困らせるほどに近いのに
――大丈夫。似合うから、履いてみてよ。
香織が静香にすすめたのは、ヒールのある華奢なパンプス。試着室から「こんなの無理だからっ」と焦って言っても、香織は「そのワンピース、足元目立つよ?」と一切譲らず、「ですよね?」と女性店員に話を振っていた。店員は「おっしゃる通りです」力強く頷くのみ。
静香がそのとき身につけていたのはクラシカルで繊細、透けないデコルテレースに、ウェストの高い位置で切り替えているワンピース。袖もレースで、スカート部分はシフォンプリーツ、膝下がのぞく丈。たしかに、いつも履いているスニーカーよりパンプスが合う。恐る恐る、足をのせて履いてみると、ぐっと視界が高くなった錯覚があった。
当然だ。長身の自覚のある静香は、ヒールのある靴を履いたことがない。これではかなりの大女になると気後れしてしまったが、距離を詰めて並んで立った香織は、なんでもないことのように言った。
――静香の男は伊久磨だ。それでちょうど良いね。
(……自分も背が高いくせに)
ヒールを履いた静香より、なお目線の位置が高い。静香は香織を異性として意識してはいないが、それでも客観的に彼のスペックが相当なものであることはわかる。所作、気遣い、容姿。
香織、いまは誰か、好きなひといる?
聞けるはずのない問いは喉の奥に押し留め、勧められるままに服と靴を買い揃えた。
そして海の星に着いたいま、胸には青い花のブーケを抱えている。立ち上る花の匂いに、香織のまとう甘い香りまで混ざり込んでいる気がした。もうその場にはいないのに。
なお、荷物は多い。道具の詰まったバッグや、元々の着替えを詰めてもらった紙袋も肩に引っ掛けている。
駐車場からレストランへの道すがら、同じように荷物を抱えて並んだまどかが「なんだか緊張しますね」と薄笑いを浮かべて言った。
表門を通り過ぎたとき、さっと洋館のドアが開いた。
見覚えのある女性が、前庭の小道を急ぎ足で向かってくる。
「いらっしゃいませ、野木沢さま。お連れ様、齋勝さまだったんですね。サプライズですね!」
ふわっと笑って出迎えてくれたのは、オーナーシェフの結婚相手である明菜。地味ながら仕立ての良いグレーのワンピースに、白いエプロン。髪は編み込みで結い上げて後ろでまとめてあり、童話の中の少女のような可憐さであった。
「こんにちは、今日はお世話になります。驚かそうと思っていたわけじゃないんだけど、なんかこう、伝えそびれて……」
静香はしどろもどろになりつつ、香織から預かっていた黄色のブーケをその手に押し付けた。不思議そうな顔をされる前に、言い訳を口にする。
「香織からです。昨日旦那さん借りちゃったから、そのお詫びって」
「ああ……、この花、すごく良い香りですね。お詫びだなんて、春さんは自分で行って楽しんできたんだから、気にしなくて良いのに」
花に顔を埋めて呟き、明菜は微笑みを浮かべる。
その横顔に、見惚れた。もとから可愛らしい顔立ちはしていたが、溢れ出る幸福オーラが眩しすぎる。隣のまどかも目を細めていたので、気持ちは静香と同じに違いない。
明菜はふっと視線を流してきて、笑顔のまま言った。
「お荷物お持ちしますよ。今日はお買い物帰りでしょうか」
「そ、そう。そうなんだけど、私の荷物は別に大丈夫。あの、野木沢さんはっ」
「私もっ。シェフの奥様を荷物持ちにだなんてとんでもないです。これより重いもの普段たくさん持っているのでっ」
持たれてなるものかと静香とまどがが荷物をかばう。明菜は「私も普段、業務用小麦粉の袋とか持っているので力は……。あっ、すみません、力自慢のタイミングではないですね」と茶目っ気混じりに言った。
(いちいち感じが良くて可愛い……っ。さすがシェフ、よく見つけてくるよね、こんなぴったりな相手)
明菜は長々と食い下がることもなく、「それでは、足元お気をつけくださいね」と言いながら先導して歩き始めた。
* * *
「いらっしゃいませ」
入り口をくぐり抜けてエントランスに踏み入れると、黒尽くめの服装の伊久磨が声をかけてきた。
静香と目が合うと、笑顔のまま静止する。
くすっと明菜が笑って、伊久磨のそばに歩み寄った。
「サプライズ! 蜷川さん、びっくりしてますね」
「はい。驚いています」
答えたときにはすでに完璧な営業スマイル。黙っていた引け目のある静香の方が、怯むほどに非の打ち所がない。
「お荷物クロークでお預かりします。お席で特に使われないのであれば……」
客に対応するセリフで迫られて、静香は手回りのバッグ以外を渡す。まどかは明菜に荷物を渡していた。一度受け取った明菜は伊久磨に全部渡して「蜷川さん、私はこのまま野木沢さまをお席にご案内します」と短く断りを入れる。ちらり、と静香を見た目には、親切そのものの光が宿っている。
(あーっ、これって、「野木沢さんを連れて行くから、二人で少し話したらどうです?」みたいな)
如才ない態度を崩さない伊久磨がであるが、驚いているのが静香にはわかる。おそらく、明菜も気づいているのであろう。話す時間を作ろうとしてくれているらしい。
伊久磨は全部の荷物を受け取ってから、明菜に「そのブーケは?」と聞いた。
「香織さんから、私へだそうです。昨日のお詫びって。相変わらず手回しがすごい」
「そうだ、お店に差し入れあるんですけど、香織からも預かってる。オープンしたばかりのピクルス専門店のピクルスだって。酒のつまみにしてないで、まかないでどうぞって……」
明菜の説明を引き継ぎ、静香から伊久磨に渡した紙袋を示すと、伊久磨がぼやっとした表情で静香を見た。
「なんで香織?」
「買い物中に偶然会って、昨日のこと気にしていて。ついでに自分からのお土産も持って行ってって託された」
伊久磨の視線が、静香の手にしているブーケを確認してから、流れて行った。もの言いたげな表情だったのは一瞬、カウンター奥のクロークに荷物を置きに行く。その間に「野木沢さま、こちらに」と明菜がまどかを連れて行った。
すぐに伊久磨がエントランスに戻ってくる。
周囲に他の客の姿はなく、二人きり。
改めてじっと頭のてっぺんから足の先まで見られて、静香は意味もなく笑みを浮かべた。
「野木沢さんとばったり会って、盛り上がって食事に行こうってその場で話がまとまったんだけど。せっかくお店に来るから綺麗な服装にしようと思って。黙って来てごめん」
「びっくりしたけど、来てくれて嬉しい。その服も似合ってて、綺麗で可愛い。見たことない服だし、靴も普段と違う。そういうのあんまり履かないイメージだった」
「これはね、香織が。伊久磨くんは背が高いからヒールあるの履いても大丈夫って。本当にそう、思い切って履いてみて良かった……」
いつもながら、さらっと「可愛い」て言うなぁ、と照れつつ早口で答える。しかし、伊久磨の表情が妙に冴えないことに気づいて、静香は言葉尻を濁した。
嬉しいと口では言うわりに、あまり嬉しそうではない。
迷惑だった? と、聞けずにいるうちに、伊久磨がブーケを見て言った。
「明菜さんと色違い……、それも香織? 昨日のお詫びで、服を選んで花を贈って」
あっ、と静香は小さく息を呑む。
(長い付き合いとまでは言えないけど、伊久磨くんのことだからわかる。声の感じがいつもより暗いし、これは落ち込んでいる)
「たしかに服は選んでもらったけど、たくさん見すぎて何が良いかわからなくなったって言ったら、エレベーター下りた正面のお店でマネキン指さして『上から下まで』てざっくり決めてもらっただけだよ。試着したら悪くなかったから、納得して……。花は、野木沢さんが『結婚祝い』の食事って言ったから、香織が気を回して買ってくれてて。深い意味は全然ない、だって香織だよ?」
まどかが一緒だったし、男女の空気であったわけでもない。待ち合わせしたわけでもなく出会い、香織に時間があったから付き合ってもらっただけ。その事実をなんとか伝えようとしたものの。
伊久磨は寂しげに目を細めて、唇に淡い笑みを浮かべた。
「大丈夫、わかっているから。ただ、その……、自己嫌悪みたいなの」
「なんで?」
渦巻く思いを堪えすぎて、無表情となった横顔。静香から目をそらした伊久磨は、低い声で答える。
「昨日のこと、俺はまだきちんと謝ってない。そんな中で今日お店に来てくれたのは、静香にも思うところがあるんじゃないかと。怒っていて当然なのに、服装に気をつけたり、差し入れまで用意してくれて……。すごくありがたいと思ってるんだ。俺はそうやって静香の手を煩わせたり困らせるほど静香の近くにいるのに、肝心なときにそばにいないことが悔しくて。困っている静香を助けてくれるのは、今でも俺じゃなくて香織なんだな、て」
(伊久磨くんが今日、私のそばにいなかったのは仕事中だからで……。私が服を選んだのは伊久磨くんに可愛いと言ってもらいたかったからで、香織はそのへんわかってて黒子みたいに協力してくれただけだし。花だって明菜さんとお揃いで、深い意味はなくて……)
言いたいことはたくさんあるのに、うまく言葉にできない。誰にも悪意の無いことで落ち込まないでほしいと思う反面、伊久磨の感じている無力感もわからないわけではない。悪いことをしてしまったような後味の悪さが、ほんのり。
「ごめん、変なこと言った。席に案内する。西條さんもはりきってるし、今日は食事を楽しんで行ってね。来てくれて本当にありがとう」
伊久磨は空気を振り払うように笑い、歩き出す。その後ろに続きながら、静香は重苦しいものが胸の中に広がっていくのを感じていた。
傷つけるつもりなんて、なかったのに。
うまく言えなかったばかりに、すれ違ってしまった気がする。
(どうにか……、この空気、どうにか食事が終わるまでに挽回しないと……!)




