寄り添えずとも
涼やかなドアベルが鳴り響く。
ほんの一瞬前、予感のようにその訪れを察知していた伊久磨は、すでにエントランスへと足を向けていた。
ドアから姿を見せた三人の前に絶妙なタイミングで立ち、滲むような笑みを浮かべて告げる。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
言ったそばから、くしゃっと仕事向けの顔を崩して笑った。
三人組の先頭に立った風早夏月は「久しぶり」と親しみやすい笑顔で返す。そのすぐ横につけた長身の樒が、楽しげな表情で辺りを見回し、「中に入ったの、初めてだなそういえば」と呟いた。
最後に顔を見せたのは、冴えない表情の香織。どこを見ているかも定かではないような虚ろな表情で「おお」と伊久磨に気のない挨拶をする。
笑顔のまま小首を傾げ、伊久磨は香織に向かい「どうしたんだよ」と少しだけ声を低めて尋ねた。
「どうって、なにが。ちょっと外にメシでも食いに行こうとしていたら、このお兄さん方にばったり会っちゃっただけ」
伊久磨に続いて、明菜がエントランスに小走りで現れて「夏月さん、いらっしゃいませ。樒さんはご来店初めてなんですよね。ついに来ちゃいましたか」と、三人を明るく出迎えた。
夏月はといえば、爽やかな笑みを浮かべて、まぶしそうに明菜を見る。
「来たよ、結婚おめでとう。二人は、結婚すると思ってた。由春から聞いて取り急ぎお祝い……、のつもりだったけど、『結婚式するから、祝いの二重取りになるからいらない』って断られてさ。今日のこれは、ただの手土産。ごめんね、急に人数増えて」
以前、由春の最初の店「ボナペティ」で共に働いていた者同士、夏月は気さくな調子で言って明菜に手にしていた紙袋を渡す。礼を言いながら受け取り、明菜は改めて三人をぐるっと見渡した。
「いえいえ、大歓迎です。今日は席も空いていましたから。夏月さんだけでも嬉しいのに、樒さんまで。それに、香織さん」
水を向けられた香織は「来ちゃった」と気の抜けた声で言って、薄く笑う。
最後に、明菜は伊久磨に目を向けた。伊久磨は小さく頷いてみせる。先にご案内を、と。意図を汲んだ明菜が、夏月と樒と話しながら客席へと向かった。
その背中を見送り、伊久磨はぼさっと立ち尽くしたままの香織を横目で見る。
「顔が変」
「うるせえな。生まれたときからこの顔だっつーの」
「『落ち込んでる』って書いてある。俺はどうすればいい? 慰めればいいのか。よしよし」
「うぜーよ。何が『よしよし』だ。余計に落ち込む」
「まだ底の底じゃなくて、余裕があるのか。それなら安心かな。今晩、西條さんに香織の添い寝でもお願いしないといけないかと真剣に悩んだ。俺はもう、椿邸の鍵も持っていないし、出入り自由でもないから」
淡々と言った伊久磨を軽くにらみつけ、香織はため息とともに、ようやく歩き出した。
「べつにたいしたことじゃない。俺も仕事してる社会人だから、たまーに考えることもあるだけ。食べて飲んで寝ればいつも通り」
「運転は樒さん? 香織が飲めるなら良いワイン開けるよ。今晩は風早さんが帰省してるって聞いた岩清水夫妻が招待したようなものだから、お代を頂くつもりもなかったし。岩清水さんのおごりで」
「夏っちゃん飲まないし、樒さんも車出してるから飲まないとすると、俺ひとりだろ。ボトル開けてももったいないなぁ。伊久磨が俺に付き合うの?」
「勤務中だからな……。俺も仕事してる社会人だから、そういうわけには……」
伊久磨は混ぜっ返すように答えた。そのタイミングで席に辿りつき、さっと椅子をひいて香織に座るようにと促す。
すでにテーブルについていた二人は、明菜と談笑している。その様をちらっと横目で見てから、香織は伊久磨に目配せをした。腰をかがめて顔を寄せた伊久磨に「一番良いのお願い。食前酒から遠慮しないで飲んでやる。岩清水のおごりで」と低く囁き、伊久磨は如才ない様子で「かしこまりました」と答えて姿勢を正した。
ちょうど会話が途絶えたすきに明菜とすばやく目でやりとりをしてから、にこりとテーブルの面々に向かって微笑む。
「ごゆっくりお楽しみください」
通常、明菜は昼の勤務で、夜の時間帯に働いていることは少ない。今日は夏月に会うために、わざわざ残っていたのだ。どうせなら少しでも長く会話できるように、食事の進行そのものは伊久磨が担当するつもりでその場をすみやかに離れる。
ホール全体を見渡し、背中で会話を聞きつつキッチンへと向かう。
(なんだろう、香織の、あの……。一緒に暮らしていたときも、仕事のトラブルは家に持ち込まないようにしていたのに。あいつの仕事の愚痴なんか聞いたことないからな。湛さん絡みって感じでもないし。他に何が? あの女の子かな。新しい従業員の)
ひとといるときに、顔に出るほど不調というのは、椿香織にしては珍しい。よほど笑えないことがあったに違いない、と気にしてしまえばどうしても胸が疼く。
普段とは様子が違うとせっかく気づいたのだ。もちろん力になりたい。だが職場に拘束されている時間に友人として話し込むのは不可能であるし、仕事が終わった後も家に押しかけるように駆けつけられるわけではない。
時の経過に押し流されるように、関係性はかつてと比べてすでに変わってしまっている。
二人で過ごした日々、暗く甘く塗り潰された終わりのない夜のような時間にはどうしても戻れない。
戻りたいと望んでもいないはずだ、と胸のうちに広がる黒い煙を振り払い、伊久磨は煌々と明かりの灯ったキッチンへと足を踏み入れた。
「風早さまご来店です。直前のご連絡通り、人数は三名様で。明菜さんが手土産を受け取っていました。ファーストドリンクですが、同席の樒さんは運転手でお酒は飲みません。御本人もお酒は召し上がらないということで、ノンアルコールカクテルのおまかせで。最後にひとり増えたのは香織なので、飲みます」
「了解。椿は、好きなの飲ませておけ」
由春が鷹揚にこたえる。
伊久磨はほっと息を吐きだして、パントリーに向かった。
(好きなの……ドンペリニヨンでも開けるか。わかりやすく派手なお酒で、香織の気が晴れるのなら)
由春に気づかれる前に開けてしまえ、と手早くグラスを並べて準備を始めた。