ゼロ距離
「樒さん」
と、聖が口火を切った。
樒はホールとの境目に立ち、にこにこと微笑みながら「なに?」と小首を傾げてみせる。
エレナの顎にかけていた手を外した聖は、さっと風を切って伊久磨の前を通り過ぎ、樒の元まで駆け寄ると、ひしっと両腕で抱きついた。
「邪魔してごめん」
ぎゅうううっと抱きつかれた樒は、それとなく両手を上げて抱き返したりはしないと動作で示しつつ、聖を見下ろしてゆっくりと言った。
「わかるように話して欲しい」
「ん。俺、考えなしっていうか、良かれと思ってやったことが裏目に出ることって結構あってさ。いまそれなんだ。こうなったら良いなって思ったことがあってひとりで空回って諸悪の根源になった。自覚があるから謝ってる。何かが台無しになったとき、『謝ってすむ問題じゃない』って怒り方されることもあるけど、それって謝らなくても良いとは違うよな? 自分が悪いってわかってるから、まず謝る」
(……西條さん、その説明で樒さんにわかるのかな)
見守るしかない伊久磨は息を止め、聖の唐突な行動とその説明を聞いていた。謝るのに抱きつく必要はないよな、という考えが過ぎったが深く考えないようにする。自分は自分、ひとはひと。聖の謝り様式に関してはやりたいようにやらせておくべきなのだとあえて気づかなかったことにする。
伏目がちに聖を見つめていた樒は、かすかに眉間に皺を寄せて口を開く。
「抱きつく必要は無いと思う」
「ある。ゼロ距離まで詰められるとたいていの相手は焦る。『もういいから、まず離れて』って議論すっ飛ばして勢いで許してしまうことがままある」
「聖、それ謝ってる?」
「謝ってる」
「そっか」
樒の返答を最後に、しん、と辺りが静まり返った。
宙に手を浮かせているのに疲れたのか、樒はゆっくりと両腕をおろし、ため息とともに軽く聖の背を抱いた。
「あざとさが突き抜けていて、文句を言う気にもならないなぁ……」
黙っていられずに、伊久磨は拳を握りしめて一歩踏み出した。
「そこは言いましょう!? そんなあざとい三十路を野放しにしておいて良いはずがないです! 樒さんからぜひびしっとお願いします! 負けないでください!!」
「それを言うならまず『海の星』でどうにかしようか。俺はこんな難しい子の育成任されたくない」
「それはその通りなんですけど……、うわ……、ゼロ距離戦略マジでやばい。樒さん、『海の星』でどうにかしなさいって正論らしきこと言える冷静さはあるのに、西條さんのことは『難しい子』でパスしちゃってるのなんか……なんというか」
うまく言い表せずに言葉を詰まらせた伊久磨の横に立ち、エレナがすかさず言った。
「贔屓よ、贔屓。西條くんはあの顔の良さとメンタルの不安定さでときどき相手からものすごい譲歩を引き出すの。あんなあざといことやろうと思ってもなかなかできることじゃない」
伊久磨が見下ろすと、エレナは両手で自分の両腕を抱いて「寒っ」とわざとらしく震えているところだった。何に対しての寒気か、概念としては理解できる気がして伊久磨は力強く頷いた。
「ああ……、その、なんとなくわかります。静香もそういう話をすることがあるので。美人はあざといと思われやすいけど、そんなのは人によるとしか言えないって。『そもそも普通の人間関係で必要以上に寄り掛かるとかありえないから、割り勘しかしたことないのに、なぜか周りから美人は得だよねって私がいつも誰かにおごってもらってるみたいに言われてきた』とか『泣けば許してもらえるから美人はいいよなって言われるけど、取引先に対して泣いて許してもらったことなんかない』とか」
「そう、それ。わかる。静香さんのそれわかる。顔の良さで得をするとか、目の前で発生している問題のすべてを有耶無耶にするだなんて、普通に考えたら非現実的だから。普通はそんなことできない。それができるかどうかは、顔よりも性格の問題。でも西條くんは……」
そこでエレナは絶句してしまった。
これ西條さんのせいですよ、と伊久磨が聖に視線を向けると、聖は片腕は樒にしがみついたまま、エレナを迎え受けるかのようにもう片腕を広げて空間を作り、悪びれなく言った。
「来る? ここ、一人分あいてるけど」
「西條くんが西條くんすぎてもう何も言えない……」
エレナは両手で顔を覆ってしまう。
「ごめんなさい。俺もここまでの西條さんは予想していなかったので、臨機応変に対応なんてできそうにありません。あの……、仕事中でホールでの出来事だったらどうにかしようとはしたと思うんですけど……どうにか……」
折悪しく、ミイラとりがミイラになりにきたのは、「皆さんまだですか?」と言いながらホールから現れた光樹。
謎の愁嘆場を目にして「え……? あれ、え?」と目を丸くしているところに、聖がすかさず距離を詰めて腕を伸ばし、首に抱きついた。
「光樹、待たせて悪かった。みんな待ってるよな!」
「え、ええええええ? 西條さんどうしたんですか? 何があったんですか?」
「ちょ、西條さん! 光樹は巻き込まないでください!! 離れて離れて!!」
見ていられなくなった伊久磨が歩み寄ると、聖はすばやく光樹から体を放しつつ、その腕を掴む。そのまま「どうせまだ風早さん帰らないなら、光樹一曲弾いて」と言いながら光樹を引きずってホールに出て行った。
空振りした伊久磨はつられて「光樹はもう今日の分の仕事終わってますから、西條さんちょっと」と言いながら追いかける形になる。
騒ぎ声、足音。
賑やかさが去ったあとにキッチンに残されたのは、両手で顔を覆ったままのエレナと、手持ち無沙汰になった樒。
ホールから響くぎゃあぎゃあといったやりとりを聞きながら、無言。
やがて、エレナが顔を覆っていた手を離したところで、樒は壁によりかかり腕を組んでゆったりとした口調で言った。
「最近どう?」
「……特に……変わらず、ですね」
「そう」
「樒さんは……、婚活……」
言いかけて、エレナは口をつぐむ。少し待ってから、樒はかすかに笑った。
「難儀だね。藤崎さんがそれを俺に言うなら、俺は俺で『そっちの同居生活はどんな感じ?』って聞いてしまう。考え出すときりがないから考えないようにしているだけで、気にならないわけじゃない」
「そうですね。私も……、たとえば自分の気になるひとが同年代の異性と暮らしていたら、何も無いと言われても気持ちが暗くなると思います。本格的に好きになる前に諦めようって……。前に進めることなんか、絶対にできない。それを言うなら、私の存在が西條くんや香織さんの邪魔にもなっていて……」
重い沈黙になりかけた、そのとき。
樒が口の端を吊り上げて声もなく笑い、囁き声で告げた。
「仕事終わってるんだよね。行こうか」
「どこへ?」
「どこでも良いよ。少し話そう。目の前で暗い顔をされていると気になる。解決できることから解決しよう。それとも俺じゃ藤崎さんを笑顔にできない?」
顔を上げたエレナは目を見開き、首を振る。
それから、視線の動きだけで、キッチンから外へと通じる従業員用の出入り口を示した。樒は軽く頷いて、そちらに向かう。
肩越しに振り返って、「気づかれないうちに、早く行こう」といたずらっぽく言った。