恋心の軋む音
「野木沢さまご来店されてますよー、お連れ様はまさかの、蜷川さんの奥様です!」
黄色のブーケを持った明菜がパントリーに戻り、キッチンに声をかける。聖が、横を向いて吹き出した。笑いすぎて声を震わせながら言う。
「なにやってんだ、フローリスト。了解、結婚祝いってそういうことか」
一方、明菜の手元にちらっと目を向けた由春は、訝しむように眼鏡の奥の目を細めた。
「その花は? フローリストが作ったにしては、普段とテイストが違う気がする」
静香の手になるものには見えない、という。言われた明菜は真顔になり「そんなことまでわかるんですか?」と問い返して、手の中の花に目を落とした。
「たぶんこれ、作ったのは齋勝さんじゃないです。齋勝さんもお揃いのを持っていて、香織さんからと言っていたので、香織さんが花屋さんで買ったんじゃないかと」
「椿?」
「昨日のお詫びだそうで。差し入れも頂いてますよ」
「本人は?」
「特にお姿は見ていません。齋勝さんがお店に予約入れているって聞いて、いろいろ託したのかなって思っていたんですけど。仲良いんですね、齋勝さんと香織さん」
明菜の何気ない一言を最後に、キッチンはしんと静まり返る。
絶妙すぎる間。
何か失言でも? と首を傾げる明菜の後ろから、エレナが顔を出す。
「ご予約の工藤さまお見えです。注文等に特に変更はありません。お誕生日のお祝いで、お二人ともファーストドリンクはグラスシャンパン。シェフ、お料理はじめてください」
清潔感のある白のシャツに黒のスカート、黒のエプロン姿。さっさと歩き出したところで不自然な静けさに気づいた様子。辺りを見回して「どうしました?」と落ち着いた声で言った。
オリオンが代表して「なんでもないよ」と柔らかに答えて微笑む。それを合図のように、キッチンのメンバーは粛々と動き出した。
エレナは明菜に向かい、軽く眉をひそめた。
「これ以上残っていると帰るタイミング逃しますよ。朝早くから出ているのに、夜の営業もだなんて」
「大丈夫です。難しいアレルギー対応のご予約も頂いたので、特別料理も見ておきたいんです。テーブルは蜷川さんが担当ですが。藤崎さんは、野木沢館長ですね。ご来店になってます」
「お見かけしました。お連れ様、静香さんでしたね」
「サプライズだったみたいです。蜷川さんもびっくりしていたので」
話している間に、差し入れの紙袋を手にした伊久磨がパントリーに戻り、入れ違いに明菜が「十八時の長谷部さまそろそろだと思うので、お迎えに出ます」とブーケを置いてからホールへと出て行った。
伊久磨と顔を合わせたエレナは「あ」と短く声を上げた。
「蜷川さん、変な顔してます」
「もとからこういう顔ですよ」
「静香さんが来たのに、そんな顔ってあります? 何か問題でも?」
笑顔で数秒固まった後、伊久磨は顔をそむけてうなだれた。
聖が、ステンレス台を回り込んでずかずかと歩いてきて「おいちょっと待て、それどういう反応だ」とすかさず口を挟む。
は~、と暗澹たるため息を吐いてから、伊久磨は聖に微笑みかけた。
「すみません、未熟者で。失敗しました。挽回します」
「失敗早ぇな。何したんだよ?」
「西條さんも、野木沢さまのテーブルへご挨拶に行ってみるといいですよ。面白い話が聞けます」
そこまで言って、伊久磨は「ファーストドリンクをお願いします。俺も長谷部さまのお迎え行ってきます。ご案内から自分で担当したいので」と言ってから紙袋を軽く持ち上げると、由春に向かって言った。
「野木沢さまから差し入れ頂戴しています。香織からも」
「聞いてる。館長の予約今日だったのに、耳が早いというか手回しが良すぎるというか。何なんだあいつは」
「何なんでしょうね。静香と明菜さんに花束。野木沢館長には……」
そこで、にこっと笑う。エレナと並んでドリンクの準備に移っていた聖が「何?」と顔だけ向けて言った。伊久磨は「ぜひご本人の口から」と話を切り上げて紙袋をブーケの横に置き、ホールへと戻って行く。
首を傾げながら、聖はシルバーのトレイを二枚持つ。二席分、四杯のシャンパンを手早く注いだエレナが、聖の手にしたトレイにグラスを二つずつのせた。その手元を見ながら、聖が独り言のように呟いた。
「椿は何なんだ……?」
「いつも通りなんじゃない? ただそのいつも通りが、人とは違うのよね。香織さんは『迷うくらいだったら、できることは全部しておこう』って覚悟で常日頃生きているみたいだけど、それって普通のひとにはできないことだから。本人に自覚があるかは知らないけど」
「そうだな。あいつが面倒事を避ける性格なら、自宅に何人も他人を住ませていないだろうから」
椿邸の同居人二人、顔を見合わせてうなずき合う。聖はエレナに「ドリンク、サンキュ」と素早く言って身を翻し、ホールへと向かった。
エレナもまたトレイを手にしてから、ちらりとブーケと紙袋の置かれたコーナーへ目を向ける。
前夜、男性社員たちと香織で飲み会からの朝帰りとなった、という話は出社早々に耳にしていた。その間のエレナの行動に関しては、特に探りを入れられたわけでもない。今は静観の時期と、誰もが余計なことを言わないようにしている節がある。
エレナはブーケをじっと見つめてから目をそらし、ホールへと向かった。
* * *
伊久磨が静香をテーブルまで案内してから立ち去った後。
明らかに顔色の変わっている静香を見るに見かねて、まどかは身を乗り出し、こそっと声を潜めて尋ねた。
「齋勝さん、旦那さんと何かありました? ぎくしゃくしてませんでした?」
途端、静香は「うわわわわわぁぁ!?」と素っ頓狂な声を上げ、椅子の上でのけぞった。
その声量と反応にまどかは目をむき「え、ちょ、あの」と声をかけながら腰を浮かせる。
静香は「大丈夫です大丈夫、すみませんすみません」と椅子の背にしがみつきながら、息も絶え絶えに答えた。ずり落ちかけていた体勢を立て直し、ふうっと大きく息を吐き出す。
「そう見えます? 私、すぐに顔に出ちゃうんです。どうしよう。笑おう、笑おう、よし笑っていこう」
両頬に両手をあてて、ぴしぴしと喝を入れるように軽く叩く。不用意に声をかけないように気をつけて呼吸を止めていたまどかは、そこでようやく自分も座り直した。
「やっぱり、突然来たのがいけなかったんでしょうか?」
「ああ、いえ、そういうんじゃないんです。そうじゃなくて、私が気が利かなくて彼を傷つけちゃって」
「気が利かない場面なんてありました? そんなに彼に気を使っていて、この先大丈夫ですか。そもそも今日ここに来たのだって、齋勝さんが彼の朝帰りですごく悩んでいたからなのに」
そこまで言って、まどかは口をつぐむ。言い過ぎた。たとえ一日一緒に過ごし、これから食事をする仲といっても、静香との関係は友達と呼べるものではない。これまでろくに話したこともなかったのに、踏み込み過ぎたかもしれない。
静香は困ったような微笑を浮かべて「そうじゃないんですけど」と答えてから、ためらいがちに言った。
「今日お世話になった香織……、椿さんと私は幼馴染の間柄であって、恋愛とは関係ないんです。私に恋人ができて結婚すると決まった以上、けじめをつけて離れようって暗黙の了解も、二人の間にありました。香織はそのへんの線引ききちんとしているから、私に対しては『夫婦になるんだから、一番に頼るのも相談するのも伊久磨で』って。たぶん伊久磨くんにもすごく言ってると思う……。だけど、今日の香織は伊久磨くんが朝帰りした責任感じていたし、私に親切することが伊久磨くんのためになると信じて買い物とか付き合ってくれたと思うんです。結果的にそれが……」
言いにくそうに言葉を選びながら切々と話す静香を前に、まどかは胸の痛みに耐えて大きく頷いた。
「服を選んでもらったり、車で送ってもらったり、それはもう言う事なしのエスコートでしたよね」
「香織はそういうこと、出来過ぎちゃうんです。全部先回りしてやっちゃう。甘やかしがすごい! わかっていたのにずるずるお世話になってしまって。浮気じゃないんだけど、なんだろう、甘える相手が違うだろって。わかりますかこの感じ」
「わかる気がします。椿社長のあの身内のような気遣い、悪いことしていないのに後ろめたいような。優しすぎてこう、沼……!」
「もちろん、香織のせいにしている場合じゃなくて、迂闊なのは私なんですけど、私がこんな状態で伊久磨くんに『昨日の飲みに藤崎さんもいた?』なんて気にするのがもう全部間違えている……。自分はどうなんだって、ああ~~やっちゃった~~」
髪をかきむしりそうな勢いで嘆く静香を前に、まどかも何度も頷いてしまう。
(結婚すると言っても、相手に対しての思いが落ち着くわけじゃなくて。好きだから気になるし、自分の迂闊な言動で傷つけたくないと心配する。恋をしている間は、恋する気持ちからどうしても降りることはできない……)
まどかは「結婚したら恋心は落ち着いていくものだ」と思い込もうとしていた。毎日ドキドキしたりなんかしない、日常になる、過度に気にしたりすることなんか無いのだと。
しかしいざ静香のような美人までもが思い悩む姿を見ると、不安はいや増してくる。
西條聖のようなひとは、自分にはやはり難しいのでは?
胸の痛みが強くなったそのとき。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。フローリスト、結婚祝いだってな。館長から聞いてメニュー俺が作ったから。期待しておけ。気に入った料理があったら結婚式に出しても」
明るく言いながら、二人の前にシャンパングラスを差し出してきたのは、曇りのない笑顔の聖。
まどかに耳打ちするように体を折り「夜もいいだろ、この店」と囁いてから姿勢を正す。
胸をそらして二人の顔を交互に見て、にっと口の端を吊り上げた。
「それで、なんか面白い話があるって聞いてきたけど。何? 俺にも詳しく教えて?」