桜降る水面、空白の椿へ祈りを
和嘉那と暮らすようになって、季節の移り変わりに対しての「恐怖」が薄れ始めた。
春があまり、怖くなくなった。
(桜降る水面。あのひとの命を奪った冷たい水。椿の家に住む人間は、ずっと家の裏手を流れるあの川の音を聞いていた。空白の椿。先代と香織の間。あのひとが若死にして、空いて継がれなかったそこを、香織が当主として立ち、引き受けた……。まだ若かった。あの時からこれまで、かなりの無理を)
修行先に先代の死の一報が入ったとき、「早すぎる」と思った。
独りになるには、早すぎる。ひととしても、職人としても、香織はまだ育ちきっていないのに。
取るもの取らず、何もかも投げ捨てるように振り切って、椿の家に戻った。
夜になると、静けさの中に川の音が忍び寄る、古びて広すぎる日本家屋。
長くのばした茶色髪を結び、喪服を身に付けて喪主を務める香織の血の気の失せた横顔。硝子のように澄んだ瞳。壊れやすく、脆い。身長に体重が追いついていないのは昔からで、すらりと若木のように伸びた体は、折れそうなほどに細い。
椿の家に生じた空白がすべて、あの体にのしかかっている。母の不在、父の夭折、相次ぐ祖父母の死。
(香織は、どこにも行かない。いつもそこにいて、受け止めようとしていた。誰かが縛り付けたわけでもないのに、決して動かず。……というのは周りの都合の良い解釈でしかない。香織が逃げ出せないように、皆が少しずつ仕向けた。たとえば、職人の道を進みながらも、椿の家を一度出た。俺さえも)
香織の根が「良い子」であることを疑わず、誰も彼もが寄りかかった。周囲の思惑には気づいていただろうに、香織は黙って耐えた。
(俺は本来まったく他人で、人生の中で何年か一緒に暮らすこともあったけれど、香織にとって他人以外の何かになることは結局なかった)
椿の空白の原因を作っておきながら、どうしても香織の力にはなれない。
そんな自分が、自分だけが救われることなどあってはならないと。
ありもしない重荷を背負って、せめて何かを分かち合った気分になろうとしていた。その重荷の中身は初めから空で、いつまでも持っていても誰の為にもならないと、目を開かせてくれる相手に出会うまで。
ずっと自分の無力が怖かった。春が来るのが怖かった。桜が風に舞い、花びらが水面を埋める光景が怖かった。
川の音が聞こえるあの家に暮らすのが怖かった。
和嘉那と暮らすようになって、頭の中の大半を占めていた恐怖が確実に、薄らいだ。
* * * * *
喫茶「セロ弾きのゴーシュ」の引き戸に手をかけて、湛は一度動きを止めた。
今日は仕事中、ずっとその音が聞こえているような気がしていた。疲れているのかなとやり過ごそうとしたが、聞き間違いではないらしい。
チェロの音。
湛は、店舗の戸にかけた手に力をこめた。苦もなく、戸はからりと開く。
弦の奏でる優美な音色が店内から溢れ出し、何もかも包み込むように響き渡る。たとえようもなく、優しく歌い上げるような調べ。
店主の樒は、店の中央。いくつかのテーブルを適当に寄せて、椅子に腰掛け、チェロを弾いていた。
波打つ灰色の髪を後頭部で結び、黒縁眼鏡をかけている。座っていても、肩幅の広さや足の長さからその体格の良さが見て取れた。弦を押さえる指は骨ばっていて大きく、いとも滑らかに、器用に次々と位置を変えていく。
奏者の姿。
戸口に腕を組んで立ったまま、湛は声をかけることもなく、音色に耳を傾けていた。
やがて曲を弾き終えた樒は、吐息とともに弓を下ろす。
「いらっしゃい。珈琲飲むの?」
「飲む」
「楽器片付けるから座って待ってて。ああ、テーブル動かしてるから、気になるなら直して」
「俺か」
「俺、体ひとつだからさ。全部同時にはできない。お願いした~」
ぬけぬけと。
湛は楽器を持って立ち去る樒を背に、テーブルに手を伸ばして慎重に持ち上げた。「俺は客だぞ、当たり前に使うな」と言う気にもならないのは、樒の妙な貫禄のなせる技。
(言い合う気もしない。それでサービス業が務まっているのかと、苦言すら出てこない。実際この店は潰れないでずっとここにあるし、現に俺は客として来てしまっている……)
珈琲が美味しいのだ。だから。
そう自分に対して言い訳をしていた湛は、妙なものを見つけた。
端のテーブルに、身を投げ出すように伏せている人影。艷やかな黒髪には見覚えがあった。
「西條。何してる。邪魔だぞ」
暇なのかと訝しみながら尋ねると、倒れていた西條聖がゆっくり体を起こした。頬にかかる乱れた髪をぐしゃっと片手でかきあげながら、薄く目を開ける。青い光が、差す。
「水沢こそ何してる。わざわざよその店にきて掃除?」
「起きてるなら手伝え」
湛は聖に取り合うこと無く、「テーブルのそっち側持て」と指示を出した。
のろのろと立ち上がってから、聖は両腕を突き上げて伸びをする。
「水沢、仕事終わったんだろ。こんなところで油売ってていいのか? 奥さんの見舞いは?」
「病院の面会時間が二十時まで。事前申請で付添の食事も用意してもらえるから、十八時の夕食を一緒にとるようにしているけど、まだ少し早い。あまり長いこと話していても、疲れさせてしまうから。個室でもないから周りのこともあるし」
「そっか。奥さん、座るのもあんまり良くない症状なんだっけ」
「本人は元気だよ。ただ、入院のきっかけが出血で救急車だから、今は大丈夫って言われても怖いみたいだな。なるべく動かないようにしている」
話しながら二人で協力してテーブルを持ち上げ、大体の位置に戻す。
ちょうど楽器をしまい終えた樒が、エプロン姿でカウンターに立ち、湯を沸かしはじめていた。
自然と、湛と聖は肩を並べてそちらへと向かう。
椅子に座った聖は、カウンターに突っ伏してしまった。
「西條? 寝てないのか?」
「今日は一日オフだって。疲れが出てるみたい」
湛の質問に代わりに答えたのは、ドリップコーヒーを淹れている最中の樒。ふわっと香りが広がる。樒に目を向けてから、湛は今一度聖に視線を戻した。
「家で寝ろ。椿邸にまだ暮らしてるよな?」
「うん。だけど……あの家、静かなときにひとりでいると、川の音が聞こえて落ち着かないんだ。川の上で寝ているみたい。変な夢をたくさん見る。三途の川、渡れない夢」
「渡るなよ。行かせるか」
カウンターの向こうから樒が、ロイヤルブルーのカップに珈琲を注いで皿にのせ、差し出してくる。馥郁たる香りが強まり、湛は目を伏せてその空気を吸い込んだ。
聖は呻きながら顔を上げ、背もたれにより掛かるように座り直して、ぼそりと言う。
「水沢が俺を引き止めると思わなかった」
「べつに西條だから引き止めているわけじゃない。ただ、あの川を渡ってあの世に行こうとしているひとがいたら止めるだけだ。冷たくて暗くて深いから」
「ああ……、椿の親父さんか」
何気なく呟いた聖は、ぼんやりとしたまなざしでどこか遠くを見ていた。その言葉の意味、湛に与える影響、何も関知していないかのように。
指が震えて、湛はカップに伸ばした手を引っ込めた。
(空白となった椿。あまりにも若く逝った。もとから体が弱く、職人になれるとは誰も思わなかったと聞く……。ただしそれは、才が無いということを意味しない。俺があのひとを知り、後にこの道に進んだ一件が、あのひとの死に繋がっているわけで、どうしたって「職人」として出会い向き合う世界はなかったのだろうけど。知りたかった、と思っている。何を見て何を感じ、どんな菓子を作るひとだったのか)
面影すら朧げな相手だというのに、近頃香織を見るとよく思い出す。かのひとの、淡い微笑を。
会わせたいな、と。ただそれだけを願う。祈りのように。
(香織はいま、あなたの年齢を超えるほど生きて、職人として、椿の当主として生きている。他人の自分ですらそれを眩しく、誇りに思う。叶うことなら会わせたい。香織を残して死にたくはなかっただろう父親に)
「水沢はさ、偉いよな親になるって生き方。俺はそういうの、一生縁がないから」
「何も、結婚して子どもを生み育てるだけが人間の選択肢じゃない。今はそうじゃない生き方も選べる時代だ」
「そうは言うけど、それを選んだ人間がすごいって事実は変わらないんだって。遥か昔から続いてきた人間の選択のひとつだ。決して楽じゃない、誰だって知っている。水沢は誇っていいんだ。父親になる生き方を選んだことを」
聖は言うだけ言って立ち上がる。樒に向かって仄かに笑った。
「良い音で、よく寝れた。周りの雑音全部消えて、チェロだけが聞こえた。ありがと」
「どういたしまして。珈琲飲んでくれないと会計できないから、次は飲んで行ってね」
初めから飲むと思っていなかったのか、聖の分の珈琲は用意されていなかった。
立ち去ろうとする背を追いかけるように湛が目を向けると、すでに歩きだしていた聖が肩越しに振り返った。
「奥さん大事に。言われるまでもないだろうけど、大切な時期だろ」
「ありがとう。和嘉那にも伝える」
「うん。水沢も倒れるなよ。俺も昔奥さんの病院に通ったから、少しわかる。自分のことも大事にしろよ」
すぐに前に向き直って、店を出て行ってしまう。
「いろんな痛みがあるよね。痛みはひとを損なうけど、他人を思いやる心に変えるひともいる。それは他人だからこそだよ」
「なに、良いこと言おうとしてる? よくわからない」
樒に笑いかけ、湛は珈琲のカップに手を伸ばした。
――ずっと自分の無力が怖かった。春が来るのが怖かった。桜が風に舞い、花びらが水面を埋める光景が怖かった。
(だけど今は生きていたいと思います。これから生まれてくる子どもと和嘉那とともに、いくつもの季節を、可能な限りたくさん一緒に過ごしていきたいと願っています。これはあなたに頂いた命です。ありがとうございます。香織のことは見守るしかできませんが、あなたの分まで願います。幸せを)
指の震えはいつの間にか治まっていた。




