王子様業、試練(3)
美術館の開館時間に合わせて待ち合わせこそ早かったものの、隣県まで新幹線を使えば一時間と少し。
二人で慌ただしく乗車し、指定席を探して通路を進んで目当てのシートに行き着いたところで、聖が「窓側と通路側はどっちが良い?」と聞いてきた。
「窓際……」
「荷物は上にしまっておく?」
「ううん。そんなに大きなものじゃないし、時間も短いから膝に置いておく」
答えてから椅子に腰を下ろせば、聖も隣に座る。その振動が少しだけ体に伝わってきて、まどかはほっと息を吐き出した。
(女性に対して親切よね、基本的に。海外経験のせいか、それとも体が弱かった奥様がいた影響かわからないけど。普段あんなに押しが強いのに、無理に自分のわがまま押し付けてくることもない。優しい)
それでも交際経験の乏しいまどかとしては、気を抜けない。
今だけなのでは? 気を許した後は横柄になったり、パートナーに気を使わなくなったり……。いざそうなってから、惚れた弱みや出来上がった関係性に対する世間体、そういったものを気にして自分から振り切れなくなる。そればかりか、相手に入れ込んでしまい、周りの忠告も何も聞こえなくなってしまう。それは考えるだけで、恐ろしい。
臆病ゆえの、躊躇。
このまま好きになったら、自分だけが沼に落ちるのではないかと。
「先に美術館まわって、昼は美術館のカフェでと考えていたんだけど、大丈夫?」
スマホで目的地の美術館のサイトを見ながら、聖が声をかけてくる。
「はい。私も、毎日仕事だけで気づくとなかなか遠出しないから、最近はよその美術館もあまり行ってなくて。展覧会はチェックしていますし、東京近郊でいくつか重なると一泊二日くらいでまとめて見に行くことはありますけど。今日は良い機会でした」
「美術館カフェやレストランは、俺もヨーロッパにいるときあちこち見てると思うけど、日本のはそんなに行ってないんだよな。ここの美術館、カフェの名前に猫があって、メニューも猫の絵本仕立てになってるみたいで、実物見てみたくて。ミュゼでメニュー絵本やるとしたら、絵は館長だよな」
さらっとさりげなく言われて、まどかは思わず聖の横顔を見つめてしまった。絵本?
「そこのカフェはきちんと地元の画家に依頼をして作っているんですよね、たしか。ミュゼが本格アンティークの『海の星』の姉妹店であることを考えれば、メニューだって一流のものでなければ」
「館長は美大卒だし、地元の画家だ。明日にでも、手持ちの絵を見せて」
「だってもう、オープン来週……これ、いま話す内容ですか……!? こういうのって、もっと前に」
「『海の星』はメニュー無いから、俺もそれに慣れててすっかり忘れてたんだ。思いついたのが最近だから仕方ない、いまから急いで作る」
(どうして誰もこんなこと気付いてなかったの……!?)
言われてみれば自分も話題にしたことがなかった気がする。改装もほぼ終盤、家具類も決まり食器類も揃えてメニューの試作も終えていたので、いまさらメニューそのものが無いとは考えてもいなかった。
「この際、オープンに間に合えばいきなり完成品じゃなくても構わない。それこそ絵をコピーしてラミネートでも良いし、文字は手書きが良いなら由春がいる。権利的な話で言えば、美術館収蔵の絵をコピーするわけにはいかないだろうけど、館長が作者ならいろいろ融通きくよな? ミュゼの資金で買い取らせてもらえれば」
「私は、画家でもないし絵も売っていないですし……っ。だいたい、ミュゼに合うような絵なんて」
「なければ描けば良いし、ものがあって買い手がいるんだから描いた絵は売れるんだよ。問題ない」
問題しかない、の間違いでは。
「いまから描くにしても、オープン来週……。だいたい、何を描けと言うんですか。指定がなければ西條さんを描きますよ」
「俺か。美化しなくてもじゅうぶんイケメンだからな。メニューの持ち帰りや紛失が懸念される」
無言のまま、まどかは聖の腕を手でぎゅうっと押して自分から遠ざけた。
他の人なら笑い話でも、聖の場合は実際に「そう」なのでつっこむにつっこみきれない。だがもう少し遠慮というものを、と思ってしまう。
誰の目にもイケメンで、本人も自覚あり。自分の魅力を空恐ろしいほどに知っているとなれば、女性にどう迫れば良いかだってわかっているはず。やはり、自分のように経験値の低い女は簡単に転ばされる。自己評価低すぎと言われようと、まどかにとって聖は気を許しにくい相手だ。それこそ落ち込んだり、弱みを見せてくれていれば、勝機もあるかもしれないが。
「西條さんって、弱みありますか?」
思ったまま、ストレートに聞いてしまった。
まどかにぐいぐい押されて椅子の端に追いやられていた聖は、面白そうに見返してくる。
「『聖』って名前で呼んでくれたら、お近づきの印に教えるよ。どう?」
瞳がきらきらと輝いていて、口角が上がっている。その笑顔の破壊力に打ちのめされながら、まどかは(ここで退いたら、一生負け人生)と気持ちを強く目標を高く持ち、はっきりとした発音でその名前を呼んだ。
「聖」
「ん。よくできました」
破顔した聖が、座り直しながらまどかと距離を詰め、まどかの手に手を重ねる。
「つい、仕事の話になって、外なのに館長って呼んで悪かった。まどか、俺の弱点本当に知りたい?」
敗北。
(負けないつもりで名前を呼んだのに、カウンターで即死。ラスボスどころか裏ボス級。勝てない)
もうどんな策を弄したってレベルが足りてないものは仕方ない、と諦めがついて妙にさっぱりとした心境になった。
その勢いで「ぜひ知りたいです」と告げる。
聖は軽く身をかがめて、まどかの耳元に唇を寄せた。
低く甘く耳が蕩けそうな声で、まるで愛の言葉のように自身の弱点を囁く。
ゴキブリ、という節足動物の名称を。
あまりに罪深すぎる。
理解した瞬間、まどかは聖の体をゴキブリそのもののように渾身の力で通路側へと押しやり、遠ざけた。
★なお、本日の話題は青○県立美術館。十和○市現代美術館と行き先迷いました。