身内との距離
「本日はどうもありがとうございました」
ランチの時間帯、最後のテーブル。
女性三人の席の個別会計を手際よくこなして、エントランスを通過する際に先導し、ドアを開ける。美味しかったわ、と声をかけられて伊久磨は笑顔で応じた。
そのまま最後の一人の後について表門まで見送り、「またお待ちしております」と丁寧に頭を下げる。
明るい話し声が遠のいてから、ゆっくりと顔を上げた。
――主婦は楽だって言うけど、全然。こんな食事が出来るようになったのも最近、ようやくよ。
――うちもうちも。ずーっと自分のことは後回し。カレンダーは子どもの予定ばかり。買い物するときも子どもの食べるもので献立考えて買うし、自分の誕生日ケーキも子どもがショートケーキしか食べないからいつもそればかり。本当はチョコレートケーキのホールを買ってみたかった。
――誕生日するだけマシよ~。うちはいつもお母さんのことなんか知らん顔。母の日は思い出したようにごはん作ろうか? なんて言うけど、口だけ。
食事中。料理を運んだ伊久磨が皿を配り終えた頃、話がふと途切れ、ひとりから何気なく尋ねられた。
――ごめんなさいねえ、うるさくて。普段こんなところに来ないおばさんたちだから。でもね、親って大変なのよ。親孝行してる?
何気ない会話なのだとわかっている。
決して多くはないが、これまでも似たような流れで水を向けられたことはあった。
そのときになんと答えたのか、今となってはよく思い出せない。笑顔で差し障りのないことを言ったように思う。
この日は、一呼吸置いて、ゆっくりと答えた。
「実は最近結婚して、親が増えたんですよ。親孝行と呼べるようなことはまだできていませんが、これからしていきたいと思っています」
あら良かったわね~、おめでとう。口々に祝われて、ありがとうございますとお礼を述べてテーブルから離れた。その後も、話を振られる度に如才なく会話を交わした。
伊久磨は、もう小さくなった三人の後ろ姿を見つめる。
(子どもが完全に手を離れる前に死んだ俺の母親は、あんな風に歳を重ねることがなかったな……)
たとえ時間が事故の前まで巻き戻ったとして、やり直しの機会を与えられても、二十歳そこそこの自分に十分な「親孝行」ができるとは考えられない。
その意味では、いまの自分を形作っている多くのものは、過去のその時点からこれまで出会ってきた人や出来事なのだと素直に思う。
(学生時代はこういう職業に就くとは全然考えてなかったけど……。もしまだ家族が生きていたら招待……するよなやっぱり。両親の還暦祝いしたり、父親の退職祝いをしたり。何かと理由をつけて、「お店に来て」って言っていたんだろうな)
それはもう、存在しない可能性。潰えた未来。
深く考えるのはよそうと、明るい日差しの中、店への道を引き返す。
* * *
伊久磨がエントランスに足を踏み入れると、ちょうど明菜がレジの精算をしていた。
気配に気づいて顔を上げ、にこにこと言う。
「最後のお見送りまでお疲れ様でした。さすがに営業中はプロの顔をしていましたけど、普段よりお疲れじゃないですか。まかないできてますからどうぞー。夜に向けてゆっくり休んでください」
「ありがとうございます。今日は明菜さんにたくさんフォローしてもらったような……」
言いながらカウンターの内側に回り込み、パソコンの画面で夜の予約を表示する。
「ご新規で西條さんのお客様入っているの、確認しました? 明菜さんも一度お会いしている野木沢館長です」
「見てます見てます、西條さんとなんかこう……、あるんですよね。直接電話かけてきたみたいだし。西條さんもいまメニュー作ってましたけど、お祝いみたいだからちょっとおもしろいのが良いのかなって。真鯛の塩釜焼きとか言ってました」
「塩釜……って、テーブルで塩叩いて割るのかな。サービスどうするか打ち合わせしよう。西條さんがホール出て自分でやりそうな気もするけど」
二人で画面を見ながら話していると、明菜が「良いですねえ」としみじみとした口調で言った。
「スタッフが自分の知り合いを連れてこれるレストランって良いなぁと思うんですよ。衛生面とか、食材や接客のレベルも全部わかった上で『この店なら大切なひとが来ても大丈夫』って安心しているわけなので。身内や家族が利用しているって、飲食店として重要なポイントだと私は思うんです」
「明菜さんはご両親を招待する予定はあるんですか?」
さらりと伊久磨が返すと、明菜は苦笑いをした。
「声はかけているんですけど、頑なで……。東京で勤めていた頃は、私から呼ばなくても来ていたんですけどね。『海の星』は何かと理由つけて断られているんです。ただでさえ、シェフのご家庭とは『気軽に付き合う』という雰囲気でもないので……セレブというか格差というか。お顔合わせはしていますけど、親戚づきあいは結婚式をしてから、みたいです。うちの親の言い分によると」
「そっか。本人たちは入籍してしまえば夫婦で家族だと思っていても、親によっては儀式を経てはじめてそういう感覚に、というのもあるのかもですね。じゃあ、結婚式大切ですね。もうどういう風にするかは決めたんですか?」
「『海の星』でしたいとは思っているんですが……」
「明日から六月ですよ? ジューンブライドの憧れとかないんですか。身内だけでやるなら定休日の木曜で。ゲストに呼ぶ方のお休みの都合で休日が良ければ、月末の土日ならまだ一件も入ってない日が……今からおさえればなんとか。大安とか仏滅は気にします?」
画面をいじって予約を確認しようとしたところで、明菜が伊久磨の背をばしっと叩いた。
「蜷川さん、ひとのことはともかく、自分の方はどうなってるんですか。蜷川さんだって来月入籍ですよね? 式とか細かいこと後回しにしすぎじゃないですか? 奥様ときちんと話し合ってます? それこそジューンブライドが良いなんて言われてないんですか?」
「えっと……」
返答に詰まって明菜を見下ろすと、大変悲しげな顔で見上げられていた。
「蜷川さん、そういうとこ、春さんと似てますよね……。他人のことには気が回るし身内にも優しくて親切なのに、変に安心しちゃって後回しにするところがあるっていうか……。奥様、言わないだけで不安や不満もあるかもですよ? 今朝なんて、朝帰りまでして」
「すみません」
「謝る相手が違います」
手厳しい。
言われ放題だが、言い返せず、伊久磨は小さく吐息した。
「今日、お客様に『親孝行しなさい』って言われて……。親といえば俺には奥さんの親しかいないのでそっちにきちんと孝行しなきゃなって思ったんですけど、まず奥さんですね。おろそかにしているつもりも無いのに、全然完璧じゃない。完璧でいろと言われているわけじゃないけど、仕事だと許されないレベルで気が抜けているかも」
思った以上に愚痴っぽくなってしまい、明菜も慌てた様子で顔の前で手をぱたぱたと振った。
「そこまで反省されても、私もつい言いすぎてすみません。でもこの際言い過ぎついでに言いますけど、朝帰りの件は奥さんにしっかり謝って、埋め合わせくらいはした方が良いです。蜷川さんの次のお休みに予約入れておきましょうか。最近平日の夜は満席でもないですし」
「最終的に営業された」
苦笑しながら「しっかりしていますね」と言い、伊久磨は入籍予定の自分の誕生日の空席を確認する。誕生日で入籍ともなれば、店から盛大に祝われてしまいそうで、かえって悩みどころで予約は入れていない。だが、この際義両親や光樹も一緒でと考えていたところで、ドアベルが鳴った。
ランチとディナーの間、客席はクローズだが、店に直接予約に来たり打ち合わせ希望のお客様もいるので、ドアに鍵はかけないようにしている。
食事であれば断るしかないが、それ以外であれば話を聞く。
伊久磨は顔を上げて、ドアの方を見た。
「いらっしゃいませ……」
飛び込んできたそのひとは、伊久磨を見て勢いのある口調で言った。
「今晩の席、空いてますか。予約できますか!?」