐみそうになる。しかし。
奏はこの短い期間の経験から、大人社会は遠慮をすると癖になる、ということはよくわかっていた。言えなかった言葉を待つひとはいないし、伝えられなかった思いは永遠に捨て置かれる。
聞かれて答えなければそこまで。
すっと息を吸い込んで、正面から幸尚を見上げて言う。
「私は、おめでとうもうまく言えないかもしれないんです。そういう性格で。だから、祝う気持ちみたいなの知りたいんです。真田さんは、仕事のお休み少なくて、勉強もあって忙しいのに、元同僚のお祝いのために東京からわざわざ来たんですよね? それはどんなお祝いのケーキになるんですか?」
「うん、そんなの、聞くまでもなく当たり前の話かな。どんなって、そりゃ最高のケーキだよ。それ以外に無い」
一瞬の躊躇いもなく答える、その強さ。
(最高の……)
「それは持てる技術の全部で、すごく良い材料を使って、そういう……」
「言ってる途中で自信がなくなるのは、自分が信じてないこと言ってるからだろうね。そうじゃないってのは、わかってるんだろ。最高の技術をつぎ込むのも、材料選びを真剣にするのも当たり前。でもさ、ものを作ってる人間は知ってるんだ。それだけじゃ特別にならないし、記憶に残らないし、もう一度食べたいと選んでもらえない。当たり前の先に最高があって、だけどそこには届くのは簡単じゃない。だから一回一回が真剣勝負。そういう真剣勝負のケーキを作る」
「相手が、知っているひとだからですか? いつものお客様よりも、特別だから?」
幸尚が、くしゃっと苦笑したのがわかった。はずれの質問をしてしまったなぁ、というのは奏でもわかる。何を聞きたかったのか、自分でもわからない。ただ知りたかったのだ。彼のものづくりを。
その気まずくなりかけた空気を払うように、幸尚が素早く言った。
「こういうときに、普段のお客様とか特別なお客様とか、そんな区別は無いよって言うのが正解なのはわかる。だけどさ、敢えて言うけど……、答えは君がもうさっき言ってた。忙しい時間を縫ってわざわざここまで来て、俺がケーキを作るって言ってんだよ。そんなの、特別な相手に決まってんじゃん」
本当に、聞き取りにくいほどの早口で。
横を向いてしまった頬がほんのり染まっていて。
そういった彼の態度が、言葉以上に雄弁に語っていた。
祝いたい相手がいて、祝いに来た。
自分が一番自信のあることで、最高のお祝いをしたい。
そのためのケーキなんだと。
普段のお客様よりも特別。だけど、わかりやすい形でそうとは言えない相手のために。
照れてしまった幸尚を見ているうちに、奏も落ち着かない気分になってきた。
顔をそらして、さかんに目を瞬く。
(私もこんな風にまっすぐに、お祝いをしたい。一人で焦ってごちゃごちゃ考えてばかりいないで、結婚おめでとうって言えるようになりたい)
なんだか涙が出てしまいそうで、一生懸命ごまかした。