意外と言えること
「前回、見ているようであんまりきちんと見れなくて、また改めて来たいな~と思っていたんですけど、ひとりでテーブル使ってもお店にご迷惑かな~と予約も入れづらくて。いざ来ても入るに入れなくて」
月曜日、昼下がり。
レストラン海の星においては、ランチタイムも終わりの頃。退店する老夫婦を外まで見送った蜷川伊久磨は、店の前を通り過ぎた見知った女性に声をかけた。
びくっと肩を震わせ、挙動不審に振り返ったその相手は野木沢まどか。気の毒なほど動揺した様子で、怒涛のような言い訳。
ひとしきり聞いたあと、伊久磨はのんびりと話しかけた。
「とりあえず中へどうですか」
「もうランチも終わりのお時間だと思いますし、ご迷惑ではっ」
「お腹空いてませんか? ランチは売り切れてますけど、お昼ごはんがまだなら何かご用意できるかとは思います。さすがに一般のお客様にこういったご案内はしませんけど、野木沢さんですから。お腹空かせてお店の前にいたのに帰したって言ったら、西條さんが許さないかと、あれ?」
その名前を出しただけで、まどかの反応は大変目覚ましいものだった。恐ろしいものでも見るかのように伊久磨から目をそらさぬまま、身を引いて、一歩後退。今にも、脱兎のごとく逃げ出しかねない気配。
(どういう反応なんだこれ。西條さん何やったんだ)
少しでも刺激したら均衡を崩す危険性を感じ、伊久磨まで緊張から呼吸を止めた。そのまま見つめ合う。
すぐに、埒が明かないと気づいて、息を吐き出した。
何しろ仕事中。長話も出来ないので、直球を投げることにする。
「西條さんと何かありましたか」
「無いですね。無いです。あるはずもないです。既婚者じゃないですか、あの方!!」
無言で見つめ合うこと、約五秒。
その間に、伊久磨は思考を整理した。
(典型的な「聞いてもいないことを白状されている」状況だよなこれ。既婚者かどうかってことが話題に上がるっていうのは、つまり、そういう。野木沢さん側が、西條さんを意識しているってことでいいのか。西條さんは? 何をどこまで言って、こういう誤解が生まれている? 既婚者だなんて)
伊久磨の知る限り、西條聖がそのへんの事情を伏せようとしたところは見たことがない。
また、何より伊久磨は仕事中なのであった。まだ店内にお客様がいる。戻りたい。立ち話をしている場合ではない。
その思いが大変強かった。
「既婚者ではありますが、現在は独身です。西條さんに奥様はいません。亡くなっています。結婚後すぐに」
感情を殺して、事実のままに告げようとしたが、それは他人の伊久磨でさえ、痛みを伴う言葉であった。
自分の声を耳にするだけでも、取り返しのつかない喪失感がある。
もしそんなことが我が身に降り掛かったら、おそらく自分は生きていけない。その確信がある。たとえ死の間際に、最愛の相手からどれだけ「生き続けること」を願われても。そのひとが死んだ瞬間から、この世が地獄よりも地獄、奈落の底でしかなくなるのだから。
それは、馴染みのある闇。
「奥様……、いないんですか。結婚指輪してるから……てっきり。私、だけじゃなくて、美術館のスタッフはみんな、知らなくて。いままで、いる前提での会話を、いつも。西條さんも訂正しないですし……」
まどかはぽつぽつと話した。視線を虚空に向けて、さまよわせながら。
その戸惑いが、伊久磨にはよくわかる。「知らずに残酷なことを言ってしまったのではないか」「触れてはならないことに触れたことはなかったか」今までの会話を頭の中でさらっているのだろう。
(事情を知っていれば言わないようなことでも、知らなければ言ってしまうことはある。それは、知ってから後悔しても、どうにもならない。その痛みが耐えられないものなら、西條さんは先に打ち明けてしまうしかなかった。西條さんがそうしなかったのなら、周りの気遣いにも限度はあって)
つとめてさりげない口調で、伊久磨は告げた。
「気持ちは、ずっと奥様とともにあるんですよ。西條さんはそういうひとです。自分が独身だというつもりが、あまり無いんじゃないかと。それは他人の目から見たときに、現実を受け入れてないように見えるかもしれませんが、だからといって誰にもどうにもできません。もしかしたらあの傷もいつか……、癒えるのかもしれないけど。癒えるというのも変ですね。傷そのものは決して消えないですから。だけど、風化したり、それほど痛くなくなったりはするかもしれません。そのきっかけに関して、周りから『新しい恋でもすれば』とは言えないです。その言葉が、西條さんを救わないことはわかるから」
言ってしまってから、自分がまずいことを言っていると自覚した。
聖が既婚者かどうかを気にしていたまどかは、おそらく今現在恋愛感情を燻ぶらせている。そこに冷水を浴びせてしまった。
まどかが「そうなんですね」と感情のこもらない声で答え、うつろな笑みを浮かべたのを目にしたとき、まざまざとそれを実感した。
(はやく訂正を。これは他人の俺が口を出す話題じゃない。野木沢さんより、西條さんとの付き合いの長い俺が「西條さんはこういうひとです」と言えばそれが真実になってしまう。だけど俺だって、西條さんの心の中なんか知らない。勝手に決めつけていいことじゃない。「恋でもすれば」と言えないのは……、俺があのひとに自分を重ねてしまっているからで。同じ状況で、自分がそれを言われたら、言った相手を許さないだろうと。だけど、西條さんは俺とは違う人間だから)
正しいことがわかっていても、どうしてもそれを口にできないときがある。今がそれ。
こんな決めつけは聖に寄り添うことにならないと知りながらも、この先彼が傷つくことをできるだけ取り除いてしまいたい一心で。
捻じ曲げてしまったまま、訂正できない。
「よく、わかりました。ありがとうございます」
微笑んだまま、まどかは頭を深々と下げた。
顔を上げても、張り付いたような笑みはそのまま。
「中で休んでいきませんか? せっかくですから」
もはや何を言っても空虚にしか響かない伊久磨の言葉に対し、まどかはゆるく首を振って言った。
「全然お腹空いていないんです。いまは何も食べられません。かえって失礼なことになってしまいますので、私はこれで失礼します。皆さんにも、よろしくお伝えください」
隙の無い言葉と笑顔。もう一度頭を下げてから、伊久磨に背を向けた。絶対に声をかけないで、と背中が言っていた。
* * *
「西條さ、いい加減恋愛したら良いと思うんだよね」
椿邸にて。発言主は椿香織。
藤崎エレナ不在の夕食。ちゃぶ台を囲み、聖の作った「子羊のロティ」を肴にワインを飲みながら。
グラスを傾けていた聖は、飲まずに口をはなし、向かいに座った香織に鋭い視線を向けた。
「うっせぇな」
「いやいや、うっせぇとか言ってないで。もうそういう年齢じゃないでしょ、西條。俺もすごくいろいろ考えたんだけどね。西條は結婚した方が良いと思うんだ」
「してるっつーの」
「過去形だよね? 気持ちの上で別れてないから既婚者のつもりかもしれないけど、世間的には『死別』ってつまり独身だよ? なんか最近の西條見ていると、人間として後退しているような気がして」
「おまえ……はっ倒すぞ。何を根拠にそんなろくでもないこと言い出したんだ」
「根拠なんかないよ。勘だよ勘。たださ、西條って勢いが怖いから、周りの連中、思ってても誰も言わないじゃん。岩清水とか言わなそう。伊久磨も遠慮しまくってそう。だからさ。俺が言っておこうと思って。恋愛しなよ、西條。後生だから」
「Pardon?」
何言ってんのか全然わかんねえ、という険しい顔で、聖は煽るように言い返す。
言われた香織はきょとんとしたまなざしで聖を見てから、ワインを一口飲んで、言った。
「日本語わかりづらい? もっとゆっくり話そうか?」
「いい加減にしろ。酔うの早すぎだろ」
「大丈夫大丈夫、そんなに酔ってない。酔ってないから言ってるの。湛さんももうすぐ父親、伊久磨ももうすぐ結婚。この家から送り出した俺としては、あ~、西條のことも送り出してぇなぁ、みたいな」
「何が『みたいな』だよ。史上最強に意味わかんねえ」
普段がぶがぶとワインを飲むようなことなどない聖が、このときは一瞬でグラスを空にした。すかさず香織はボトルを手にして傾け、ちゃぶ台に置かれたグラスに注ぎながら、「じゃないと俺とこのまま添い遂げる感じになるけど、そのへんどうなの」と呟く。
グラスに手を伸ばしていた聖は、指先が触れたところで動きを止めた。
「おいやめろ。グラス倒すところだった」
「自分で片付けるならべつに何してもいいよ。俺は俺で楽しく飲んでるから。でもこれが五十年続いたらどうなるかなー。お互いの介護してるかも。西條の倒したグラスの片付けをする俺……」
「ほんと、マジでどうしたんだ椿。絡み酒やめろ……」
突然の未来予想図(楽しくない)。
言い返す気力も失った聖の前で、香織は「は~」とため息をついて天井を仰ぐ。
「西條を送り出してからじゃないと、俺も結婚できる気がしない」
「人のせいにするなよ。椿が結婚できないのは椿のせいだろ」
「否定はしない。自分のせいだよ。だけど西條のせいでもある」
「俺のせいなら藤崎だって……、まああいつのことはいい。俺のせいでいい、全部」
この場にいない人間に責任を被せる卑怯さに折れたのか、聖が全面的に認めた。
その様子を見ながら、香織はにこりと笑った。
「ということで。商店街のうるさ方から『町おこし婚活イベント』やれって言われてるんだけどさ。西條、参加するよな? もちろん参加するよな?」
「……そういうことなら早く言えよ。まわりくどい」
ようやく真意が読めたと、聖はひとまず安堵する。その気の抜けたタイミングを狙いすまして、香織はもう一度言った。
「参加して? 家主からの強制。俺と一緒に、婚活しよっ」