幸せのおすそ分けをしたくなるとき
機嫌の良いひとは、伊久磨としても大歓迎だ。
楽しそうで良いな、と素直に思う。
同時に、不安になる。相手の不幸なんて望まないが、幸せの儚さを知るだけに「足元をすくわれませんように」と心配をしてしまう。
たとえ相手が西條聖であったとしても。
聖は、外見や能力は秀でて強烈に人目を引くものがあり、少々口が過ぎるところを除けば非の打ち所無く思えるが、その人生において辛酸を舐めてきている。伊久磨をして「西條さんはこちら側だから……」と確信させる不遇さを備えているのだ。
(余計な、老婆心だとわかっていても……。嫌な予感。杞憂であってくれればそれに越したことはない)
「そうだオリオン、由春も結婚して家を出ているし、岩清水邸を出る時期なんじゃないか。次は椿邸なんかどう。純和風建築、こんな機会じゃなきゃ住むことなんか早々ないぞ」
閉店間際のキッチンでは、妙に浮ついた調子で、聖がオリオンに話しかけていた。話し込むうちに早口の英語での会話に切り替わり、伊久磨は内容を追うことはできなかったが、オリオンの苦笑いを見る限り、さほど話が弾んでいるようには思えない。
(西條さん、本格的に椿邸を出ること考えてそう。だからその前に、樒さんと藤崎さんをくっつけようとしたり、香織が一人暮らしになっても寂しくないようにオリオンをあてがおうと……、わかるんだけど、それって西條さんが頭の中に描いているだけの絵図だよな。強引に現実にあてはめようとしても、駒じゃないんだから都合よく動くわけがない。誰が何を考えているかなんて、本当のところはわからないんだから)
何か口を挟もうか悩みながら、伊久磨はグラスを拭いていた。
ちょうどそのとき、最後の客の会計からお見送りまで終えたエレナがキッチンへと戻ってくる。
「あとは風早さまのお席だけです。シェフがお会計はいただかなくて良いって言うから、レジは締めてしまいました。いまはシェフと明菜さんがお席で話してますけど、風早さんは閉店時間気にして帰るタイミングみてそう」
「お客様が帰らないとスタッフが帰れない事情はよくわかってる人たちですからね。御本人、明日の午前中の新幹線で東京戻るって言っていたし、早めに引き上げるんじゃないかな。あ、そういえば香織がデザート褒めてましたよ」
伊久磨が思い出して、オリオンへと声をかける。早く言ってよ、とばかりにオリオンは「香織と話してくるね」と言ってホールへと出て行った。キッチンでぐずぐずしている間に帰ってしまうかもしれないのに、ずっと聖に引き留められていたのだ。
何しろ、食事が楽しくても、久しぶりの再会が名残惜しくても、翌日は全員仕事。
行儀正しく解散になるだろう。この場にいるのが男のみであればまた少し違ったかもしれしないが、明菜もエレナもいる。女性がいれば特に空気を読んで、悪ふざけや羽目を外すのを避ける紳士が揃っていた。
(オープンの頃に比べたら、年齢的にも落ち着いてきたのもある……かな。岩清水さんと幸尚、独身男三人でやっていたときと違って、岩清水さんも俺も所帯を持って、だいぶ変わった)
もう当時のような馬鹿騒ぎをすることはないんだろうな、と妙にしんみりしつつ、伊久磨はグラス拭きに使っていたトーションをたたむ。「お帰りの際のお見送りはみんなで……」言いかけたところで、聖が駆け寄ってきた。
満面の笑みでエレナを見下ろし、「樒さんにピアノを弾いてもらおう」と迫る。
エレナは無表情で聖を見上げ、ゆっくりとした口調で答えた。
「あんまり、興味ない。ピアノの生演奏なら、普段から光樹くんにたくさん聞かせてもらってる。そんなことで樒さんを引き留めて、皆さんの帰りが遅くなるのもどうかと思うの。香織さんだって明日朝早いでしょう。さっき西條くんが樒さんにピアノ演奏をお願いしているところ見たけど、乗り気でもなさそうだったし。やめたら?」
取り付く島無く。
言われた聖は目を瞬き、あれ? という様子で首を傾げる。
「興味ない?」
「うん。私、そこまで音楽に造詣深いわけでもないから。最近だと、シェフと光樹くんの演奏の違いもはっきりわからないし。樒さんが弾いていても、弾いている姿を見ない限り誰が弾いているかわからないと思う。だったらべつに良いかなって」
固唾を呑んで耳を傾けていた伊久磨は、そうっと息を吐いた。
(そうだよな、「演奏している樒さんの姿がかっこよくて、見たらますます好きになってしまう」って西條さんの発想、乙女過ぎだよ……!! お客様グループが帰りたがっていて、樒さんも気が進まないなら、わざわざ引き留めてピアノを弾いてもらうのって、すごくプレッシャーが。藤崎さんはそんなわがまま言うつもりがないのに、西條さんから「樒さんが藤崎さんのために弾く」なんて状況を作られて恩を着せられたりしたら、果てしなくありがた迷惑で……)
聖としては、「二人のために一肌脱いだ!!」というつもりかもしれないが、エレナの冴えない表情を目にした伊久磨は、一瞬で作戦の失敗を悟った。やばいですよこれ、西條さん、と。
一方の聖は今日に限ってカンが悪いようで、なぜか強気にエレナに詰め寄った。
「そんなこと言って良いのか?」
もちろん、気迫負けをするエレナではなく。ブリザードを背負った、凄みのある微笑を浮かべて言った。
「西條くん、いい加減にして。自分の恋愛がうまくいっているからって、やり方が雑過ぎるのわからない?」
「雑って」
「好きなひとに好かれるって、すごく自己肯定感が高まるよね。全能感っていうか、一時的になんでもうまくできそうな気がしちゃうの。それに、すごく幸せだからとにかく周りにおすそ分けしたいって気持ちになったり。一瞬ね、ほんの一瞬。だって相手とうまくいかなくなれば、すぐに奈落の底に落とされたみたいに不安になって居ても立ってもいられなくなる。西條くんはそれでまた周りを振り回すんでしょ? 幸せなときも不幸なときも、いつも他人を巻き込む。私は、そういう西條くんに巻き込まれたくないの。干渉しようとしないで、放っておいてくれる?」
(同じ空間の中に、気分の冴えないひと、機嫌の悪いひとがいると、なんとなくわかる。それはホールのお客様に限らず、顔には出さないようにしているスタッフだとしても……。今日、俺がなんとなく胸騒ぎがして落ち着かなかったのは、藤崎さんのこの苛立ちかもしれない)
エレナは本当に樒のことが好きなのかもしれないが、微妙な時期だとして、聖から突然「自分がうまくいったから、他のひとも」と世話を焼かれるのがしんどいに違いない。おそらく、気を使って少しずつ組み立てているものが、聖の横槍によって突き崩されてしまうような危機感、もっと言えば嫌悪感が透けて見える。
一方の聖は、好意を無下にされた不満が顔にあらわれてしまっている。悪気なく、良かれと思って行動しているのに、冷水を浴びせかけられて意地になっているようだ。
引き際を見誤れば、非常にまずいというのに。
「ふたりとも、一度落ち着きましょう。争い事の気配はホールにも伝わります。お客様がお帰りになるまで喧嘩はやめてください」
見ていられず伊久磨は口を挟んだが、火に油を注いだだけ。エレナは柳眉険しく、伊久磨を睨みつける。
「喧嘩って……。私が一方的に西條くんにひっかきまわされて、迷惑かけられていても、蜷川さんには『喧嘩』に見えるんですか。『善意』の西條くんに私が冷たいから? それじゃあ、私はいま喜ばなければいけなかったんですか? 全然お願いしてもいないことまで勝手に気を回されて、みんなの前で私が『場をわきまえず彼氏でもない樒さんにわがままを言う女』にされて、しかもそのために西條くんを利用した、みたいな二重三重に自己中な女扱いされても、笑って受け入れろって言うんですか?」
「ごめんなさい」
伊久磨は顔から血の気がひくのを感じつつ、素早く謝罪を口にした。
(たしかに、当事者視点ではそうなる……。藤崎さんにしてみれば、失うものこそあれ、得られるものがあまりにも無い。西條さんの自己満足に付き合わされて、下手をすれば樒さんにすら悪印象を与えて)
聖は唇を引き結んで、押し黙っている。横顔は無表情で、怒っているのか後悔しているのか、咄嗟に窺い知ることはできない。
エレナは興奮冷めやらぬ様子で瞬きを繰り返し、絞り出すような声で「そういうことだから」と言った。
「そもそも、樒さんだって……。昨日婚活イベントに出たって。私のことなんか、なんとも思っていないわけじゃない。それなのに、西條くんだけ盛り上がっても、私の気持ちは……」
「気持ちはなに? 藤崎は樒さんのこと好きなのか?」
(西條さんがまた直球投げた……。なんでだよ……。男女を超えて長い付き合いの友達ってこんな感じなのか?)
唖然とした伊久磨の前で、エレナは聖を見上げ、唇を震わせながら言った。
「わ、私だけが好きでも、どうしようもないじゃない。西條くん、自分がうまくいってるからって、無神経過ぎるんだってば」
「うっせえな。怒るなら怒ってろよ。なんで泣きそうになってるんだよ。そんな顔されたら放っておけるわけないだろ!」
言うなり、エレナの顎に手をかけ、軽く持ち上げる。予想外の動きに慌てたような瞬きに、目尻に溜まっていた涙がつうっとこぼれた。
伊久磨はハラハラして、とにかくかける言葉を探していた。そのとき。
「キッチンのみんなは仕事まだ終わらないの?」
ひょいっと樒が姿を現し、キッチンを覗き込んできた。
その視界に映るであろうもの。
伊久磨は思わず片手で目元を覆った。
(こういうのって……万事休すって言うんだっけ)
ため息すら出なかった。