同病相憐れむって、一緒にしないでほしい(3)
横にいるだけで、全身が蝕まれていくような脱力感。
樒の全身から放たれる気怠さに、光樹は隣に座ったことを後悔しながら呟いた。
「ここは腐海の森……」
なぜかカウンターの内側にいる香織が「たまには毒出させてあげようよ。大人は綺麗なだけじゃいられないんだ」と鷹揚に言う。その横顔がにやついていて、(楽しんでいるなぁ)と思いつつ光樹は樒へと視線を流した。
(……これ、俺がどうにかする空気? ってことなの?)
「どうしたんですかって聞いた方が良いんですか。何日か前に会ったときと明らかにオーラが違うんですけど」
言ったそばから、後悔した。無理だ、と悟ったのだ。
うつ伏せの姿勢から、一応は体を起こしたもののやる気のなさを全開にしている樒は、つまらなそうに答える。
「聞かなくていいよ。話せば楽になるとか俺はああいう綺麗事信じない。だいたいにして言わない後悔より言ってしまった後悔の方が深いんだ。取り返せないからね」
「もうやだ……。俺はどうしてここにいるんだ」
光樹は、自分の身に不幸があったわけでもないのに、カウンターに両肘をつき両手で頭を抱えてしまった。
今日一日の行動をざっと頭でさらってみた結果、ここにいるのは静香の差し金で、香織の誘導だということを思い出したが、欲しかった答えはそれじゃない。
言ってみれば、存在意義のほうだ。
「和明さんはなんか変なもの垂れ流さないで欲しいし、香織さんはもう少し誠意を見せて欲しいし、なんなんですかこの空間。マジで腐海ですよ。きれいな土と水持ってきて埋め立ててやりてぇ。ぜんぶ」
段々自分でも何を言っているかわからなくなってきたが、この空間にあってはまだまだ正常の範囲だと信じている。
なお、言われ放題の香織はへらへら笑いながら「コーヒーどうやって淹れるのー?」とプロの道具をひっくり返しており、それに対して樒は「適当に泥水汲んでおけばそれらしくなる」と答えていた。控えめに言ってひどすぎる。
「二人とも……、もう少しまともな大人だった瞬間もありますよね? 思い出せませんか? こんな状態じゃなんていうか、だから結婚できないし彼女もいないんですねなんて大前提過ぎて話題にもできなごめんなさい」
謝った。
腐海の森の空気を胸いっぱいに吸い込んで、肺から脳まで汚染された結果、「いまさらテキパキ正論言っている場合じゃねえな」と右にならえをした。
もともと光樹は長いものには巻かれたい性格なのだ。巻かれてしまえば楽になれる。間違いない。
どっと疲れが襲ってきて、は~と深く息を吐きだした。その横で、樒も溜息をついていた。そして、誰にともなく言い出した。
「世の中には言わない方が良いことっていうのが確かにあって、たとえば俺が思うに『嫌味』なんかはその類だ。人間の作業効率を著しく下げる悪手でしかない。どんな場面であっても、嫌味を言われてやる気をだす人間はいないし、楽しい気分にだってならない。言う側にだけ『言ってやった』て感覚は残るけどね。目の前の相手が不倶戴天の敵でもなく、その一瞬むかついただけの相手ならまぁ、言わない方が良いよな。人間関係として。嫌な感情が残るだけだし。傷とかさ。そういうの、案外取り返しがつかなかったりする」
腕を伸ばして、樒の額の熱でもはかろうか、と思ってしまった。急に覚醒しすぎだ。日向ぼっこしていた老人が武器を手にした途端、往年の戦士みたいに矍鑠とするのは脳がバグるのでやめてほしい。そんなことを思いながら、光樹は腕を組んで考えてみる。
(嫌味は……たしかに。言うもんじゃないよな。それで解決する問題もないし、仲良くなる関係もないし、やる気が出るより嫌な気分になるほうが圧倒的に多い)
ぼーっと遠くを見ながら、樒は間延びした調子で続ける。
「そうやって、いま言う場面かなと思ったことも飲み込んでやり過ごしてくると、いろんな場面で『言わない』クセがついたりする弊害は若干ある。自分が何か言わないでも、大丈夫になってくるんだ。言っても意味ねーし、の積み重ね。相手に対するナイフの一突きを恐れているうちに、他人に関わる気力そのものを失うっていうかさ」
「わかるかもしれないです。関わらなければ何も起きなくて、少なくとも傷つけることはないですよね。近づかないのが一番なんですよ、人間なんて。知り合ったら、摩擦は避けられない」
勝手に湯を沸かしはじめていた香織が、ひとりうなずきながら「ヤマアラシのジレンマ」と呟いた。
ふ、と目元に笑みを滲ませた樒が「言うと思った」と言って、小さくふきだす。
それから、ようやく光樹に向き直り、「何しにきたの?」と初めて思いついたように言った。その雑な対応にほんのり傷つきつつ、光樹が「ごはんを……」と答えたところで、引き戸を開くからりという音が店内に響いた。