できる女
「あっ、ごめんなさい、仕事の電話が」
いざディナーの話を詰めようとしたとき、スマホを手にした静香が早口で断りを入れてきた。まどかは「どうぞどうぞ、いまのうちに私も海の星に予約を入れておきます」と促し、カバンからスマホを取り出す。
少し離れた位置で静香が話しだしたのを見るとはなしに見ながら、まどかもスマホの画面に目を落とす。表示させたのは聖の電話番号。ぐずぐず悩む前に、とコールする。勢いに任せすぎたせいで、ルルル、と呼び出し音が鳴った瞬間にもう後悔した。何を話すかも決めていない。
血流が乱れ、心臓が痛いほど打ち始めるも、心の準備をする前に聖が電話に出る。
――はい。おはようございます。何かあった? 今日、館長は仕事休みだよね?
(うっ……。電話越しでも声が良い……)
頭が真っ白になり、「今晩、ディナー予約、二人」と片言で用件のみを告げる。本当はおはようと挨拶して、「いま電話しても大丈夫でしたか」等言いたかったのに、完全に喉が干上がっていた。
――夜の空き状況か。たぶん大丈夫、いま確認する。急にどうしたの? 誰と?
「友達とです。行きたいって話になって」
――男?
「そそそそ、そんなわけないじゃないですか。そんな知り合いいないし。まさかまさか」
――焦りすぎ。どういう用向きの席か事前に確認しているから、聞いただけだよ。
サラサラっとした低音の美声を耳元で聞き続けるのは、緊張の度合いで言うとほぼ拷問。スマホを遠ざけたい心境になりつつ、まどかは声の震え鎮まれと念じながら告げる。
「結婚間近の友達です。女同士で前祝い、みたいな。ちょうど今日たまたま出先でばったり会って」
(嘘は言ってない、嘘は。友達というか顔見知りくらいだけど、せっかく「海の星」で食事するんだし、事情を聞いた以上、お祝いしたい気持ちもあるし)
――その席は俺が挨拶行っても大丈夫? 顔出さない方が良い?
「それは全然大丈夫だと思います。西條さん、ええと、夜もお店にいらっしゃるんですね」
――いるよ。休みの日に館長に会えるのが嬉しい。お祝いの席、うちの店を選んでくれてありがとう。サービスするから期待して。
くすっと楽しげな笑い声を耳にして、まどかは言葉に詰まる。気の所為でなければ、ものすごく、甘い。聖の言動が。耳だけでなく全身がぐずぐずに蕩けそうな優しい声に身動きを封じられ、満足にしゃべることもできない。
――お金はいらないよとは言えないから、予算は飲み物込で一万円で大丈夫? アルコールは? 苦手なものとか、アレルギーはない? 館長が大丈夫なのは知っているけど、友達は?
答えようとして、まどかはちらっと静香を見た。ちょうど電話を終えてスマホを握りながら戻ってきたところ。「好き嫌いとアレルギーはどうですか?」とまどかが聞くと「なんでも大丈夫です」と威勢よく返ってきた。
「全部おまかせで」
――わかった。いま空きみてるから……、ああ、大丈夫。十八時に入れておく。楽しみに待ってる。
二、三言話したところで通話終了。
耳の奥に、聖の笑い声と甘い囁きの余韻が残っていて、まどかは束の間ぼんやりしてしまった。静香に「館長ー、どうでした?」と聞かれて、ようやく我に返った。
「十八時に二名でお願いしました」
「いまの電話の相手、西條さんですか?」
「はい。あの、連絡先もらってたから……、あ……ごめんなさい! 同席が齋勝さんって言いそびれてしまいました……! べつに隠すつもりがあったわけじゃないんですけど」
話しながら気付いて、まどかは「あ、あ、もう一回でんわ……」と焦ってスマホを操作しようとしたが、慌てすぎたせいでアスファルトの上に取り落とした。
まどかよりも素早くかがんでそれを拾い上げた静香が、その位置からまどかを見上げてにっこりと笑った。
「べつに大丈夫ですよ。サプライズってことで。事前に言ったら間違いなく完璧な準備されちゃうし。抜き打ちでありのままの姿を見せてもらおうっと」
「そ、そうですか。それじゃえっと……。そうだ、スタッフの方への差し入れ用意しておきますね! あと、海の星ってドレスコードありますか? 夜はフォーマルな感じが良いとか、私全然知らなくて」
準備して後で待ち合わせかなと思いながら尋ねると、静香が突然ハッと息を飲んで大きな目をさらに大きくした。
「そっか……! ですよね! わああどうしよう、何着ていけばいいのかな。東京から戻ったときは骨折してて楽な服装ばっかりだったし、それ以降伊久磨くんと一緒に暮らして普段着がふつうになっちゃったっていうか、新しい服べつに買ってない……。え、うそ、どうしよう、私、食事に着ていく服持ってないかもしれない……」
海の星の関係者で身内のはずの静香の焦りを前に、まどかにまで不安が伝染した。
「どう、しましょう。やっぱり変な格好ではいけないですよね。私も仕事に着られるような服しか持ってないです。『高級レストランで女子会』……? 何着れば良いんだろう。西條さんってその辺詳しそうですよね、どうしよう。目が肥えてるひとの前で、変な格好見せられない」
「伊久磨くんもですよ、毎日オシャレしたマダムとか綺麗なカップルとか見てそうだし……。あ~、『職場で会ったらたいして可愛くないな』『結婚決まってから気が抜けてるな』って思われたらどうしよ~!!」
にわかに。
女二人、不安が爆発。それぞれがまくしたてるように喋りながら「どうしよう、どうしよう」という会話になり、ほどなくして「一緒に服を買いに行きましょう……!」との結論に至る。この状況で解散してそれぞれで悩むより、二人でお互いの手の内を見せあって確認し、「変じゃない」レベルで揃えようという作戦。
静香の仕事は今日はもう大丈夫とのことで、徒歩圏内の百貨店に向かうべく、連れ立って歩き出す。
美術館前の川沿いの道を進みながら、静香が何気なく言い出した。
「実際、ドレスコードがあるわけじゃないですし、そこまで頑張らなくて良いとは思うんですけど……。館長は普段西條さんとデートしてるんですか?」
「で、デート……!? いえいえ、まだまだ全然そんな段階では」
「じゃあ今日の席って、すごく大切ですよね。可愛い館長の姿を見て、西條さんは自分とのデートのときはこういう感じかなって想像するわけじゃないですか。気を抜けませんね!」
あれ、なんだか話がおかしな方向へ? と危ぶみ、まどかは「待ってください」と話を遮らないタイミングで声を挙げる。
「私、西條さんとはまだそこまで」
「微妙な段階なら、なおさらですよね?」
言い切られて、まどかは息を呑む。
(さすが結婚を決める女は言うことが違う……!)
結婚できる女と、できていない女の違いかな……と思いながら、まどかは素直に忠告を聞くことにした。正直、聖と結婚する未来など具体的に描けているわけではないが、いまが微妙な段階で気を抜けないという意見はもっともだと納得した。
「齋勝さんって、私より年下だと思うんですけど、本当にしっかりしていますね」
深く感じ入ってまどかがそう言うと、静香はなぜか妙に焦った様子で手をぶんぶん振っていた。
「そんなこと今まで言われたことないですよ!? ほんとに! 全然!!」
否定されればされるほど、まどかは(こんなに美人なのに本当に謙虚なひとだな)と感心するばかりであった。