至るところに墓穴あり
「西條さん、また面白がって。ひとが悪いなぁ」
ごく正直な感想が口をついて出る。直後に、静香は慌てて口をつぐんだ。
(野木沢館長が好きなひと! 私にとっては小うるさくていけすかない相手でも、あの男は野木沢館長の好きなひと!)
ばつの悪い思いから気弱な表情になった静香の視線の先で、聖はにやにやといつも通り余裕の笑み。
「フローリスト、蜷川と喧嘩したのか? 原因はなんだ、椿か。椿だな。飽きないなぁ、そこの三人も。いつまでも成長が無いっていうか、毎回同じことで揉めて」
「いやいやいやいや、西條さん、独り合点もいい加減にして頂けます? 私まだ何も言ってませんよね?」
「違うのか?」
勢いで言い返したものの、完璧に確信している様子で聞き返されてしまい、静香は轟沈して俯いた。
やりとりを見守っていたまどかが、一瞬静まり返った隙にすかさず口を挟む。
「齋勝さんは、西條さんには遠慮なしに色々言いますけど、旦那さんには言えないんですか」
「えっ……いやあの、だって伊久磨くんにはそんな辛く当たる必要無いし……?」
とにかく不思議そうな顔で尋ねられ、静香は静香で動揺する。まどかは軽く眉をひそめ、「老婆心でうるさくて申し訳ないんだけど」と言った。
「椿さんには甘えられるし、西條さんには言いたいことを言えるのに、旦那さんにはそのどちらもうまくできないって。やっぱり、気を使いすぎというか、ものすごく我慢しているように見えます」
そんなこと無いですよ、と笑ってやりすごそうと思えばできた。そんなこと言われる筋合いにないですと突っぱねることも、できないことは無い。
しかし静香はそのどちらも、咄嗟に選ぶことができなかった。
(黙ってお店に来た私が悪いとはいえ、伊久磨くんにはあんなもやっとした反応はされたくなかった……。プロなんだから、お店でそこまで態度に出さなくても良いじゃんって思ったよね……)
苦い思いを噛み締めつつ、まどかに対して説明を試みる。
「香織は幼馴染だし、西條さんは喧嘩友達というか、わりと私にとってどう思われても良い相手だから言いたいこと言えちゃうのはあるんですけど……。伊久磨くんは」
ちらっと視線をさまよわせたそのとき、金色の泡が弾けるシャンパングラスが目に飛び込んできた。グラスと目が合った、そんな気がした。
迷う前に、手を伸ばす。
いただきますと断りだけいれて、ぐっと一息で飲み干した。心地よい冷たさと泡の爽快感、ほのかな甘さにふわっと気持ちが軽くなる。
グラスをテーブルに戻してから、改めてまどかに向き直った。
「私、伊久磨くんのことが、すっごく大切なんです。甘えるより甘やかしたいし、喧嘩するくらいならなんだって譲れるし、ぜんぶ伊久磨くんの好きにしてほしいって本気で思ってます。モラハラで洗脳されてるとかじゃなくて、伊久磨くんにこの先の人生、たくさんの幸せを感じて欲しいっていうのが結婚の一番の理由なので。私は私で伊久磨くんに毎日すごく大切にしてもらっていますし、それでその、伊久磨くんのことは王子様だと思ってるし、本当に大好きなんです……」
アルコールのせいだけではなく、かあっと顔に血が上ってくるのがわかる。まどかは「う」「あ」と意味をなさない呻き声を上げながら、こくこくと頷いていた。その反応が、なおさら静香の羞恥を煽る。
(ああああ、ドン引きされてる、もっとうまく言いたいのに言えない、私の馬鹿ッ……これじゃ絶対ただの変なひとだよ……!)
そうは思うものの、王子様は王子様で、別の言葉に置き換えることがどうしてもできなかった。
「傷つけないように気を使って、嫌われないように我慢しているとかじゃないんです。ただ、今日はせっかく伊久磨くんと外で会うから可愛くしてきたのに、あんな微妙な反応じゃなくて、もっと可愛いって言ってほしかったんです。それだけなんですっっ」
彼に気を使うのが嫌なのではなくて。
あまり嬉しそうな反応ではなかったことが、悲しかったのだ。
自分自身の落ち込みの原因に思い当たり、いよいよ静香も目の前がさーっと暗くなる。
(馬鹿? 私、馬鹿かな? 恋に恋して浮かれて周りが見えなくなってアップダウン激しくて迷惑かけまくって。何やってんだろっ)
「おい、わかった、フローリスト。わかったから飲め。一応聞くけどアルコールは大丈夫なんだよな? 弱くないなら、今日はもう好きなだけ飲んでおけ」
テーブル脇に待機していた聖が、妙に物わかりの良い様子で声をかけてきた。真っ赤になっていた静香は、八つ当たりのように聖を睨みつける。
「ほんとだよ……っ。こんなんだったら、今日は焼き鳥居酒屋にしておけば良かったっ」
「うるせえな。なんだそれ。今から俺が馬鹿上手い料理食わせるんだから、そこは黙って食っておけよ。焼き鳥は別の機会に蜷川と行け」
「そんなこと言っても、ここのお店、がぶがぶ飲むようなお酒置いてないじゃんっ。酔うだけなら高いお酒じゃなくて良いよ、でもいいや、もう飲みます。飲みます!」
無駄に威勢よく宣言したところで、エレナが通りがかった。「西條くん」と聖の背後に立って、ひそめた声で名を呼ぶ。
「何、たちの悪い煽りをしているの。静香さんも、乗せられてあげなくて大丈夫ですよ。西條くんはときどき悪ふざけが過ぎるから」
「違います、私が飲みたいだけです。昨日は伊久磨くんも飲んでいたみたいなので、今日は私も!」
勢いがついたまま静香が宣言すると、エレナは目を細めて小さく頷いた。
「もし静香さんが潰れても、蜷川さんがいますからね。ただ、今日は蜷川さん、少し難しいお客様の対応に入るので、お食事中あまりこちらの席には顔を出せないと思います。ですので、どうぞお酒は心配させない程度に」
「心配……」
「すると思いますよ。蜷川さん見ていると、わかります。やっぱり、静香さんは他のひととは全然違う特別です。もし『飲み過ぎかな?』と思うおかわりをお願いされたら、私の方からお断りすることもあります。本日は私がこのテーブルを担当させて頂きますので、よろしくお願いします。どうぞ最後までごゆっくり」
必要事項を過不足なく告げて、エレナが軽く会釈する。つられて頭を下げてから、静香は(藤崎さん、本当に大人っぽいな)としみじみ噛み締めた。
エレナは控えめな態度のまま「西條くん」と釘を刺すように一言。察したようで、聖も「それじゃ、料理始めるから、楽しい夜を」と最後は抜群の笑みで締めくくり、エレナとともにキッチンへと帰って行く。
その後姿をまどかとともに無言で見送ってから、どちらからともなく顔を見合わせた。
「藤崎さん、素敵ですよね……。東京の一流企業で社長秘書だったらしいですよ。落ち着いているし、ここに勤めてからもずっと綺麗」
「西條さんと高校時代からの知り合いで、いまは一緒に暮らしているんですよね」
ほんのりとした笑みを浮かべたまどかに言われて、静香は「あっ」と思わず声が出た。
「いやでもあそこは本当に友達だと思います! 亡くなった奥さんの友達だったみたいで、たぶんお互いに思い出話する間柄なんじゃないかなと。藤崎さんはもともと香織と付き合っていたわけだし!」
「椿社長と? あれ? ……一緒に暮らしているということは今も?」
(それは無さそうなんだけど。難しいんだよなぁ~、あそこの関係!)
経験上、よく知らないことに首をつっこんではならない、というのは静香もよくよくわかっていた。それでいて、目の前で不安そうなひとがいたら何か声をかけたいというのは性分であり。
要するに、魔が差した。
「どちらかといえば、西條さんよりは香織の方が可能性は高いと思います。復縁とか、絶対無いとは言えないんじゃないかなって。香織の家業を考えれば、ああいうひと、すごくお似合いだから。仕事できるし、気が利くし、学歴あるし美人だし」
聖から話を逸したい一心で、香織との関係を売り込んでしまう。他人事であり、憶測や不確実なことを言ったら後々まずいことになるのではと思いつつも、止まらず。
まどかは複雑そうな顔をしながらシャンパングラスに手を伸ばし、一口飲んでから静香に目を向けた。
「すみません、乾杯みたいな挨拶何もしないで」
「いえいえ、それは私が一気飲みしてしまったからですよっ、謝らないでください。はい、では、あらためまして乾杯」
空になったグラスを掲げたところで、まどかがくすっと笑った。
「椿社長、本当にそつがなくて紳士だけど私にはまだまだ謎が多くて。でも、藤崎さんがお相手ならなんだか安心しちゃいました。じゃあ、そこの二人もうまくいくといいですね」
「あ、う~ん、それはどうかわからないけど……」
「西條さんとの距離は私も気にしちゃいけないと思いつつ、気になっていたんです」
すっきりした顔で微笑まれると、静香としてもそれ以上の否定がしづらい。さらに言えば、自分が伊久磨とエレナの距離を気にしていただけに、まどかにだけ「気にするところじゃないですよ」とは言えない。
どうしよう、と思っているうちにエレナが一皿めのオードブルを運んでくるのが見えて、話題は有耶無耶になる。
黒髪を優雅にまとめあげ、薄い化粧をしただけの飾り気のない美女であるエレナを見ながら、静香は(やばい)と心の中で繰り返していた。
(た、ただでさえ針のむしろになりがちな藤崎さんのこと、はやく訂正しないと……!)
その思いから、目の前に皿を並べられたところで、料理説明をするエレナより先に口を開く。
「藤崎さんの、最近の恋愛事情についてお伺いしてもよろしいですか!?」
しん。
耳に痛いほどの静寂の後に、エレナはにこりと完璧な笑みを浮かべた。
「静香さん。今日は食事をしに来たんですよね? お腹空いてないんですか?」