王子様業、試練(5)
「えっ?」
廊下ですれ違いざまに驚いたような声を上げられて、聖は以降の会話を避けるべく、顔を背けた。
椿香織ともあろう者が、その反応を見落とすはずないのに「帰り早くない?」とわざわざ禁足地に土足で踏み込んでくる。
「早いと言えば早いかもな。お前はもう寝ろよ、明日も仕事だろ」
「少しくらいなら付き合える。飲む? ふられたの?」
「椿、早ぇよ結論が。俺はまだ何も言ってない」
聖が軽く睨みつければ、湯上がりらしくTシャツにハーフパンツ姿の香織は、にへら、と笑った。
「西條さぁ、なんでその顔でふられんの? 人生の使い方間違えてるよね」
「知らねえよ。椿だって顔だけ見ればそこそこ佳い男なのになんで毎日家と仕事場の往復だよ。明るい家族計画はどうしたんだ」
「余計なお世話」
「はいブーメラン。そういうことだ。そういうことだからな」
ここで話は終わり。そう締め切ったはずなのに、香織が食い下がった。
「俺、先週樒さんと飲んだんだ。ファミレスで。樒さんあれで結構落ち込んでて……」
「藤崎とうまくいかなかったんだろ。なんとなく察してる。つーか、ゴーシュ樒もあの顔でどうしてふられてんだよ。何をやったらそれを全部帳消しにできるくらいのマイナスになるのか、逆に知りたい」
「ということはやっぱり、西條もふられたんだ。うまくいくかと思っていたのに、残念」
いい加減にしろ、と聖が言う前に、香織は瞑目して合掌していた。「いずこよりいましあらぶる神とは存ぜぬも、かしこみかしこみ申す。うらみを忘れて鎮まり給え。俺に関わると婚期が遅くなるとか根も葉もない言いがかりはやめてくれ」お祈りまで聞こえてくる。
聖はぐったりと脱力しながら「祟り神扱いしてんじゃねえよ……」と溜息とともに吐き出した。
「だいたい、ふられてねえし。順調だと思ってるよ、俺は」
「それならもっと楽しそうにして、俺が聞く前から教えてくれても良いんじゃないか。今日どこ行ったとか、何食べたとか。そういう幸せの残り滓みたいなものくらい恵んでくれても」
「お前はお前で、病んでるよな。いまに始まったことじゃないけど」
話しながらいつの間にか台所についていて、手を洗っているうちに香織が「何飲む?」と聞いてくる。
「ヒューガルデンホワイト」
「俺もそうしよう」
お盆にビール瓶を二つ。栓抜きとグラス。「つまみ何かいる?」と聞かれ、聖は自分で作ろうかと考えるも、疲労感からやめた。
どんなに疲れていても、料理を面倒くさいと感じることなんて、なかったはずなのに。
本格的にやばいな、とそこでようやく自覚した。
疲れてしまったのだ。二人で過ごす、楽しいはずの時間に。
「甘くないものなら、なんでも良い。甘いのはいま受け付けない」
「和菓子屋にひどいこと言うけど、冷蔵庫に……ああ、炙りホタテのマリネと、大根と桜えびの塩炒めがある」
言いながらお盆の上にガラスタッパのまま惣菜を並べ、取皿や箸まで準備万端。手を貸すほどではなかったので、聖は先に立って居間へと向かい、閉めていた雨戸を開けて縁側を開放した。
お盆を床に置いた香織が、さっさとビールの栓を抜いてグラスに注ぐ。
少し離れて座って、乾杯をするでもなく、各々無言で飲んだ。
口火を切ったのは、香織だった。
「西條、俺本当はあんまり聞きたくないんだ。シュレディンガーの幸福な西條でいて欲しいから。だけどさ、すげー疲れた顔してるし、やっぱり聞いておく。野木沢館長とどうなの?」
遠くで、川の流れるさらさらという音がする。
庭の木々の間からは、虫の声。暗く影になった梢が、さわ、とひそやかに鳴る。
グラスをお盆に置き、聖は足を伸ばして両手を後ろに付き、夜空を見上げて目を細めた。
「好きになれる相手だと思ったし、好きになろうとしているところ。何度も好きって言っていれば現実になるんじゃないかと期待している」
「……俺がお前じゃなくて館長の友達だったら、このビールぶっかけてただろうね」
香織が苦り切った声で言う。聖はその責めに、不思議と心が落ち着くのを感じた。やっぱり自分は悪い人間なんだ、と心底ほっとした。
「世間的には弄んでいるって言うんだろうな。あんな真面目で、自己評価低くて臆病で、失敗したくなくて真っ正直に生きているような女をさ。俺みたいな根無し草で、バツイチで、ろくに責任ある生き方していないような男が」
「西條はそんな風に、自分を悪く言わない方が良い。良いところもたくさんあるのを俺は知っているよ。もちろんそれは免罪符にはならないし、女を弄ぶような男は地獄に落ちれば良いと思う。地獄に落ちたらきっと常緑さんには会えない」
「会わなくて良いよ。きっと俺のことはもう忘れてる。それで良いんだ」
投げやりな言葉を口にするときの、この妙な快感はどこからくるんだろう。普段自制している真っ黒な言葉が溢れ出して、空気に溶けていく。一呼吸ごとにそれを吸い戻し、身も心も重くなる。毒として内側に淀み溜まっていく。
「すごく罪悪感抱えているみたいだけど、好きになれそうだって思ったのは嘘じゃないんだよね? それはやっぱり、館長は他のひととは違うって西條の中で、そう感じるきっかけがあったんだろ」
「しいて言えば、絵、かな。そういう、何か大切なものがあるひとのそばが、落ち着くんだ。俺に依存しない、俺がいなくても生きていける、そういうひとが良いと思った」
「それさ」
不意に、香織の声がひどく冷ややかなものになった。
「常緑さんは、病気の事情もあってお前がいないと生きていけないひとだったかもしれないけど、お前はそれが嫌だったようには見えないんだ、俺には。お前たぶん、いざとなったら相手の全部を受け止めることができる奴だよ」
「褒めてる?」
言葉とは裏腹に、香織の口調には突き放す響きがあり、聖はあえて軽く聞き返す。
香織はにこりともしないままビールのグラスをあおり、庭に目を向けて答えた。
「お前が探しているのは、常緑さんの代わりじゃない。穂高先生だろ。どれだけ必要とされたくても必要としてくれない、そういう痛々しい関係を相手に望んでいるんじゃないのか。手に入らないからこそ価値がある、みたいな。館長も人を見る目くらいあるだろうし、警戒するだろうねそれは。気を許した瞬間にお前が、『そうじゃない』って不満そうな顔するんじゃないかって」
聖がその言葉に答えなかったことにより、しばらく会話が途切れた。
虫の声だけが聞こえる。
香織手製のつまみは味が良く、一口食べたら止まらなくなった。聖はもくもくと食べてビールを飲む。
「足りないな。おかわり」
「おい、西條、お前いまなんの話をしていたかすっかり忘れてるだろ」
「ああ」
呆れたように視線を流されたが、アルコールが入ると腹が空くのだ。聖は「無いなら作るか……」と言いながら立ち上がって、香織を見下ろす。
「リクエストあるか?」
「俺晩飯食ってるからね。軽いので」
「じゃあ、メインは簡単にオイルサーディンのオーブン焼きにでもするか。その前にサラダ作って。ホタテのマリネあれ、うまかったな」
「言っておくけど、コース料理作るなよ。俺はそんなに食わねえって」
「あれば食うだろ。絶対に。間違いない。俺が作るんだから」
だらりと縁側に仰向けに倒れ込みながら、香織は「勝手にしろ」と言って目を瞑った。その顔を見るとはなしに見ているうちに、聖は帰宅したときより格段に体が軽くなっていることに気付いた。
料理を作ろう、と思い立った瞬間に体が動いたのがその証。
「椿の料理で元気になってしまった……。素人に負けている場合では」
「俺の負けでいいから、変な勝負始めるなって。なんなんだよ。いきなり元気だな」
寝転がったまま、片目だけ開けて見上げてくる。その顔を見下ろし、聖はぽつりと言った。
「ありがとな」
「どういたしまして。祟り神になられると迷惑なんでね」
「うん。なんかすっきりした。言い訳だけど、俺自分で思っている以上に、館長のことはきちんと好きだと思う。でもそう思うたびに、常緑の代わりを探しているだけじゃないのか、それは相手を結局傷つけるだけじゃないかって、一人悩むんだ。だけどさ」
ん? と香織が先を促すように相槌。
聖は、心の底からの笑みを浮かべた。
「紘一郎を探してなんかいないよ。まだ生きているから。常緑に関しては、死んでいることを俺は受け入れている。他の誰でもない相手として、俺は館長のことが好きだし、遊んでなんかいない。自分のこと、そういう風に信じられる気がしてきた」
「ああそう。じゃあ次こそ朝帰り決めてくれ。高校生でもないのに、こんな時間に帰って来られたら俺が気にするから」
憎まれ口を叩いて、香織は再び目を瞑る。聖は、心配かけた手前、一応の言い訳を口にした。
「館長には、期限三日でミュゼのメニュー作りを依頼してしまって。さすがに時間が足りないから今日は帰って絵描きに集中したいんだってさ。だから引きとめなかっただけだ。まあその……心配ありがとう。俺はきちんと幸せになるし、隣にいるひとのことも幸せにするよ。それがお前じゃなくて悪かった」
「気遣い無用」
煽るような物言いは香織にいかにも嫌がられ、聖は笑いながら台所へと向かって歩き出す。
頭の中ではすでに、何を作ろうかと様々なメニューがひしめきあっていて、そこに居座ろうとしていた悩みをさっと押し流していた。
一日の終わりの満ち足りた気持ちにようやくたどり着いて、聖はほっとしながら手を洗い、そのまま掌を見つめた。
(病めるときも健やかなるときも。この手が動く限り、俺は料理を作り続ける)
それが自分ができる一番の、ひとを幸せにする方法だと信じているから。
幸せに。
★聖さんがひとりで楽しく料理をしている今頃、まどかさんはまどかさんで「無茶振りが過ぎる!!」て言いながらわりと楽しく絵を描いています。
★香織と聖、お互い「だが顔が良い」と思っていることが判明。自分たちで口にした割に、内心(あ、お前そんな風に思ってたんだ……)とちょっと動揺してそうです。
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