帰る先は
その考えはなかったと言った伊久磨を、由春は呆れきった目で見た。
「どうせ帰る先は一緒だろ。フローリストは関係者みたいなものだし、閉店後にそこで座って待っていても問題ない。お前はとっとと仕事を終わらせろ」
ようやく静香とまどかのテーブルに顔を出した伊久磨が「もうそろそろ閉店なので」と二人を送り出そうとしたのを、止めた形だった。言われた伊久磨があまりにぼさっとした顔つきだったので、由春は不安になったように念押しをし、まどかへと視線を向けた。
「館長も。椿の車でここまで来て、帰りのあしが無いなら聖が送る。聖はもう仕事上がりな」
「了解。さてどうする、館長。軽く飲み直す?」
即座に答えたのは聖で、テーブルについたままだったまどかが心配そうに口を開く。
「食事は済ませているんですか?」
「まだ。営業中は何も食ってない。蜷川も。そっか、どうせならみんなで焼き鳥屋にでも行くか?」
「うちはいい。今日は帰る」
聖がぐるりと居合わせた面々を見回したところで、由春が辞退。「うちは」というのは、明菜が朝からの勤務で、まだ店に残っているのを気にしているのがありありと透けていて、それ以上強引に誘える空気ではなかった。それなら、と聖はさらに視線をさまよわせる。
「藤崎は」
「疲れた顔していたぞ、やめておけ。そこの四人と飲むくらいなら帰って寝たいだろうよ」
「そっか。いろいろ話が途中になっていたけど、べつに急ぎじゃないから良いか」
由春が聖に思いとどまらせた形で、伊久磨は(ん?)と軽く首を傾げた。
(シェフはやっぱり、藤崎さんがいつもと違うと思ってる。家に帰れば香織がいるだろうけど、朝早いから寝てそう。やっぱり、樒さんと何かあったんだ。この状態で藤崎さんを一人にして大丈夫か?)
落ち込んでいるのなら、気になる。だが、自分と静香、聖とまどかという四人の中に誘うのは、伊久磨としても何かが危ないように感じた。人間は一人のときより、落ち着かない場にいるときの方が孤独を強く感じるときがあって、残念ながらこの組み合わせではかえってストレスを与えかねないと悟った。
そもそも、店のお客様とはその瞬間どんなに親しく会話しても友達にはならないように、スタッフとの関係も、職場ではどれほど信頼しあっていても仲間以上の何かになることは無い。伊久磨も、由春も、聖も、仮にエレナがどんな空虚さを抱えていても、仕事の繋がりを超えて干渉することはできない。
「よし。じゃあ片付けをするぞ」
由春が声をかけて、聖とキッチンへと引き上げていく。まどかが「お化粧室行ってきますね」と席を立ち、静香と伊久磨でほんのいっとき二人きりとなった。どちらからともなく顔を見合わせると、静香がへへ、と笑う。
「伊久磨くん、本当に今日は突然ごめんね。仕事している姿が見られて良かった。やっぱり仕事中の伊久磨くん、かっこいい」
「ありがとう。なかなかテーブルまで来られなくてごめん。今日の服装すごく似合って可愛いから、家で着替えないで待っててって言おうと思ってた。どこかに寄るのは歓迎だけど、西條さんたちと一緒で良かった?」
「うん。実は野木沢さんともその話をしてて。飲み直したいねって。だからお邪魔じゃないと思うけど、二人の雰囲気見て消えた方が良さそうならさっさと帰ろう」
「わかった。それじゃ、仕事終わらせるから。少しだけ待ってて」
伊久磨が立ち去ろうとすると、静香がその背に「可愛いって言った?」と小声で尋ねた。
すでに一歩進んでいた伊久磨は振り返り、静香を見る。期待に目を輝かせている顔を見て、くす、と笑みをこぼして小声で答えた。職場でなければキスをしていたと思う、と。
* * *
虫の知らせ、というのだろうか。
普段ならとうに自室で休んでいる時間帯、香織はぼんやりと居間でスマホをいじっていた。妙な胸騒ぎ。落ち着かない。
時間が二十二時をまわったところで、このままだらだらしていると誰かが帰って来て変な顔をする、と立ち上がる。
ちょうどそのとき、玄関で物音がした。引き戸の開け閉めで、帰って来たのはエレナだとあたりをつける。もう寝たふりをしようにも、どこかで顔を合わせるかもしれないと諦めて、廊下に出た。おかえりと声だけかけて、部屋に引き上げるつもりだった。
重い足取りで、エレナが廊下を歩いて来る。その音を耳にした瞬間、変だ、と直感した。
「藤崎さん、おかえり」
先手を打って廊下の角を曲がり、行く手をふさぐ形で立つ。エレナは俯いたまま、顔を上げることなく「起きていたの?」と言った。涙声だった。顔を上げられないはずだ。
香織は進退に悩み、結局その場にとどまって、尋ねた。
「何? どうしてそんな顔してるの?」
「……そこは気づかなかったふりをして」
「ごめん、もう気づいちゃった。なんで泣いてる? 壁に向かって独り言のつもりで良いから、俺に言ってみようか。溜め込むの良くないよ」
エレナはそろっと香織の横を通り抜けようとし、香織は溜息とともにその腕を遠慮なく掴んだ。
「無視すんな」
「寝かせてください」
「だめ」
「放っといてよ」
「やだ」
瞬間的に苛立ったように、エレナはついに泣き濡れた顔を上げて、香織を睨みつけた。
「だって香織さん、明日朝早いでしょ? それなのに私と飲める? 昨日も飲んで飲みすぎて水沢さんに怒られてるのに」
「湛さんに怒られたのは否定しないけど、飲めるし飲むよ。それで藤崎さんの気が晴れるなら朝まで付き合う。何飲む?」
「お茶」
「抹茶で良い?」
「やめて、手間をかけないで。カフェインなくて二人ともよく寝られるようなやつが良いの」
「すぐ淹れる。台所で飲もうか。ついでに、何も食べてないよね? 蕎麦でも茹でる?」
「カップラーメン。自分のある。お湯だけ沸かして」
そこで話がついて、二人で台所へと向かって歩き出す。エレナが鬱陶しそうに腕を振ると、香織が「おっとごめん忘れてた」とわざとらしく言って手を離した。
台所の手前で香織が立ち止まり、スイッチを探る。ぱち、と灯りがついたところで、エレナが深々と溜息をついた。
「疲れちゃった……」
並んだ位置から見下ろした香織は、「樒さんは?」とさらりと尋ねる。
エレナは答えないまま、その場にずぶずぶとしゃがみこんだ。