和やかで、ときに冷ややかで
「今日の前菜、うまっ。ホタテと生ハムにホワイトアスパラ、ソースは柑橘系でさわやか。全部美味しい、全部好き」
一口食べるなり、香織が絶賛。テーブルについていた伊久磨が、笑いながら「好きだと思った」と答えると、香織はすかさずシャンパングラスを手にして言う。
「ドンペリに合う。美味しいよ、伊久磨」
にこっと笑みで答えた伊久磨の肩に、背後から近づいてきた由春が手を置き「お前、後で顔を貸せ」とテーブルの面々に聞こえる音量で囁いた。
ふふっ、と樒が最初にふきだし、夏月も「俺飲まないからよくわからないけど、あれ絶対高いよね」と香織のグラスに目を向けて言う。
一口飲んで、グラスをテーブルに戻した香織は、ごく真面目な表情で由春を見た。
「結婚おめでとう、岩清水。今日はお祝いだから、良いお酒飲まないとね」
「心遣いありがとう。それはあとで伊久磨の給料からひいておく。楽しんでいってくれ」
出会い頭の挨拶を終えてかえら、由春は夏月を見下ろして、深々と礼をした。
「今日は来てくれてありがとう。土産もさっき受け取った」
「うん。そこの二人で結婚って聞いたら、来ないわけにはいかないから。あらためて、由春、おめでとう」
和やかに話し始めたところで、伊久磨は由春に後を託すようにその場を離れた。
日曜日ということもあり、スタートが早めでどこの席も進行はスムーズであった。満席ではなく、そろそろメインまで進んでいるテーブルもある。比較的余裕のある空気の中、聖とオリオンがキッチンにいるので、由春も早々と夏月に挨拶すべく出てきたらしい。
ホールには伊久磨の他に明菜とエレナもいる。ちょうど、伊久磨がキッチンに戻るタイミングで、エレナが一緒になった。
「樒さんがお客様でご来店されるって、初めてですよね」
「そうなんです、意外にも。藤崎さんもタイミング見てご挨拶どうぞ。同席は風早さんと香織で、楽しそうにしてますよ。香織は……」
言いかけて、伊久磨は言葉を濁す。香織は、席についてからはさすがに暗い表情をしていない。わざわざ蒸し返すこともないと思い直し、「毎日見ている顔で、新鮮味はないですね」と取り繕ってから、付け加えた。
「仲良いですよね、あそこ。昨日は三人で婚活してたって、似合わなすぎて。ああ、西條さんもか。邪魔にしかならないと思うんですが」
「邪魔。否定できない」
「完全な冷やかしでしょう。『あわよくば』とすら思っていない人たちだし、何しに行ったんだって」
「あわよくば……。西條くんも結局、奥手なのよねえ。初恋がそのまま結婚になったようなひとだから、実は恋愛観が狭いというか、理想が著しく高いというか。香織さんも……」
小声の会話を切り上げ、二人でディシャップ台に向かい、出来上がりの料理を確認。「サーモン、ありがとうございます」とエレナが西條に声をかけて担当テーブルの皿を手にして出ていく。
その背にちらっと目を向けてから、聖は伊久磨の顔を見た。伊久磨に何か言われる前に先手を打とうとしたのか、「あのな」と口火を切る。
「藤崎は、結構いま微妙な時期で。こう、どうかすると、どうかするかもしれないっていうか」
「西條さん、わからない、それじゃ。西條さんは藤崎さんのことが大切すぎて、ときどき過保護パパになりますよね。もしかして樒さんのことを言おうとしていますか」
すらりと言い返された聖は、渋面になりつつも、頷く。
「感触として、ゴーシュ樒も、まんざらでもない。藤崎のことを意識していると思う」
「樒さんの同席が決まったのは、昨日ですからね。今までのらりくらり『海の星』に来なかったのに、いくら風早さんに誘われたからって急に気が変わるかな……とは思っていましたが。そうか、藤崎さんか。昨日の婚活の弁明かな?」
「そう。藤崎に誤解されて距離を置かれる前に、『あれは付き合いだから』って言いに来たかも」
「樒さんがそんなフォロー入れるだなんて、それは見逃せない、じゃなかった」
キリッとして出歯亀を予告した伊久磨に対し、聖は「こら」と牽制してから、考えるように遠くに視線を投げた。
「もともと、ゴーシュ樒は遊びの恋愛をするタイプじゃないと思うから、心配はしていない。藤崎が良いなら、ああいう相手でも良いような気がする。そうすると、いつまでも椿邸で暮らしているわけにはいかないだろうけど。俺も」
一瞬、伊久磨は虚をつかれたように聖の顔を無言で見つめたが、すでに聖は横を向いていてその視線に応えることはなかった。
(藤崎さんが椿邸を出て、西條さんも……。それが自然なのだとして、香織はまたあの家に独り残される)
「穂高、先生……」
思わず、伊久磨が口にした名。聖は、長いまつ毛を伏せたまま、伊久磨に視線を流す。唇を引き結んだその横顔は、冴え冴えとした氷雪の彫刻を思わせるほどに、侵し難くも美しく、冷ややかだった。
強烈な拒絶の意志を感じつつ、伊久磨は落ち着いた声で続けた。
「椿邸、建て直しするなら早くしてしまえばいいのにって思って。次に穂高先生が来たらきちんと話し合って設計図決めちゃって。不都合があれば、後から増築でも改築でもすれば良いんだから。あの家は、冬は寒すぎる」
「それな。紘一郎にも言っておく。根無し草の風来坊だけど、俺が呼べば必ず来るから」
「ですね。冬が来る前に決着をつけてしまった方が良いと思います。次の年末年始は暖かくして過ごせば良いんだ、香織」
(その頃香織のそばに、誰かいてくれるんだろうか)
エレナが去り、聖が去ったとして。
本当は独りがたまらなく苦手な香織は、一緒に過ごす相手に巡り会えるのだろううか。
そのとき、事務室から光樹がキッチンへと顔を見せた。
「休憩ありがとうございました。演奏、いってきます」
大股で横切り、明るい声で言って通り過ぎようとする。すぐ隣に来たときに、伊久磨は呼び止めるでもなく声をかけた。
「樒さんが、風早様の席に同席でご来店されてる」
「ですよね。ミスはしないけど、緊張するな。和明さん、音大卒だし普段は弾かないけど、ピアノも弾くんですよ」
「そうなんだ」
樒は、静香とは母親同士が知り合いと言っていたが、その繋がりで光樹もよく知っているらしい。チェロ弾きのイメージが強かった樒に関して、思わぬ情報がもたらされて伊久磨は感心したように頷いた。
「何弾こう。いっそリクエスト聞いちゃおうかな」
楽しげに口の端に笑みを浮かべ、光樹はホールへと出て行った。




