花はいつか
恥ずかしい。自分が。
(浅ましい。西條さんは住まいが下宿だし、奥様の話もほとんど私にはしないから、てっきり別居なのかと。そして……、もしかしたら、不仲なのかと)
静香と別れ、館内の展示室に向かい、隅に立ちながらまどかは脂汗の滲む額を手の甲でぬぐった。
吐き気。
数名いた客が順路に消えて一人になったところで、深い溜め息をつく。
全身に、震えるほどの寒気がある。まどかは腕を交差させ、自分の両手で強く掴んだ。気を抜くと、脱力して座り込んでしまいそうになる。
恋は、かくも醜い。
痛いほどに自覚した。
少なくともまどかにとってのそれは、好きなひとの幸せを願うという、優しいものではなかった。
西條聖がもし、相手とうまくいっておらず、いつか別れることがあれば、と。
(その先にあわよくばなんて思っていない。そんなつもりはなかったけど……。私は心の底で願ってしまっていた。もしあのひとに、奥様がいなければ)
全部言い訳。
苦しみから逃れるために、ずっと抜け道を探していた。そんなものはどこにもなかった。
そこにいるはずのひとの、不在を願うなど。まるで呪い。
もし仮に、今より未来にその願いが叶い、西條聖が独り身になることがあったとしても、まどかはきっと自分を許せない。
それは彼にとっての不幸であり、その状態を望んだ自分の呪いのせいだと、折に触れて思ってしまう。
まどかは力なく首を振って、目を瞑った。
いまこの場にひとりで良かった、心からそう思った。なのに。
「館長……?」
知った声に呼ばれて、心で悲鳴を上げて目を向けた。
順路を逆流する形で、西條聖が顔をのぞかせていた。のみならず、すたすたと歩いてくる。
よりにもよって。
逃げたい。
脂汗がまたもやじわっと滲んできた。自分の精神状態もまずい。今は会いたくない。
気持はまったく通じず、聖に目の前に立たれてしまった。
* * *
「確認したいことがあったんだけど、その前に、顔色どうした。まずそこのソファに座った方が良いですよ」
「大丈夫です。業務中ですし、いつお客様がお見えになるかもわかりませんから」
「わかるけど、体調悪いときは自分優先。倒れたらどうするんですか。『スタッフは、どんなに具合が悪くても、誰も見ていない瞬間でも必ず立っていろ』なんて客がいるとしたら、その方がどうかしている。座って」
さすがに、聖からまどかの手を掴んでひくことまではしない。
それをいいことに、まどかは右手で左腕を掴んで体を支えつつ、横を向いた。
「お構いなく」
「震えてない? 悪寒? 熱でもあるなら余計にまず休まないと」
「ですから」
「あんまり何回も言わせるなら、抱きかかえて運びます。お姫様抱っこってやつ。されたい?」
(されたいかされたくないかでいうと、されたくはあるけど絶対されたくないし、されたら死ぬやつです間違いなく)
想像だけで死ぬかと思った。
「……歩け……ます……」
「遠慮しなくて良いですよ。体調悪い人間の対処は慣れてる。マジで吐きそうなら我慢しなくていいし、歩けないなら俺に掴まってくださいよ。無理しても何も良いことがない」
声は、沁みるほどに優しかった。
それじゃあお言葉に甘えて、と邪念のままに彼に触れることも考えたが、目論見もろとも消し炭にされてしまった気分。
そこに、付け入る隙は何ひとつない、そう思い知らされて。
がっくりと頭を垂れたまま、まどかは展示室内をのろのろと中央まで進んで、円形に並べたボックスタイプのスツールに腰を下ろした。
その正面。
聖が、片膝をついて顔をのぞきこんできた。
青い目が、真摯な光を宿してまどかを見つめている。心臓が悲鳴を上げる。
「熱? 寒いですか。喉が痛いとか、他にも何か。業務は誰かに代わってもらえないんですか」
「気分が悪かっただけで、少し休めば良くなると思います」
「どうして急に。悩み事でも? 一人になると考えすぎるとか、そういうことですか? 仕事の話なら聞きますよ。仕事以外でも、俺で良ければ」
一言、一言に労りが滲んでいて、聞いているだけで辛くなってくる。
(このひとは、優しい。わかりやすくはないけれど、周囲のひとへの気配りが細やかで、よく見ている。決して、恋愛対象ではない私にすら、これほどまでに。……ごめんなさい。せめて奥様より早く会いたかった。どうしてもそう思ってしまう。……もっと早く会いたかった。勝ち目がなくても)
返事をしなければ。
そう思うのに、胸がいっぱいで、言葉にならない。喉が苦しい。目を開けていられなくて瞼を伏せたら、つう、っと熱い涙がこぼれ落ちてしまった。
「辛そうだ。移動しましょう」
「大丈……、構わないで、ください」
「そういうのは、大丈夫とは言わない」
毅然として言い切られた。そのまま、膝裏に腕を差し込まれ、背を支えられて抱え上げられる。まさかの、お姫様抱っこ。
固い胸に引き寄せられて、まどかはぱくぱくと口を動かした。
(腕、腕折れませんか。私ふつうに体重あります。あ~~どうしよう、嘘、どうしよう! 普通こんなことしないでしょ……!)
「そこの順路の途中に、立入禁止区域になっている横道があったけど、あそこ倉庫に通じてる道ですよね? 工事のときに館内の図面は見ています」
聖はまどかの小さな抵抗を抑え込むように両手に力を込め、順路へと向かう。ロープの張ったポールパーテーションを大股に越え、立入禁止の通路を進み、両開きの黒いドアの前に立った。まどかを片腕で抱え直し、片手でノブを掴んで開け放つと、その中に身を滑らせた。
ぱたん、とドアを閉めてしまえば、廊下の柔らかな光すら届かず、真っ暗闇。
しん、と静まり返っていて、まどかは身じろぎすらできない。
「電気どこにあります? それとも、このままの方が話しやすい?」
「……下ろして頂けると」
「どこに何があるかわからないから、俺は不用意に動けない。ドアのそばにいるから、館長は自分の良いように離れるなり、座るなり」
注意事項を言い終えると、聖はまどかをその場に下ろしてくれた。
倉庫内、物品の大体の位置をまどかは把握しているが、敢えて暗がりに踏み出す気にもなれず、置かれた位置から動かない。
ただ、緊張のために手足がガクガクとしていたので、しゃがみこんで息を吐き出した。
そこで、我に返った。
「いけない。西條さん、こんなところ誰かに見られたら、あらぬ噂になります。二人で業務中に仕事を放り出して、明かりをつけない一室に閉じこもっていただなんて。私はともかく、あなたは困るでしょう」
「ああ。確かに、この状況は問題があると言えばある。言いたい人間がいるなら言わせておくしかない。俺は平気だよ。自分にやましいことが無いのは知っている。館長こそ、部下の手前、立場が無くなるようなら悪かった。もう少しまともな場所へ行こう」
(このひとはどうして、いつもこんなに、完璧な回答をくれるのだろう)
静香との会話を見た後だけに、自分に対しての接し方は「よそ行き」なのだということはわかる。だからといって、「嘘」ではない。
返事に、少し悩んだ。
頭の中にはいくつもの言葉が浮かんでいた。「平気と言っても、奥様に誤解されたら困るでしょう」といった、試すようなセリフが。
それでさらに「平気だよ」との言質をとっても、自分の何が救われるわけでも認められるわけでもないのに。
西條が妻と不仲であれば良いと期待したのと同様に、いまこの瞬間だけは妻である女性より優先されたいなど、願うだけでもどうかしている。
彼も彼の大切なひとも、まどかが振り回して良い相手ではない。
「悩みというか……、考えすぎて具合悪くなったんです。婚活しようかなって。ほら、結婚していないと一人前じゃないような風潮、昔ほどではないと思うんですけど、やっぱり感じるんです。私の場合女なので、仕事の立場上『だからといって、産休・育休は困る』というのもセットですけど。それくらいなら独身でいてくれた方が使い勝手が良いって、周りは思っているかなー。口では『良い人いないの?』『結婚は?』って言ってきますけどね」
(うわ。しまった。何をぺらぺらと)
聖に関しての発言を避けた結果、自嘲混じりに余計なことを盛大に言ってしまった。聖は落ち着き払った声で返してきた。
「うん。聞いてます。それで? 誰かにそう思うようなこと、言われたんですか? 顔色が変わるほど」
「べつに誰も悪くないです。私が勝手に悩みだして、止まらなくなっただけです。西條さんも、さっきのフローリストの方も、私と年が変わらないのに、自分とは違うなと。私は実家暮らしで、いつまでも甘ったれで、変わるきっかけがほしくて」
「それで婚活ですか。たしかに結婚は人生変わると思いますよ。良い相手に出会えると良いですね。俺の周りで紹介できそうな独身……、いないことも無いけど、どうかな。相手なんかいないって顔していたくせに、いきなり結婚した奴もいるし。下手に知り合いを紹介してこじれても……」
胸の中で芽吹いて咲こうとしていた花に、季節外れの雹が降り注いで、無残に枯れた。
春来ず。
(わかっていたけど、本人に「お前には興味がない」ととどめを刺される失恋は、格別。でも耐えてみせる……このくらい)
「出会い、無いですからね。結婚相談所かな。子ども産んで欲しいって言われたら困りますけど。せめて美術館の経営を正常化させて軌道にのせるまで」
「子どもは授かりものです。コントロールできると勘違いしているうちに時間が流れてしまう。館長、すぐに高齢出産の年齢ですよね。欲しくないならともかく、欲しい気持ちが少しでもあるなら、そこまで計算しようと思わない方が」
「意外。西條さん、お子さんは……」
いるとも、いないとも。そういえば一度も聞いていないと気づいた。
暗がりのため、顔は見えない。
闇の中で、聖が笑った気配があった。
「極稀に、羨ましいと思うことはあるんです。咲かなかった花を思い出して。いつか平気になると信じています」




