誰?
「今晩の席、空いてますか。予約できますか!?」
威勢よく響いた声。
エントランスに姿を見せたのは、伊久磨と同年代の若い男。クリムゾンレッドのシャツに、細身のジーンズ。毛先を跳ねさせたクセのある髪型で、まなざしは鋭く、野性味あふれる荒削りな顔立ちをしている。
見た瞬間、喉元まで名前が出かかったが、そこで止まった。出て来ない。
(知り合いではない……。店のお客様でもないと思う、けど。見覚えはある)
伊久磨は、失礼にならない程度に相手を見つつ、記憶を探った。「海の星」で働き始めてから接客した相手については覚えているようにしているが、おそらく違う。料理、テーブル、ドリンク、普段なら自然と紐づいて思い出すような情報が、何もない。
絶対見たことあるのにおかしいな、と不思議に思いさりげなく話しかけた。
「お時間帯と、人数様は」
「夜、三人。時間か……十八時頃かな。たぶんそのくらい。だめなら電話する」
言うだけ言って、「じゃ」といきなり背を向け、出ていこうとした。予想外の動きに伊久磨は「お待ち下さい」と呼び止める。
まだ、話が終わっていない。始まってすらいない。
「お席はご用意できます。当店は完全予約制ではありませんが、ご予約頂いた際は、アレルギー等いくつか事前確認させて頂いております。少しだけお時間よろしいですか」
「ああ、うん。アレルギーは何かあったかな。ヨウ素アレルギーだったかな?」
「ヨウ素?」
気軽に言われたが、確認が必要な案件だった。伊久磨は緊張しつつ聞き返した。
「ご同席の方でしょうか。具体的に、どういった食材を避けた方が良いというのはありますか?」
「よくわからない。普段そこまで気を遣っているようには見えないけど、たしか海藻がだめって言ってた。昆布だしとかも。だから和食は危ないって。ここ和食の店じゃないよな?」
発声が良いのか、その声には張りがあり、よく響く。
男はキョロキョロとエントランスを見回した。
伊久磨の横で聞いていた明菜が「当店では、昆布だしは通常の料理には使いません。ですがそのアレルギーは、甲殻類もあまり良くないのでは」と控えめに発言した。ぱっと振り返った男が「あー! そうだった気がする!!」と答える。
明菜に知識があったことにほっとしつつも、伊久磨は男の態度に不安を募らせた。アレルギーは命に関わるが、オーダー時に突然言われても対応が難しい場合もある。そのテーブルの調理に関して、単に料理を変更するだけでなく、包丁から鍋等の器材すべて変えて調理するからだ。
男は焦っているのか、忙しない性格なのか、浮足立っている。今にも店から出て行ってしまいそうだが、逃してなるものかと伊久磨は重ねて尋ねた。
「ヨウ素アレルギー対応とのことで、承りました。当店はコース料理のみです。恐れ入りますが、三種類の中からこの場で選択して頂けますか。選んでいただいたコースをベースに、料理に変更を加えます。場合によっては品数が変わることもありますが、テーブルの皆様全員で、アレルギー対応の内容で揃えるということで大丈夫ですか」
基本的に、ひとつのテーブルでは同じコースでお願いしている。
その上で、「甲殻類アレルギーだけど、食材そのまま入ってなければ良いよ」というお客様がひとりだけいた場合など、同じ進行でさりげなく内容を変えることもある。帆立貝のオードブルを一人分だけサーモンやローストビーフにしたりといった、目立たない変更だ。
しかし、ヨウ素アレルギー対応の料理は伊久磨もすぐに想像がつかない。由春の知識であれば対応は可能だと思うものの、大幅な変更が必要になったとき、ひとつのテーブルで細かく料理を作り分けるのはキッチンの負担になる。
経験上、そこは予約係の言い方ひとつと心得ているため、全員同じ料理で大丈夫かと確認したのだ。
にやり、と皮肉っぽく笑って、男は言った。
「違うのが良いって言ったら、違うの作ってくれるの? 三人いるから三種類のコースひとつずつ、とか。そのくらいのわがまま聞けるよね? それとも断っちゃう? 東京でもそんなにお高くとまったお店はあんまり無いんじゃないかな~。こんな田舎で、客数も限られているだろうに客に自分らのやり方押し付けるつもり? そんなんでやっていけるの?」
試すようなまなざしが、ヒリリと肌を撫でていく。
お世辞にも感じが良いとは言えない話しぶりに、伊久磨はごく穏やかな表情と声を意識して、答えた。
「三つのコースに関しては、金額別で、スープ等で共通する料理もありつつ大きな違いは品数です。全員でバラバラにすると、進行にずれが生じるのでオススメしておりません。たくさんの料理を召し上がりたいというご希望であれば、一番上のコースが品数が一番多いです」
「そうやって、高いの、高いのすすめて店として生き残ろうとしてる? どう、儲けてる?」
(……絡まれてるなこれ、完全に)
「おかげさまでなんとか、この春で三年目を迎えました。お客様に支えて頂いていること、感謝しております」
微笑を浮かべて応じると、男は鼻白んだ様子で伊久磨を見たが、それ以上食い下がることはなかった。
「そうなんだ。久しぶりにこっち帰ってきたら近所に高い店できて流行ってるって聞いてさ。まあいいや。一番高いのでいいよ。料理はおまかせで。アレルギーは俺の母親」
「どうもありがとうございます。今晩はご家族での会食ですか?」
「たまにしか顔見せないからね。なんか高いの食わせておけば納得するだろうし」
店員としてのペースを崩さずに話す伊久磨に対し、男はくだけた口調で投げやりに言った。あけすけとした物言いで、隠し立てしない性格のようにも感じられた。
(気は抜けないけど、「嫌な相手」と決めてかかって対応しなければ、意外に話せるお客様かもしれない……)
刺すような発言の数々に思うところはあったが、客と店員として敵対関係にはなるまい、と自分に言い聞かせる。接客する前から「苦手」の先入観を持ってしまうと、夜の時間が辛くなる。あくまでフラットに、平常心で接しよう。
いつも通りに、自分のできる限りの力で、家族の久しぶりの会食を楽しい時間に。
「ではお客様……お客様!?」
呼びかけたときには、すでに男はドアから半分外へ出かけていた。伊久磨は思わず歩み寄りながら呼びかける。
「恐れ入ります、お名前とご連絡先を」
「あ?」
非常に剣呑な返答ともに、男は伊久磨を見た。
視線がぶつかる。
(……この目。この顔。どこかで見たのは確かなんだけど、なんだろう)
何度か来店したことのある「その筋」のお客様を思い出し、どなたかの舎弟だろうか? と記憶を探るも、決め手に欠ける。そもそも、これまでの話の内容からするに、地元はここだが普段は東京、といった様子だ。店に来るのも初めてらしい。よくわからない。
息を詰めてにらみ合う数秒の後、男はぼそりと言った。
「長谷部透。連絡先はいいだろ、来るから。事故でもない限り。このへん他に店ねぇし」
(嫌だ……! アレルギー対応の料理まで用意するのに、このお客様、気分で突然来なくなりそうだし、電話番号くらいは絶対聞きたい……!)
内心では激しく抵抗していたが、伊久磨は(信じる心、信じる心。こうなったらこのひとを信じよう)となんとか思い直す。
もちろん店のルールに即して何がなんでも教えてください、と言えないこともなかった。だが、嫌がっているとわかっていながらそこまでしなくても良い、と判断した。特に根拠はなく、勘。これ以上店のルールに従って欲しいと強制すると、このお客様は確実にへそを曲げて拗ねて攻撃的になる、と。
「承知しました。では本日十八時にお待ちしております」
長谷部の側まで歩み寄り、ドアを開けて押さえながら、伊久磨は笑顔で告げた。
身長差は十センチほどか。決して小さくはない長谷部だが、間近に立った伊久磨を見上げて「でけぇな」と呟いた。それから、独り言のように続けた。
「俺のこと知らない?」
(知りません。誰なんだよ本当に。言ってくれ)
よほど言い返しそうになったが、理性総動員で堪えたところで、カウンターの内側から明菜が声を上げた。
「長谷部さまでいらっしゃいますよね。ご活躍はよく拝見しています。当店に足を運んで頂き光栄です。夜のご来店お待ち申し上げております」
その一言で納得したかどうかはわからないが、長谷部は口の端を吊り上げて笑うと「じゃあまたあとで」と言い残し、出て行った。
その背に向かって頭を下げて、表門を出ていくのを確認してから、伊久磨は明菜を振り返る。
「誰ですか。俺、全然わからなかったです」
「うん、蜷川さん、そうじゃないかって思ってた。俳優さんだよ。私もテレビ詳しくないけど、地元出身だからかろうじて知ってた……」
「あー、なるほど。それで、全世界が俺を知ってる、みたいな。そっか、言われてみれば何かで見たことあります。本名かな、芸名かな、検索しておこう」
夜のご来店までになるべく情報収集をして……と思いつつ、伊久磨はやりきれない思いとともに吐息した。
「藤崎さんには振らないで、なるべく俺が担当するようにします」
「感じ悪かっ……、いやいや気難しそうだったもんね。まずはシェフにアレルギー対応の件言って打ち合わせてきて。掃除しておくから」
「ありがとうございます」
お客様の悪口を言わないというのは、「海の星」では誰もが気をつけていること。よほど何か言いそうになりながらも、二人でぐっと堪えて、それぞれの仕事へと戻っていく。
長い夜が始まりそうだった。