見えない糸口
長谷部がエントランスに踏み入れると、ぱっと場が華やかになった。
おっ、と伊久磨は素直に感心する。
(言われてみればたしかに、このひと芸能人だな。オーラがある。見た目なのか内面かわからないけど、目を引きつけられる。……内面? このひとの内面……)
笑顔の裏で考え事をする伊久磨をよそに、長谷部は機嫌が良さそうにエントランスを見回した。
「へえ。夜になると雰囲気変わるな。明治大正時代のドラマのロケで使えそう。なかなか無いじゃん、こういう本格的な洋館」
「ありがとうございます」
「べつに店員さんのこと褒めたわけじゃないけどね。ここ、あんたの家じゃないだろうし、ただの雇われでしょ?」
(長谷部様は昼も夜も特にお変わりないですね)
来た来た長谷部様のこの感じ、と伊久磨は表情を変えずに笑顔で答える。
「たしかに、住んではいないですね。所有もしていません」
「じゃあいまの『ありがとう』って何に対して?」
「お越しくださって、店内の変化まで目にとめてくださってありがとうございます、です。明日からも掃除を頑張れそうです」
「あんたが掃除してるんだ。へー、小さな店だとなんでもやらなきゃいけないだろうから、大変だね」
長谷部の後ろにいた、母親らしき女性が「ちょっと」と長谷部に声をかけた。「よしなさい、失礼よ。何言ってるの」と眉をひそめて言う。それに対して、長谷部は「大丈夫だよ」と愛想よく笑った。そういった表情のひとつひとつが、雑誌の表紙みたいに様になっている。伊久磨はまたもや(さすが見た目はきちんと芸能人)と感心していたが、内面に対しての感想は留保することとした。そもそも大丈夫、とは? その疑問はすぐに解消された。
「こういうところの店員は失礼慣れしてるから。ほら、このひとも顔色変わってない。変なこと言う客だなって腹の底で馬鹿にしている程度だ。なぁ?」
同意を求められたところで、伊久磨は大げさに驚くか平淡に対応するか一瞬だけ判断に迷い、後者を選択した。さりげなくホールへと先導しながら、長谷部から目をそらさずに淡く微笑む。
「いろんなことに興味を持ってくださるお客様だなと思っていました。昼と夜で雰囲気が違うと言って頂くのは嬉しいです。それは、店として意識的に演出しているところなので。ロケで使えそう、というのはときどき仰るお客様はいますね。いつ申込みがあるかなって待っているんですけど」
「紹介して欲しい?」
「いえ、お客様にこちらからそういった要望をすることはありません。ここはお食事を楽しんで頂く場ですので」
接客しながら、これがまったく仕事関係なく出会った相手との会話だったらどうかな、と考えることがある。長谷部はいわゆる上から目線であり、店員である伊久磨が何を言っても皮肉っぽく受け取り、挑発してくる。とても友好的な会話が成立しているとは言い難い。
もともとそういうひとだから、なのか。客と店員だからなのか。
(どちらにせよ、多くは無いけど、こういうお客様はいるからな。腹も立たない)
仕事を始めた当初は、過度に試すような物言いをされれば困惑もしたが、いまはさほど引っかかることがなく受け答えができる。それも、一筋の嘘も交えずに、すべて自分自身の言葉で。
テーブルに案内して、椅子をひいて三人が座るのを見届ける。目が合った長谷部の母が、困ったように表情を歪めて伊久磨を見上げた。
「なんだかごめんなさいね。この子ときどきびっくりするようなことを言うから」
「母さん、謝らなくていいって。全然気にしてないから、そのひと」
謝っているところに、かぶせるように長谷部が言う。父親もまた困ったような顔をしていたが、口を挟む様子はない。伊久磨はちらっと一瞥で三人の力関係に想像を巡らせつつ、落ち着いた声で尋ねた。
「今日はどういったご用向きのお席ですか? ご家族で久しぶりの会食なのかと考えていたんですが、どなたかのお祝い事ですか」
「あら、何かサービスしてくれるの?」
「ご希望があるようでしたら」
「やめろよ、母さん。貧乏人じゃねえんだから、食いつくな」
目を輝かせた母親に対し、またもや長谷部が口を出し、会話を打ち切る。一瞬楽しげな空気になった母親が、みるみる間にしょんぼりと落ち込んだ表情になった。「べつにあんたに恥をかかせようと思ったわけじゃないのよ」と小声で言い訳まで。
それまで何を言われても動じなかった伊久磨であったが、この一瞬ですっと腹の底が冷えた。
(これはさすがに腹立つな。この息子は何様なんだ母親に対して。一事が万事この調子なら楽しい時間も楽しくなくなるだろうが。なんのためのディナーだよ。親を招待しておいてそれはどういうことなんだ。照れ隠しにしても思春期男子じゃあるまいし、もう少し思いやりってものを)
よほど何か言いそうになったそのとき、肩にぽん、と手が置かれた。そのまま、すっと軽く押されて立ち位置をずらされる。
なんで、と伊久磨は目の前の横顔に視線だけで問いかけたが、特に振り返ることもなく。
コックコート姿で現れた由春は、実に鮮やかに微笑んで、テーブルに向かって挨拶をした。
「本日はご来店いただきまして、ありがとうございます。料理担当の岩清水と申します。ご予約時にアレルギーをうかがっていたんですが、できればお料理を始める前に御本人様にいくつか確認したいことがございます。少しだけお時間をください」
「ああ、アレルギー……。大したことじゃないんですけど、海藻類を避けた方が良いってお医者さんに言われているので、外食だと和食が難しくなってしまって。洋食であれば、そんなに気にしなくても大丈夫なはずです」
答えたのは、母親本人。由春は頷きながら聞いていたが、「甲殻類はどうですか。あとは動物の内臓とか」と重ねて尋ねた。
「たくさんでなければ、大丈夫です。そんなに神経質になるほどじゃないので」
「ありがとうございます。アレルギーは命に関わることなので、当店としても対応には慎重でありたいと考えています。通常、メニューはお任せ頂いているんですが、今日はコースの内容をお持ちしましたので、先にご確認頂けますか」
さらりと言って、手書きのメニューを差し出す。前菜から「野菜のミルフィーユ仕立て」といった内容の想像がつきやすい名前で、使用する材料も書き連ねてあった。手書きとはいえ、由春の筆跡は非常に洗練されている。
綺麗な字ね、と言いながら一通り見てから顔を上げて「大丈夫そうです」と母親が笑顔で言った。
「このメニューは頂いても大丈夫?」
「どうぞ、差し上げます。料理に関しては担当の蜷川がそのつどご説明差し上げますが、何かご不明な点があればなんなりと仰ってください」
「ずいぶん親切ですね。お料理がすごく楽しみになってきました。アレルギーになってから、外食も避けていたので、今日は久しぶりで」
「母さん、いいから、そういう話は。引き止めていると料理出て来ないよ」
(それはそうなんだけど……、本人が話したがっているんだから。なんだろう、このギスギス。原因は長谷部さまだけど、理由がわからない)
伊久磨の仕事は料理を提供することであり、友人のように談笑しながら悩みを聞き出すことではない。出過ぎたサービスは害悪だと認識している。ただ、この空気のままこの家族を帰すわけにはいかない、というのもまた職業人としてひしひしと感じていた。
「それではごゆっくりどうぞ」
由春が立ち去り、ファーストドリンクのオーダーを取りながら、伊久磨は何が突破口になるか考える。
これまでの会話の中に、ヒントはあっただろうか?
前菜からデザートまで、一切気の抜けない食事の始まりだった。




