同病相憐れむって、一緒にしないでほしい(1)
店の戸に、鍵がかかっていない。
暖簾も出ている。とすれば、通常その店は営業中と認識される。
「……光樹、ちょっと待って。まともに瘴気浴びたらやばいからステイステイ、俺が先に行く」
椿屋の並びにある喫茶店「セロ弾きのゴーシュ」にて。
カラリと引き戸を開けて立ち止まった香織が、半笑いで振り返った。
「瘴気って。なんですかそれ」
「放置された死体から染み出してくる、触っちゃいけない何か。たとえるなら、ね」
「……」
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>セロ弾きのゴーシュ殺人事件!!<
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(そんなわけはないと思うんだけど、そんなわけだったらどうするんだろう……)
脳裏をよぎった物騒な言葉を否定しきれず、光樹は香織の広い背中を見る。
つややかな黒髪に、清潔感のある白いシャツ。
薄暮の青ざめた空気の中にあって、目にも鮮やかなその白が、セロ弾きのゴーシュの店内から染み出す闇に呑まれる。瘴気?
考えるより先に体が動いて、光樹は香織のシャツの裾を握りしめて引っ張ってしまった。
「待って、香織さん! 危険だと思います!」
「え?」
「闇が」
振り返った香織を見上げて、真顔で口走ってから光樹は唇を引き結んだ。
かぁぁ……と首から顔まで血がのぼってくる感覚。手を離し、拳を握りしめて、熱い頬を無意味に拭う。赤く染まった頬の色合いが、そんなことで収まるはずがないのに。
ついには俯いてしまった光樹の前で、香織は光樹の肩にぽん、と手をのせた。
「ありがとね」
「なんのお礼」
「心配してくれたことかな。俺、心配性だから普段は他人の心配いっぱいしているけど、俺自身はあんまり心配されることがないっていうか」
嬉しいようなこそばゆいような、と言う香織の表情が思った以上に照れていて、光樹は自分の恥ずかしい感情もいっとき忘れて首を傾げてしまった。
(……そうかなぁ。香織さんはある意味かなり心配なひとだと思うし、周りもそう思っているんじゃないかと)
椿香織に対して「心配ない」と太鼓判を押せるひとなどそうそういない気がする。むしろ光樹からすると「目の届かないところに行かれると生死すら危うい」危機感があり、静香の無茶振りを無下にできない理由も概ねそこだった。
どうも本人の認識がずれている、と思いながら口を開いた。
「香織さんがそう思うのは、やっぱり家族も彼女もいないからですかね」
「今日の光樹はドS大放出感謝デーか何かなの?」
「あっ、いえいえそんなつもりは! でも香織さんが良ければ今度電気ポットとか贈りますよ! 離れて暮らしているご老人の安否確認するやつです。ポットを使用している形跡がなくなると関係先に警告が出るやつ! これでみんな安心!」
(あれ?)
自分で言いながら(何か違う?)と目を瞬いた光樹。
香織は満面の笑みを浮かべて「ありがとうね」と言った。
それから、やにわに光樹の首に腕を回して胸元に引き寄せ「俺このままだと順調に独居老人になるからそれでよろしくね! なめんなよクソが」と一息に吐き出す。ただでさえ複雑な性格がさらに分裂してしまったようだった。
香織の肌に染み付いた、甘い香りに包まれながら光樹は目を白黒させ、「ごめんなさい」となんとか口にする。
「いいけど。彼女がいないことを笑う者だって、いつかは彼女がいないことに泣くことになるんだ。予言しておく」
「呪われた……」
ひどいこと言うなぁ、と思いながら光樹は体を離す。
細身で威圧感のない香織だが、近づいてみると長身で、そのギャップのようなものにいつも少し驚く。
光樹自身、中学生くらいから背が伸びて、いま時点で長身の部類なのだ。が、「海の星」にしろ香織周りにしろ、平均身長がそこだけ違う。光樹が知る限り一番背が高いのは伊久磨で、もうひとり。「セロ弾きのゴーシュ」の店主もまた、同様に見上げる高さだ。
生きていれば。
(生きているんだよな? 瘴気って結局なんなんだよ)
言うだけ言った香織は、何事もなかったようにさっさと「セロ弾きのゴーシュ」の店内に足を踏み入れていた。
その背が見えなくなって、約五秒後。
悲鳴が響いた。