後始末をするひと(1)
※45章に入る前に
「大人になるとさ、大人になれるんだよ」
近くで話しているクラスメートの会話を聞きながら、齋勝光樹は(なれません)と心の中だけで返事をした。
もしそれが「大人になると、大人になれるんだよ」ならわからなくもないが、ただ年齢を重ねただけでは「大人」になれないといまの光樹はよくわかっている。そう思うにつけ、子どもの頃抱いた「早く大人になりたい」という憧れの根拠のなさを忌々しく思うし、最近など「べつにならなくても良いかな……」なんて思ったりする。
なにしろ。
大人は、大変そうなのだ。
(普通の生き方モデルみたいなのが、まずさっぱりわからない……。「朝起きて会社に行って、毎日適当になんとかやってれば給料が入る」なんて働き方をしているひと、身近に誰もいないんだ)
本当に、ただのひとりもそういう知り合いがいない。
自営業、職人、フリーランス。かろうじて義兄にあたる伊久磨は「会社員」だが、デスクワークとは無縁そうで、やはり「ネズミ色のスーツで満員電車に揺られて」のイメージとはほど遠い。
大人や社会人とは何かを深く考えたことがなかったときは「いずれ何かにはなるんだろう」と思っていたが、バイト等で少しその世界に足を踏み入れただけでこうもバリエーションがあると知ってしまえば、自分は将来どうなるんだろうというのが、今まで以上に見えにくい。
(ピアノは好きだけど、ピアノで生きていこうとは思わないし。シェフみたいに料理で生きていくとか、姉ちゃんみたいにフリーランスで生きていくっていうのもキツそうだし……。「長いものに巻かれるように生きて最低限の稼ぎを得て、趣味の時間を充実」って、どうやったら実現できるのかな)
都合の良いことを考えながら教室を出たそのとき、制服ジャケットのポケットに入れていたスマホが振動した。
ちらりと画面を見ると、発信者は姉の静香。
“ひま?”
「……無視してぇな……」
思わず本音が口をついて出たが、「用件は?」と返す。すぐに電話がかかってきて、光樹は舌打ちしたい気分になりながら通話に切り替えた。
廊下で騒ぐ生徒たちの邪魔にならないよう、肩をすぼめてスマホを耳にあて、小声で尋ねる。
「何?」
――今日時間あるようなら、椿屋に行ってみてくれない? 香織の連絡先知ってるよね?
「知ってるけど、なんで?」
――このあいだ香織にちょっと借り作っちゃったんだけど、返してきてほしいのよ。何が良いかわからないから、あんたから聞いてきて。
「あの、なんで? 自分で行けばいい話じゃ」
変なことを言い出したなと思いながら聞けば、なぜか静香にはふうっと溜息をつかれた。
――私、今月結婚するんだよ。準備もあるし、ふらふら男友達に会ってるのも外聞悪いじゃない? なにしろ人妻ですからね。知ってる? 近所の齊藤さんなんかさ、銀行に勤めているんだけど、外回りで上司の運転する車の助手席に乗ってただけで、見かけたひとに「社内不倫している」って噂流されてたんだって。お母さんがそれ知り合いのひとに言われて、変だなと思って齊藤さんに聞いたら本人のけぞってたって。田舎怖~
(この話ずっと聞かなきゃだめなのか? なんだこれ)
突然、姉にまくしたてるように知らないおばさんの噂話を披露されて、光樹は押し黙ってしまった。実姉の押し付けがましい人妻アピールも、なんとなく興を削がれる。その沈黙の意味や空気を読まない静香は、「だからね」と傍若無人に話を続けた。
――椿屋って店舗と母屋が近いし、私がのこのこ通っていたらどこで誰に見られてどんな噂になるかわからないでしょ。香織にも悪いし。その点あんたならまぁ……、だからちょっと行ってきて!
「ああ、そう、そういう話。わからないでもないけど、香織さんはいま仕事中じゃないかな」
――連絡だけしとけば絶対時間作ってくれるから大丈夫大丈夫。じゃ、よろしくね!
ブツッ。
自分は言いたいことは全部言ったとばかりに、電話はそこで切れた。
光樹は、スマホを耳から遠ざけ、ぼんやりと画面を見つめてしまった。
さっぱり事情は飲み込めていないが、少なくとも発端である姉にもう一回話を聞いても無駄であろうということはわかる。一度目でろくな説明ができなかったのに、二回目は覚醒するなんてことは現実問題として、ありえない。
(香織さんに会うのはべつにいいけど。そもそも、借りってなんだよ?)
首を傾げつつ、光樹は香織へメッセージを送った。




