手に入らなかったもの
「ずいぶん煽られていたけど、よく耐えたな。お前も気が長くなったもんだよ」
キッチンに戻るなり、由春から声をかけられる。視線がぶつかり、伊久磨はわざとらしく目を見開いて笑った。
「店員としてここにいる以上、喧嘩して良い相手とだめな相手は理解しています。長谷部様は、レストランに来ておいて、店員が嫌いで仕方ないように見えるのは気になっていますが」
「俺はあの家族が普段同居じゃないって情報が鍵な気がしてるかな。アレルギーは後天的なものもある。たとえばうちの店に来る以前、息子が両親を高級レストランに招待したら、母親のアレルギーを伝えていなくて食べられないものだらけだったとか」
「あのくらいの年代だと、たとえば母親の還暦祝いの席なんてありえそうですね。東京の高い和食レストランを予約していたとして、いざ行ってみたら昆布出汁ベースの料理で、煮物や汁物に全然箸をつけられかったり……」
(しかも、その場で店員に何か嫌なことを言われたって線もあるか? 長谷部様の俺に対してのつっかかり方は、性格だとしても何か不自然だ。トラウマでもありそうな)
すでにフライパンを手にし、炎の上で軽く揺すっていた由春は「ありえる」と短く答えた。
「サプライズの祝いの席でたまにあるな。本人は良い店に招待したつもりが、ことごとく食べられないもので悲惨なことに。たとえ一流と呼ばれる店であっても、店員の全員が行き届いた対応ができるわけじゃないし、オーナーの方針もある。特にフォローもせず『ご予約時におうかがいしていません』で押し通した場合、予約者も招待客も気まずい食事になるだろう」
「『海の星』ではまずあり得ないですけど、他の店までどうかわからないですからね。出汁がだめとなると、仕込みの段階の話でしょうから、現実的にその場での対応が難しいことはありそうです」
もし長谷部が、祝いの席で両親を食事に招待し、家族揃ってきまずい思いをしたことがあったとして。今日のディナーは、その代わりかもしれない。やり直しの意味で、もう失敗したくない。だけど失敗のイメージが強すぎて、つい「店員」に対してきつくあたってしまう……。
「長谷部様、けなげキャラですね。なんとか力になりたいです」
「それは大部分お前の妄想の産物だと思うが、まあ、いい。何かしら問題のある席なのは、俺も感じた。あの息子はたぶん、親にいいところを見せたいだけだけのような気もする」
「シェフ、それをけなげと言うんですよ。うん、ひとまずその設定で様子を見てみます」
「任せた」
会話はそこで終了。
互いに、てきぱきと動き始める。
* * *
「甘鯛と黒トリュフのパイ包みです。骨はすべて抜いてありますので、どうぞそのまま召し上がってください」
前菜とスープと魚料理と進んだところで、それまでずっと皮肉げだった長谷部がようやく伊久磨にほっとしたように笑いかけた。
「高級店なんて言っても、東京あたりじゃもっと高い店なんかいくらでもあるから、期待してなかったんだけど。いまのところハズレ無しじゃん」
「ありがとうございます。シェフにも伝えます」
「さっきのメガネのひとだよね? 何年くらい修行してるんだ?」
「海外で数年ですね。帰国してこの店をオープンして、いま四年目に入ったところです」
「ちゃんと本場の味なんだ。もったいないね、こんな田舎で。良い腕してるのに」
機嫌良さそうに言って、サクサクのパイにナイフを入れ、一口。うまい、と呟く。
(……褒めてるな。岩清水さんのこと褒めてるよな、すごく。食事は毎日するけど、感動する料理は人生でそんなにたくさん出会えるものじゃない。作っているひとにまで興味が湧くような)
来店時からとげとげした雰囲気をまとっていた相手を、由春は自分の方へと振り向かせてしまう。話術や接客や容姿などではなく、料理の技術それだけで。
「本当に美味しいわ。このお店、あるのは知っていたけどなかなか来る機会がなくて。今日は息子が選んでくれたんだけど、来て良かった」
さらっと母親も笑顔で言い添える。長谷部は下を向いたまま食べていたが、口元が嬉しそうにほころんでいた。ひとり静かに食べていた父親が、伊久磨に声をかける。
「実は前に息子が招待してくれた店では、妻の食べられないものがあってね。ここはシェフが事前に確認してくれて、親切で良かった。普通出てこないでしょ、ああいうひとは」
「いえ、シェフは時間さえあればお客様とお話したいと考えています。特に今回は、シェフも言っていたように命に関わることですから、事前にお伺いできて当店としても安心しました。もちろん、ご予約時に教えて頂いていたので、メニューもご用意できていたのですが」
さりげなく長谷部に話を戻すと、長谷部は「前の店のことはいいよ、思い出したくもない」とぶっきらぼうに言った。母親が「お店は悪くなかったんだけど、行き違っちゃって」と首をすくめてみせる。それから「でも、ここは本当にまた来たいわ」と満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。料理は季節によって変わりますし、曜日によってはピアノの生演奏が入ることもあります。お昼も雰囲気が違いますから、また何かの機会にぜひ」
「おい、まだ料理あるだろ。勝手に締めるなよ。帰らねーぞ」
すかさず言われて、伊久磨は「ごゆっくりどうぞ」と笑いかけてテーブルを後にした。
キッチンに戻って、由春に「料理褒めてましたよ」と作業台越しに報告し、ついでに「たぶん予想通りです。今回の店は良かったって和やかになっています」と会話の流れを説明する。「わかった。引き続き頼む」と言われ、他のテーブルの進行状況を確認。
(明菜さんに残ってもらったおかげか余裕あるな。早めに上がってくれたら良いんだけど)
そのとき、すっと横にエレナが立った。目が合うと、物言いたげに見つめられたので「順調ですか?」と尋ねる。エレナは一瞬躊躇ってから、口を開いた。
「長谷部さまのお席、雰囲気良かったですね。蜷川さん、ああいうお席苦手かと思っていたんですけど、全然普通に接客していてすごいです」
「苦手かどうかで言えば、当たりが強いな~とは思いました。だけど、たぶん店員が誰でも変わらなかったと思いますし、それなら俺が担当する方が良いです。もし何か言いたいことがあるなら、自分で聞いた方が手打ちようがあります」
「長谷部さまって、ご両親にもなんとなくキツイ感じありますよね。蜷川さんの立場としては、そういう息子さんって嫌じゃないかと」
いつになく踏み込んで言われて、伊久磨はようやく、何を言わんとしているか思い当たる。「ああ」と頷いてから、エレナの考えているであろうことに触れた。
「長谷部様みたいな、親にも当たりが強い息子のこと、嫌いじゃないかってことですか。『親孝行できる身で、贅沢だな』って。俺の家族が死んでいることと、長谷部さまのご両親が健在なのは因果関係の無いことなので、繋げて考えることは無いです。もちろん羨ましくはありますよ。還暦祝いかなぁとか、いま親が生きていたら俺も店に招待したかったなとか。でもそれは、俺の人生では手に入らなかったものです。誰かを羨んだり嫉妬したりしても何も変わらないです」
ということを言おうとしていましたよね? と目で尋ねると、エレナはなぜか小さく笑った。
「蜷川さんは、いざ仕事となると本当に仕事に特化した考え方しますよね。あんまり私情が入らない」
「情が無いわけではないです。けなげキャラの長谷部様のことは心から応援しています」
「そうそう、目の前の仕事に一生懸命で、静香さんのこと全然気にしてない」
(今度は何に話が飛んだ? 静香?)
ちょうどデイシャップ台で各テーブルの進行状況は確認したばかりだったので、伊久磨は首を傾げつつ逆に尋ねた。
「食べるの早いなとは思ってました。もうメイン終わる頃ですよね」
「そうなんですよ。いつ蜷川さん、テーブルに来るのかなと思って。静香さんせっかく可愛い格好してきたのに」
「あっ……そっか。藤崎さんにお任せしていたので、そういう意味ではあまり気にしていなかったです。そうですね。家に帰ったら着替えないで待っていて、ゆっくり見せてって何かのタイミングで言ってみます。そうだな、気づかないうちに帰ってそう。さすがにその前に話したい」
完全にうっかりしていた。
にわかに伊久磨がああでもないこうでもないと言うと、エレナは柔らかく微笑み、独り言のように呟いた。
「蜷川さんにとって、お店のお客様はお客様で、きっと全員特別なんですよね。そういう仕事ぶりに憧れます」
褒められた気がして、伊久磨も笑いながら「ありがとうございます」と口にした。