後始末をするひと(2)
忙しい。
一日菓子作りだけに集中できるわけじゃなくて、「社長、この件なんですけど」と声をかけられたらそちらに行かなければならない。
店舗に「店長」を置いていないこともあり、問題があればかかりきりになる。
(そうやって削られていく時間が、湛さんとの力量の差、技術の開きにつながっていくような気がして、正直焦る。めちゃくちゃ焦っている)
職人として、二番手であることはもうだいぶ前に覚悟を決めたことだ。
何もかもを、心のままに追えるわけじゃない。役割分担として、水沢湛は「椿」の看板を背負って和菓子を作り続けていく職人。椿香織は、彼を支え、店を見守り、会社を動かしていく社長業優先。
それだけのことが、ときどきひどく苦しい。
仕事上がり、母屋に帰って着替え。
今日こそ二ヶ月先の新作を考えてしまおうと、手のひらサイズのスケッチブックを開いてしばらく静止。
えんぴつを投げ出して、香織は畳の上に倒れ込んだ。
「焦ってるのに……、手が動かない。考えなきゃ、作らなきゃいけないのに」
陽が翳ったのか、ガラス窓を透過する光は灰色に霞み、室内は薄暗い。寒くはない。そういった季節は通り過ぎて、すでに初夏。
辺りは静まり返っている。この時間帯、家の中にはひとりきり。どんなに大きな声で独り言を口にしても、耳にするひとは誰もいない。
普段は、深夜から早朝には人の気配がある。男女三人、共同生活。
それも、終わりの日が見えてしまった。
藤崎エレナが家を出ると言い出して、数日が経過していた。表面上何もなく、もうひとりの同居人である西條聖もその話題に触れることはない。だが、確実に知っている。いまや全員で窺い合っている。
どうやって終わらせようか。
なんと言って出ていこうか。
始めてしまったものに幕を下ろすのは、ともすると最初よりもずっと勇気がいるのだ。
過ぎた日々、増えた思い出、背負ってしまった感情。そのどれもが容赦なく、後ろ髪を引く。振り返らずに走り抜けられたら良いけど、もし立ち止まってしまったら。
(俺はきっと、その場から動けなくなる。どんなに大切に思っても、俺自身は誰かに大切にされることなく置いていかれると、また思い知ることになるから。何度も何度も)
繰り返される痛みは、自分が誰かの「一番」になれない限り、この先もずっと続く。
せめてもの救いは、「一番」ではないだけで、二番手以降に考えてくれている相手がすっと思い浮かぶことか。
完璧な孤独ではないし、周囲に蔑ろにされているわけでもない。ただこの先「家に帰ればひとり」「休日会う相手がいない・予定がない」「声をかけようにも相手はだいたい既婚者」という、同年代の独身者がだいたい直面することが自分の身にも起きるだけだ。
恋人がいないとか、結婚しないとか、そういった人生を選ぶ限り、それは当たり前に訪れること。
それこそ、悲壮な態度を取って誰かにすがるような深刻な事態ではない。単に「仕事以外の何か」を見つけて立ち寄り先、居場所を見つければいいだけの話なのだ。趣味等の。
「暇じゃないのに趣味を増やさないといけないとは。友達……友達か?」
呟いたとき、玄関で物音がした。
(湛さん? 西條や藤崎さんが帰ってくる時間じゃないし)
腰を浮かせながらスマホで時間を確認しようとし、手元に無いことに気づく。いつから持っていなかったんだろう、と記憶を追いかけている間に、玄関から「香織さーん」という呼び声が聞こえてきた。
光樹だと、すぐにわかった。
「いま行く!」
答えて廊下に出る。玄関に向かうと、学校帰りの制服のままの光樹が立っていた。
「どうした?」
「メッセージ送ってたんですけど、返事がなくて。お店寄ったら、もう家に帰ってるって言われたので来ました。突然すみません」
かしこまった口ぶりで言われて、香織はふっと口角を持ち上げた。
「いいよ。俺の方こそ悪いな。スマホをどっかに置いてきたみたいで、気づいてなかった」
「探しているなら俺、電話かけてスマホ鳴らしましょうか」
「音は切ってるから鳴らないんだよな。部屋かも。見てくるから上がって待ってて……、何か用?」
引き戸を背にした光樹は、「たいした用ではないんですけど」と焦ったように言う。
香織は目を瞬いてその様子を見てから、首を傾げる。
「べつにいいよって。たいした家じゃないし、たいした用じゃなくても」
「あ、なんかもう、すみません。お邪魔します……。たいした用じゃないというか、用事そのものがよくわかってないんですけど」
靴を揃えて脱ぎながら、光樹がぶつぶつと言う。掴みどころのない表現に、香織は「なにそれ」とさらに不思議そうに返した。
光樹はその反応を目の当たりにして、悩ましげに溜息をついて頷いた。どう説明しようか言葉を選びかねた様子で、口を開く。
「今日は、香織さんに姉の借りを返しに来たんです。姉がお世話になったそうで」
案内するように先に立っていた香織は肩越しに振り返り、眉をひそめて光樹を見た。
「特に身に覚えがないんだけど、それはお礼参り的何かなのか?」