わがままの勝つ日
瑞々しく透き通るピアノの響きは、弾き始めこそ居合わせた客の耳目をひきつけるものの、いつしか談笑の背景として空気に溶け込んでいく。
パッヘルベルのカノン、ショパンの夜想曲。光樹は、たとえ曲名を知らずとも、誰もが聞いたことのあるような馴染みの曲を弾き続けていた。
魚料理の皿を下げながら、伊久磨は耳をすませた。ちょうどそのとき目が合った樒が、ゆったりとした微笑を浮かべ、声を潜めて囁く。
「光樹のピアノには光と華があるね。ずいぶん変わった」
「俺もそう思います。料理を押しのけてまで主役になろうとしていないのに、光樹のピアノがあるのと無いのじゃ全然違うんです、店の空気が」
「たとえばどこかでカノンを耳にしたら、ここで目にしたアンティーク、テーブルで交わした会話や、味わった料理がよみがえる。記憶の綴紐みたいに、いくつもの要素を積み重ねてひとつらなりの思い出として束ねていく、音。きちんと、調和に比重が置かれてる。正直、驚いた」
手の上で皿を重ねて、座したままの樒を見下ろし、伊久磨はゆっくりと瞬いた。
「すごく認めてる。音大卒のひとが聞いても、やっぱり光樹って光ってるんだ」
「俺が認めようと認めまいと、光樹の音はこの先たくさんのひとを惹きつける。ひとは、どうしたって目の前にいる人間を自分の手本にするだろ。音が変わったのだとすれば、出会いが変えたんだ。ここでの」
愉快そうな瞳。見つめていると、吸い込まれそうになる。逸らせなくなる。
伊久磨はそっと息を吐きだして、真面目くさった調子で言った。
「今日の樒さん、本気モードですね。口説かれているかと思った」
「それはさすがに図々しい。やだよ、君は。気持ちが重そうだし、何より静香がうるさい。勘弁」
樒は爽やかに非難がましく、盛大に伊久磨をふって、ペリエのグラスに手を伸ばす。
伊久磨としても特に反論もなく「それは失礼しました」とテーブルを離れようとしたところで、聖が顔を見せた。席についた面々を見回し、最初にメインの夏月へと挨拶。
「昨日ぶりで。風早さま、今日はようこそ。差し入れ、ありがとうございました」
「ご丁寧にありがとう。楽しませてもらってます。昨日の料理も美味しかったけど、今日はまた格別。由春と西條さん二人体制なんて贅沢だよね。パティシエも変わったって聞いてる、最後まで楽しみにしてるよ」
陰りなく、まっすぐ聖に向けられたまなざし。
ふと、伊久磨は無意識に風早との長い会話を避けていたことに気づいた。
かつてその笑顔を前に、ひとりで勝手に挫けかけたことがあったせいだ。
当時の伊久磨は、接客の経験があるわけでもなく、料理が作れるわけでもない引け目ゆえ、誰かに害されたわけでもないのに、「自分には何もない」という感覚にひどく苛まれ、自信を失っていた。
(今はもう、「自分よりもあのひとの方が」なんて動揺は少なくなったけど)
人間として本質が大きく変わったとは思わないし、悩まなくなったわけでもない。ただ、この場に自分がいることを、自分自身が認めるようになっていた。
(何人ものお客様に出会い、去った仲間がいて、新しく加わった仲間がいる。迎えて送り出す、その中で俺はとどまって過ごし、できることをしてきた。その時間の分だけ、気づいたらここが自分の居場所になっていた。俺以上に仕事ができるひとも、俺とは違うことができるひとも世の中にたくさんいるだろう。ただ、俺とまったく同じ人間はいない。それを、この先もっと、「唯一にしてかけがえのない強み」と思えたら)
現状を全肯定し、これがてっぺんだと満足しているわけではない。自分が自分であるだけで、即座に価値があるとも信じていない。それでも、お前は何者かと聞かれたときに、以前ほど心細い思いはしないだろう。その自信は、はからずもいましがた樒の口にした、自分の生きる理由となっている静香の存在が大きいとも感じる。
「おまけの椿はともかく、樒さんもご来店ありがとうございます。ピアノ、一曲弾いていきます?」
「それはどうだろう。身内感覚で店員と客がふざけていたら、いい気分じゃないお客様もいるんじゃないかな。俺もゆっくりしたいし、遠慮しておくよ」
「それはもっともだ。失礼しました。ゴーシュ樒はチェロ弾いている姿もかっこいいけど、ピアノなんか弾いたらもうめちゃくちゃかっこよくて、総員メロメロだと思ったんだけど。惜しいなぁ、見たかった」
腰に手をあて、樒を見ながら口の端を吊り上げる聖は、引き下がっているようでいてまったく引き下がっていない。樒は聖を見つめ、ほんのりと悪そうな微笑を浮かべた。
「聖まで俺に口説かれたいのか。今更メロメロにするくらいなら、もうとっくに落としてる。二人きりの個人授業中に」
言われた聖は一瞬ぼうっと樒を見返してから、「わざわざ意味深に言うな」といつになく慌てた様子で抗議した。樒は笑顔のまま「いまのは聖のやぶ蛇だよ」と答える。
「俺は弾かないって言ってるんだから、食い下がるのは良くない。聖の店じゃないんだ、もっと他のお客様のことも考えて」
「下手なのか?」
間髪おかず。
愛想よく諭している樒の言葉を遮り、聖がわかりやすく挑発した。見守るだけの周囲を気にせず、さらにハッと笑い声をたてる。
「光樹ほどに弾けないから、弾き手が変わったのがすぐに他のお客様にバレてしまう、と。まぁたしかに光樹はたいしたもんだけど」
「煽るのはやめようか、聖。その手にはのらない」
「見たい。聞きたい。こんなにお願いしてもだめなのか?」
言い返そうとするように口を開き、結局何も言わず、樒は目を閉ざして深く息を吐きだした。面倒くさそうに「食事の後に、他のお客様がいなかったら」とだけ返して、口をつぐむ。
「うわー……、西條さん、樒さん相手におねだりだなんて……お客様でご来店されてるのに」
決着がつくまで黙っていた伊久磨であったが、そこでようやく口を挟む。聖は一切悪びれなく声をたてて笑った。
「知ってるだろ、俺わがままなんだ。それに、樒さんがすることで、ひとより下手なことなんて絶対に無い。なんだってそつなくこなすさ。蜷川だって、弾いてるところ見たいだろ。絶対、かっこいい」
青い瞳の輝く、透明感のある際立った美貌に、悪童のようなしてやったりの笑みを浮かべた聖。
(……藤崎さんにかっこいい樒さんを見せたいだけなんだろうけど……。西條さんは西條さんで、樒さんのこと、好きだな?)
そしてたしかにわがままで、強気で、たちの悪さを感じさせる。聖はまるで傲慢お嬢様であり、樒は振り回される執事のような。(あの樒さんが)と、思わず描いた想像を振り払い、伊久磨は胡乱げな様子を隠さず聖に尋ねた。
「あの……、西條さん、樒さんの個人授業ってなにを教わってるんですか。二人で、ひとに言えないような」
聖は即座に、いつもの勝ち気な様子で「ミュゼのメニュー開発で、コーヒーの淹れ方習ってるだけだっての」とかぶせるように言い放ち、続けて、ひたすらひとり杯を重ねている香織をからかいだした。