泥沼と墓穴と
西條聖を目の前にしたまどかの心境として、ひとつ。
(目立つ。最近見慣れて麻痺していたけど、このひと顔が良すぎるし、声も綺麗でよく通るし。というか声、大きい。ものすっごく目立つ)
西條が言っているのは、直近の風早との会話ではなく、菊池とのやりとりのことだろう。
せっかく持ち前の接客業気質を総動員して、機嫌を傾けた菊池をまるで「難しい客」を扱うように料理に誘導して挽回していたはずなのに。なぜまどかの元へ戻ってきて、蒸し返すのか。頭ごなしに叱りつけるように絡んでくるというなかなかパンチの効いた方法で。
まったくもって始末に負えない。あの件はもう触れないで欲しいのに。自分の不甲斐なさを揺り起こされて情けない気持ちにもなる。
まどかはできる限りの無表情で「あのですねえ」とそっけなく言った。
「西條さん、さっきの聞いていたんですか。結構距離ありましたよね」
「途中から。聞いていたしむかついていた。なんであんなに弱腰なんだ。普段べつにそうじゃないだろ」
(地獄耳……ッ)
聖はまどかに対し、敬語とタメ口が混じり合った話し方をする。べつに敬語が使えないひとではないように思うのだが、仕事仲間というよりは少し友人寄りの距離感のために、口調が崩れがちなのではないかとまどかは受け取っている。
友人……、そう、限りなく友人。
これはおそらく自分の友人が名誉を傷つけられたことに憤慨しているとかそういう類の不満なのだろう、と理解した。そのくらいには、まどかは西條聖という人間を知っているつもりである。ただしその義憤が嬉しいかどうかは別問題であった。
「普段と違って悪いですか。婚活に来ているんですから、そういう、結婚を意識した男女の会話になっても普通じゃないですか」
「それの何が普通なのか俺にはよくわからない。婚活だからって自分を偽ってどうするんだ。いざ結婚ってなったら良い面だけ見せてなんかいられないだろ。この先の長い人生を一緒に歩む相手を探すのが婚活なんだ。というか館長は普段の方が全然可愛い。遠慮して物を言えない姿なんか見たくない」
西條さん。
と、勢いのまま言い返すつもりだったまどかであったが、何かとんでもないことを言われたせいで一瞬で喉が干上がった。
口が、はくはく、と力なく動く。顔が熱いような手指の末端が冷え込んでしまったような、自分で自分がよくわからない状態になる。
周囲が静まり返っているのを肌でひりひりと感じる。切実に、静まり返らないでほしい。談笑が聞きたい。
視線も集まっているようだが、確かめる気にならない。誰にどんな目で見られているのか、確認するのが恐ろしすぎる。
どうにも出来ないまま、紙コップのお茶を飲もうとした。口に近づけたところで、指が震えて取り落としかけた。
正面から聖が腕を伸ばしてきて、まどかの手ごと紙コップを掴む。きわめて気のない様子で「館長、手元が危ない」と言ってきた。
(ゆび……ゆびが……ゆびが触れててというか、落としそうになった私が悪いんですけど、手、手、手をはなして頂かかないとですね……!)
もはや自分が何を考えているかわからない。先程、聖が女性と話していたときに「もう少し手加減してあげなよ」なんて思っていたが、今もまた同じことを考えている。もう少し手心を加えてもらわないと、と。
視線を落ち着かなくさまよわせて、聖の手を見る。「はなすぞ、落とさないで」と声をかけながら聖が手を離す。左手。これまで何度も見た左手。薬指。今日は指輪がない。
「指輪、外したんですね。婚活に来るのにつけてられませんもんね」
見たままの光景を口にしてしまった。
その効果はてきめんだった。
もはやBGMすら息をひそめているのではいかという静けさが辺りを包み込む。婚活会場が異次元のスフィアとなって現実世界から切り離されたくらいの静寂だった。
その壮絶な空気が何を意味しているのか、まどかは気づくのが遅れた。
背後で風早が椿に対し「あれ、彼は既婚者?」と尋ねている声が耳に届き、ようやく理解が追いついた。
(きっ……既婚者だけど既婚者といいますかいまは独り身で女性と会話したり口説いたり恋に落ちても何も問題がない立場でもちろん婚活にきても全然悪いことはないんですけどっ。べつにその対象が私じゃなくても良くていやそういう話じゃなくて。あ~~~~~~、西條さんっ)
およそ最悪の疑惑をもたれるようなことを言ってしまったが、焦りすぎてろくに言葉にならずにあわあわとするばかり。
助けを求める相手は聖ではないというのに、ごめんなさいとすがるように見上げてしまった。
聖は、まどかの失言には気づいていないはずがないのに、のほほんとした調子で言った。
「館長の手、震えているけど。お茶飲めないなら飲ませてあげようか。俺、介護結構うまいよ」
にこり、と微笑まれる。底が知れなくて、空恐ろしい。
ある程度周りに聞こえるのを意識しているかのように、椿が風早に対して「奥さん、いたんだけど、病気で亡くなってる。結構前に」と答えていた。
聖の発言と椿の説明を合わせてみれば、おのずと浮き上がってくる聖の事情。
想像すると胸が痛くなるその話。まるで、そこに濃厚に漂う死の気配にとらわれるのを避けるかのように、周囲の人々がぎこちなく会話を再開する。
まどかと聖の周囲だけ静寂に取り残されたまま。まどかは表情を作れず、ひきつった笑みを浮かべて言った。
「介護、大変でしたよね。えっと……、西條さん、次に結婚する相手は年上より年下の方が良いんじゃないかと思います」
「年下?」
「はい。あの、ほら、年齢差があると、相手が先に年取って、また介護が必要になるかもしれないじゃないですか。だから」
「俺の妻は二十二歳で死んでる。若くても介護が必要なときは必要になる」
(死にたい。不謹慎なのはわかってるけど、誰か失言の止まらない私を殺してください。もう無理)
顔を覆って、泣いてしまいたい。
ほんの一瞬で落ち込むにいいだけ落ち込んだまどかであったが、聖は表情も変えずに「あのさ」と声をかけてくる。
「はい……」
「真っ青なんだけど。館長、前もそういうことあったよな。持病でもあるんじゃないの? 病院行ってる?」
「病気ではなくて……。自分がだめすぎて」
「椿の家近いけど、休んでいく?」
「構わないで頂けると僥倖です。もう、ほんと」
少しでもしゃべるとまた自分が何を言い出すかわからず、まどかは口をつぐむ。
まるで、見るに見かねたという様子で椿が近寄ってきて、聖の肩に手を置いた。
「料理、うちの台所にまだ残ってるよね。館長さんとちょっとうちに行って休みながら食べてきたら。こっちはもういいから。可及的速やかに。早く。行って」
香織
「西條に婚活ができるだなんて、どうして俺は考えてしまったのか。西條は西條だよ……。夏っちゃんの喧嘩にびびって止めてひと安心だなんて思っていたけど、西條がおとなしくしているわけがなかった……。あ~も~酒飲みたい」
夏月
「俺、由春と明菜ちゃんが結婚したって聞いて、とりあえず顔でも見るかなって帰省したんだけど。今日あたり海の星に行っているはずだったんだけどな。……香織、とりあえず飲むか?」
香織
「夏っちゃん、下戸でしょ。いいよそういう気遣い。いいよもう……」
そんなお疲れの二人にいいね!を。
という小ネタを毎回あとがきに入れたらどうかなって思いましたが、やると言ったことを速攻で忘れそうな作者なのでたぶんやりません……(・∀・)!!