あまりまろきは、転びやすきぞ(2)
「千三百円です。はい、千五百円お預かりしまして、二百円のお返しです。ありがとうございましたー」
緑の三角巾に、緑のエプロン姿でレジに立ち、奏は満面の笑みを浮かべて釣り銭を返す。
会計を終えた老人は「ああ、うん」と不明瞭なつぶやきを残して、和菓子を詰めた白の紙袋を手にするとさっと背を向けた。
会話等は特に発生せず。
(べ、べつに話したかったわけじゃないけど!? これだけ愛想よく言っても、顔すら見られないっていうね。レジ打ちって、仕事としてどう工夫すれば良いわけ?)
焦っても。
普段とは違うことをしなければと意気込んでも、日常は日常。
ならばその日常の中にどれだけの変化を生み出せるか。どんな仕事も手を抜かず、たとえば、「ありがとうございました」の言葉ひとつひとつにまごころを込めて……。
そう思って、奏はその日一日、自分なりに「ありがとうございました」を頑張ってみた。
結果、もう間もなく閉店という時間になっても、一切何も起きた実感がない。
一日で結果なんか出るわけないじゃんと頭ではわかっていても、希望が失望にすり替わっていくのを強く感じて、片手で胸を押さえる。
(ほら。努力しても期待しても何も起きない。こういうことの連続で、ひとは毎日の生活に希望を持つことにすら嫌気がさすようになるんだと思う)
もう店終いの準備に帰り支度もして、今日のことは忘れてしまおう。手始めにレジ周りの片付けも進めて、と下を向いたそのとき、カラリと引き戸が開く音。
「いらっしゃいませー……」
顔を上げつつ声をかけてから、奏は動きを止めた。
まず目に入ったのが、オレンジ色の頭髪。自然界の色ではない。耳にはバチバチとピアスが重ね付けられていて、奏を正面から見てきたのは目つきの鋭い三白眼。真っ白のパーカーは清潔そうだったが、ダボついたジーンズにはストリート感があり、総じて顔の作りこそ悪くなくともすこぶるガラの悪い男。
(早く出て行ってくれないかな、どう見ても和菓子楽しむタイプじゃ)
「あの」
「はい」
関わりたくないと思ったそばから声をかけられたが、奏は三ヶ月の店員仕事のおかげで即座に反応できた。内心では(帰って~!)とそれはもう正直に叫んでいたが。
しかし、思いは伝わるわけもなく。
男は近寄って来るなり、カウンター越しにほとんど睨むような目で奏を見てくる。
「椿の若さんいます?」
(とても目つきが怖いです。でも話し方はそこまで乱暴じゃないし、これはもしかして「目が悪いけどたまたまコンタクトもなくした」とかそういう目つきの悪さ?)
余計なことを考える余裕があったのは、正当な理由があって香織をこの場に呼びつけられる算段があったから。ひとりで対処しないで済むと思えば、気持ちが楽だ。
「椿という社員はひとりだけですが、社長の椿のことでしょうか」
「そうそう、香織さん。ゆきでーす、て言えばわかるから」
「少々お待ちください」
思った以上に、親しげな名乗りだった。奏が見るのは初めての相手だったが、「ゆきでーす」で通じるなんてもしかして元カレ? という考えもよぎる。
言うだけ言った男は、ショーケースの中の和菓子を眺め始めた。
(この時間、もう工場はしまってるし、椿香織は仕事上がって何もなければ母屋に……)
店の電話のそばには、客側から見えない位置に香織の携帯電話番号が書かれており、必要なときはいつでも電話するように言われている。
いまは必要なときだ、と奏はその番号を押した。呼び出し音数回。
――はい、椿です。何かありましたか。
「柳です。お店に、社長宛のお客様がきてます。オレンジの」
――オレンジ? 仕入れた覚えないけど、なんだろう。誰か頼んだのかな。
「いえあの、言い方間違えました。人間です」
――オレンジを配達しにきた人間?
「オレンジ色の人間です」
――よくわからないけど、わかった。とりあえず行く。電話切って大丈夫そう? 俺が行くまで無事?
「お菓子見ているので、大丈夫だと思います。切ります」
気を使った香織が通話のままにしそうだったので、奏は速やかに電話を切った。受話器を置いた瞬間、どっと疲労感に襲われる。
(用件伝えるだけなのに、私、すごい下手……。オレンジオレンジ言っちゃったし)
聞こえてないよね? とちらっと視線を向けると、ばっちり目が合ってしまった。
なぜか、にへらっと愛想よく笑われる。
これは聞こえていたなァ……と覚悟を決めた奏に対し、男は愛想よく言った。
「この髪、前はね、ピンクにしてたんだ。一回黒く染めたんだけど。オレンジじゃ香織さんわからないと思うな~」
(あ~、そういえば名前も名乗っていたのに言わなかった。私、本当に簡単な頼まれごともできない)
声を聞いたところで「ゆき」の件を思い出し、奏は「すみません」と無闇に謝った。
いつもいつも同じ仕事ばかりしていて、自分は成長しないんじゃないかと焦っていたくせに、実はその仕事すら満足に出来ていない。思い知る。
「べつに謝らなくてもいいけど。香織さん、どうせ家にいるでしょ。連絡してきてないけどまああのひとなら仕事以外ひまそうだし」
「おい、ゆき、挨拶だな」
店の奥、事務所や工場へと続く廊下を仕切る暖簾を片手でまくりあげ、私服姿の香織が姿を見せた。
奏はばつの悪い思いで上目遣いに様子を窺ったが、香織の表情は明るい。
カウンターを横切り、店内の通路に出ていきながら、香織は親しげにオレンジ男に話しかける。
「もう逃げ帰ってきたのか。早くないか」
「違いますって。ニナさんが明日の誕生日に『海の星』に予約入れてるって聞いて。しかもフローリストさんと結婚とか? ハルさんから『なんか伝えておくか?』て突然連絡きたから『デザートくらいは作りますよ』って。本当は当日来てそれだけやって帰るつもりだったんですけど、俺いまの店に入社以来全然休みとってなかったので、ここ連休にされちゃって……。デザートなら香織さんも差し入れ考えてないかなって、一応確認」
「全然。思いつきもしなかった。いまあそこ、調理場充実しているから外注なんて無いし。それでも、ゆきがわざわざケーキ作りに来たって聞いたら、伊久磨泣いちゃうと思うけど。あいつ結構泣くから」
横で聞いていた奏には、そのへんでようやくぽつぽつわかる名前があった。
(オレンジ色の「ゆき」さんは「海の星」の……元従業員って感じ? ケーキを作るひと? ニナさんはたぶんあのサービスの黒い人で、結婚のお祝いの話かな?)
「ケーキはどこで作るんだ? 『海の星』なら、本人と鉢合わせたらサプライズにならないよな。今ならうちの工場で作ってもいいぞ」
「えー、マジですか。水沢さん怒りませんか」
「いいよもう今日は工場閉めて、湛さん帰ってるし。ゆき、予定は?」
「予定は全然。ここ使わせてもらえるならありがたいです。俺、材料買ってきます」
ぽんぽんと話が決まっていく。
ぼさーっと聞いていた奏は、意を決してそこで声を上げた。
「あ、あの! ケーキを作るんですか? 作ってるの見たことがないんですけど、見学させてもらってもいいですか?」