親心
「社長、昨日の婚活パーティーどうでした? 好い方、いました?」
店の客が途切れた日曜昼下がり。パート従業員の女性が、暖簾をくぐって工場から店舗に顔を見せた香織をつかまえて、甲高い声で話しかけていた。
しゃがみこんで木枠のショーケースに羊羹を補充していた奏は、作業の手を止める。
(婚活……)
「俺は世話人だから。男性の参加者が少なければ参加したけど、結構人数いたんだよね。地域のご老人方が遺憾に思うくらいに、結婚する気はあるのに未婚の男女って多いんだって実感した」
香織は、軽い口調で応じている。背中でその声を聞きながら、奏は羊羹の角度を確認して、ガラス戸を閉めた。立ち上がれずに、その場にじっとしゃがんだまま、会話をやり過ごそうとする。
「社長もそろそろ、どうなんですか。あの母屋で一緒に暮らしている、綺麗な……」
「藤崎さんは、西條と一緒に『海の星』の社員寮感覚で住んでるだけだから。シェアハウスって感じ? 無駄に広いから、あと何人か増えてもいけそう」
「そういうテレビ番組なかったでしたっけ。若い男女で暮らして、恋を育む」
「ごめん、俺テレビ見ないからよくわかんない。たまに映画くらいは見たいから配信系の何か契約しようか、って西條と話していたんだけど……、あいつもいつまでうちにいるかわからないからな~」
「西條さんの次のお仕事、市内ですよね?」
「そうなんだけど、あいつも色々あるからね。案外、いきなり結婚したりして」
結婚!? と女性が声を上げたのと、客がからりと戸を開けて店内に踏み込んできたのが同時。
「いらっしゃいませ」
奏は素早く立ち上がって声をかける。背後から、香織の明るい声がぴたりと重なっていた。
ドキッとしつつ、絶対振り返るものかと入ってきた男性客に微笑みかける。それでいて意識は後方に向かってしまう。「じゃ、お願いします」と香織がパート女性に言っていた。そのまま工場に去るのだろう、と奏は思っていたが「柳、事務室まで」と続けて言われる。
「え……」
振り返ったときには、ぱさ、と揺れる暖簾と香織の白い作務衣の後ろ姿が一瞬見えただけ。パート女性に目配せとともに頷かれて、呼ばれたのは勘違いではないと確認した。
同じ職場といえど立場の違いは明白であり、香織に話す気がなければ奏から話しかけることもできない。何日も言葉を交わすこともなく、顔を合わせることがないのも普通だった。仕事に慣れ、会社組織になじんでしまえば、それを受け入れざるを得ず、何も知らなかった頃のように振る舞うことはできなかった。
身の程知らずとはこのことかと、たった二ヶ月前の自分を思い出して、気が重くなる。
(年齢差くらいは理解していたつもりだけど、現代日本で社長だパートだと「身分差」があるなんて思っていなかったから。だけど、組織内での上下関係はあるし、椿香織を知るということは、その取り巻く環境を知ることでもあって……。今はどんな顔で話せば良いかもわからない)
呼び出されたということは、二人で話し合うつもりなのだろうが、戸惑いが先に立って心以上に足取りが重い。しかし、就業時間中である以上、仕事に関わる用件のはず。
奏は暖簾をくぐって廊下に踏み出した。
* * *
「高校、正式に退学したって親御さんから聞いた。本人はこのまま椿屋で仕事を続けるつもりのようですって。柳自身の口から、そのへん聞いておきたい。心境の変化とか、無いの」
事務室の応接セットでソファに腰掛け、向かい合うなり香織は切り出した。
言われた奏は、真正面から香織を見ることもできずに俯く。
「いまは働くのが日常って感じです。学校行くのと変わらない、かな」
「変わらないなら学校に行けば良かったんじゃないかと、俺は思うよ。仕事はこの先何十年でもできるけど、学校は、そうはいかない。もちろん、勉強するのは何歳でもできるけど。学校は……」
下を向いたままやり過ごそうとしていた奏であったが、そこで顔を上げて香織を真正面から見た。
「そうやって、学校を特別なものみたいに言わないでください。学校行かないひと、辞めるひとだってたくさんいるじゃないですか。ひとと違う生き方、道を外れると大変って何度も何度も言われますけど、それはそう言うひとたちが、他の生き方をよくわかってないからですよね」
苛立ち。ああ、またやってしまった、と言ったそばから後悔するのに、止められなかった。
黙って聞いている香織のすました表情からは、何を考えているのかまったくうかがえない。それが不安で、さらに言葉を重ねようと、奏は大きく息を吸い込む。
その勢いのまま、いましも烈しい言葉を香織に浴びせかけようとした。
すんでのところで飲み込んだ。
ここで香織を言葉で打ち据えて黙らせるのは簡単だが、現実は何も変わらず、問題は何ひとつ解決しないということを、奏は知っている。
見せかけの勝利の先には、何も無い。
奏はそうっと息を吐きだして、口をつぐむ。
香織もまた、深く息を吐きだして、ソファの背もたれに寄りかかった。奏と視線を絡めて、ふっと目を細めて微笑んだ。
「大人になったな。そこで堪えることができるのか」
「……大人というか……、無駄なので。べつに、椿社長は私の敵ではないですから。戦って、勝ったつもりになっても、意味がなくて。言われる椿社長は嫌で、面倒くさいだけでしょうし。私の気持ちが晴れるわけでもなく、言い過ぎたことに落ち込むだけで……。誰も幸せにならないですよね」
ぼそぼそと言うと、香織はさらに相好を崩して、ふふっと笑みをこぼした。
「すごい。そこまで考えることができるようになったんだ」
「その……、親目線というか社長目線というか……。良いですけど。育てて頂いているのは事実なので」
気勢を削がれて、奏は脱力しながら告げる。
無駄に肩肘張らないのも、揚げ足取りで相手を傷つけ自分まで落ち込むのも、全部。だめだと思いながらもやめられないできた悪習から、少しずつ抜け出しかけているのを感じる。
(大人になっているのかな。悪くないとは思うけど、ものすごく良くなったかっていうと。もともとの自分が駄目すぎただけだから、普通に近づいただけというか)
ちらりと香織を見ると、何かを期待しているような顔をしていた。もうひと押しという意味かと、奏はつばを飲み込んでゆっくりと言った。
「私が以前と比べて変わっているとして、それが良い方向へというなら、いまの環境のおかげだと思うんです。それこそ、あのまま学校やめるやめないという位置で立ち止まっていたら、何も変われませんでした。仕事をすると決めて、自分なりに進んできたこと、この決断が正しいか間違えているかは、いまの時点では判断ができません。でも、この先の生き方で、間違いじゃないことにできるんじゃないかと思っていて……。いまの私は周りの大人から見て『間違い』かもしれませんが、きちんと自立して生きていく道筋が見えたら、その人生はありってことにならないかなって……」
香織が、横を向いて、肩を震わせている。手で口元を覆っているが、笑いを堪えている仕草なのかと、奏は妙に落ち込んだ。
「おかしいですか」
「いや。全然。ごめん、真面目な顔で聞いていたかったんだけど、笑って泣きそうで。いやもうほんとマジで涙出てきた」
「そんな嘘……」
奏が睨んだ先で、香織は長い指の先で目尻をおさえて、涙を拭いはじめた。「ええ……っ」と奏が声を上げると、「ほんとごめんってば」と言いながら、両手で顔を覆って俯いてしまう。
「……泣くほど?」
「泣くほどだよ。すげえ心配してたんだって。柳、自分の人生どう考えてんのかなって。俺はただの勤め先の上司でしかないからね、その範囲でしか柳に関われない。できることは最大限にしようと思っていたけど……いや、子どもが大きくなるのは早いってこういうことなんだなぁ。柳、ついこの間までは小学生だったのに」
「小学生ではないよね? それいつの記憶? 捏造でしょ?」
小学生並だった、という意味合いなら甘んじて受け入れなければいけないかなと思いつつも、さすがに言い過ぎと、奏はつい反論してしまった。
香織は「ごめんごめん」と言いながら、指でぐっと涙を拭き取って顔を上げる。
目元が赤くなっていて、嘘ではなく実際に泣いていたとわかり、奏はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
照れ笑いのように、あはははと声を上げてから、香織は晴れやかな顔になる。
「良かった。それでいこう。高校辞めたことが正しいか間違いか、判断保留だ。この先の柳の生き方でそれを挫折でも失敗でもなく、ただの通過点にしていく。そのための協力は惜しまない。本気で和菓子職人をめざすって言うなら、教えられることは教えるよ。それこそ茶道も華道も全部勉強になるからやってみた方が良いと思う。茶道なら俺の先生を紹介できるし、華道は……。知り合いの造園業者がそのへんできるかも。勉強するつもりなら、聞いておく」
「伝統芸みたいなのは、よくわからなくて。もちろん、必要なのはわかるけど。道具とか想像もつかないし。何から」
奏は戸惑いをそのまま告げる。気が急いたように立ち上がっていた香織は、奏を見下ろしながら、明るい声で答えた。
「初めはみんなそうだよ。大丈夫、俺の古い道具を譲ることもできる。イメージつかないなら、今日仕事終わった後に母屋で茶を点てようか。時間大丈夫?」
「時間は大丈夫……」
(だけどそれは、ただの従業員に対して『特別扱い』じゃない? 甘えて大丈夫なの? 母屋にって)
胸の中に広がったもやもやとした疑問を、奏は結局口にすることはなかった。
(血の繋がりはないけど、私の親のつもりなんだもんね……)
いつか香織が家庭を持った時に、自分の居場所はさすがにそこにはないだろう。それまでの間、少しだけ親子のように接することを、許してほしい。
まだ見ぬ彼の妻子に謝るような気持ちで、奏は自分自身に対してもそう言い訳をした。




