結婚未満
ただいま。
すぐ近くで聞こえた声に、静香はハッと顔を上げた。
視界がぶれて、揺れている。膝の上に広げていた花屋向けの大判雑誌の固さや重さが不意に感じられて、うたた寝していたことに思い至った。
伊久磨が独身時代から暮らしていたアパートに、今は二人で暮らしている。定位置となっているのは、ベッド横の床。ラグマットに座って、ベッドに寄りかかっていることが多い。
「伊久磨くん。おかえり。あたし、寝てたよね。寝てた」
「うん。どうしようかと思ったけど、せっかく起きて待ってようとしていたみたいだから、起こした」
仕事帰り。「海の星」で着用している黒のズボンはそのままに、シャツは店で着替えていて、薄いグレーのTシャツ姿。「黒尽くめだと、帰り道で車にはねられて死ぬからやだ」と静香が主張した結果、最近は明るい色も着るようになっている。
腕時計を外しながら、「今日は何かあった?」と声をかけてきた。
「何か……というほどのことも無いかなぁ。ふつうに仕事してた。伊久磨くんは?」
「仕事は仕事かな。そうだ。そういえば、和嘉那さんが今日の日中、入院したって。救急車で運ばれて」
「出産? 予定日よりまだ早いよね?」
話が飲み込めないまま静香がそう返すと、伊久磨は外した腕時計をパソコンデスクの前に置いて「又聞きで詳しいことはわからないけど」と前置きをして説明を始めた。
切迫早産という症状で、子どもが育ち切る前に生まれてしまう危険性があり、普通の生活を全部中断して寝たきり生活になるらしい、と。
「現代の医療だと、未熟児で生まれてもいきなりどうこうってことは無いけど、十分育ってから生まれたほうが良いのは間違いないからって。二千五百グラム以上って言っていたかな。もしくは予定日頃まで。とにかく動いちゃいけないとか」
伊久磨の情報は断片的であり、静香も今まで妊娠・出産に関わりがあったわけではないので、説明がぴんときているわけではない。ただ、予定日まで家で過ごすわけにはいかない程度の危機的状況ということは理解できた。
「えーっ、水沢家一大事だね! そっか。うちは親戚としては何ができるかな。お見舞い……?」
顎に手をあてて思案していると、立ったままの伊久磨がぼそりと言った。
「実はうちは、水沢家とは親戚じゃない。こう見えて他人」
「あれ、そうだっけ? 奥さんの和嘉那さんはシェフと姉弟で……、シェフは水沢湛の義弟で、明菜さんは義妹で……。あれ? 水沢湛、椿邸に暮らしていたけど香織とは他人だし、シェフも伊久磨くんとは家族じゃなくて……、ほんとだ。うち、べつに水沢家の親戚じゃなかった」
誰も彼も、なんとなーく繋がっているような気がしていた。だが、たどっていくと伊久磨に繋がる縁はどこかで途絶えている。いわゆる、「血縁」という意味では。
「『海の星』で言えば、シェフと明菜さんは夫婦だし、俺と光樹は義兄弟だから、見渡すと縁戚関係多く感じるんだけどね。少し前までシェフとオリオンは一緒に暮らしていたし、西條さんと藤崎さんも同居しているけど、あそこだって親戚というわけでもなく」
「西條さんと藤崎さんと香織の関係は、難しすぎて誰にもわからないよね」
「他人があえてわかる必要は無いんじゃない? 本人たちが良いうちは良いんだよ。だめになったらなったで大人なんだからどうにかするだろうし」
さら~っと言う伊久磨の横顔には、ほんのりと疲労が滲んでいる。普段仕事の愚痴というものを口にすることは無いが、さすがに閉店後で自宅ともなれば、一日の疲れが出てくるのは仕方ない。
「伊久磨くん、伊久磨くん。疲れてるみたいだからハグしてあげよう、ほらほら」
静香は両手を広げて、おいでおいでをしてみる。伊久磨は一瞬動きを止めたが「とりあえず、面倒になる前にシャワーしてくる」と近づいてくることもなく言った。
「なんということでしょう……! 新婚なのに奥さんは後回し」
「いや……、一日働いてきた後だから色々匂いもついているし。ちょっと待って。それに新婚といえば、今はあっち。シェフを、迅速に家に帰すのが至上命題だから。何も食べてない。少しゆっくりしたい」
どことなく眠そうな目をして、背を向ける。静香は素早く立ち上がって駆け寄り、背中に向かって声を上げた。
「こんなに可愛い奥さんが家で待っているのに、その幸せを噛み締めてみようとは思わないの?」
動きを止めた伊久磨は振り返って、両腕を伸ばして静香を抱き寄せ、胸に収めた。片手で静香の髪を撫でながら、覇気の無い声で呟く。
「奥さん可愛い、奥さん可愛い。世界一可愛い。俺は幸せ者です。シャワー行って良い?」
「うん。いってらっしゃい!!」
「ありがとう。いってきます」
満面の笑みで送り出す。伊久磨は再び歩き出し、部屋とキッチンの境目で肩越しに振り返った。
「和嘉那さん、疲れさせるといけないみたいだから、お見舞いは控えた方が良いんじゃないかと。湛さんが毎日通うだろうからって、シェフも病院には行かないみたい。出産祝いのことはそろそろ考えようか。静香、育てやすい鉢植えで、子どもの生まれにちなんだのとか何か無いかな。忙しいかなって思ったけど、湛さんがいるからきちんと世話してくれると思う」
「それ良いね! 最初の一、二ヶ月とか余裕ない時期はあたしが見てても全然良いし。子どもが生まれたときに木を植えるのとか、憧れ。岩清水邸の庭ならなんでも植えられそうだしね……」
話題に食いついて話しているうちに、伊久磨が少し遠くを見るような目になっていることに気づく。
静香はきゅっと拳を握って、笑顔を作った。
「佐々木さんも近いんでしょ、予定日。一人分も二人分も変わらないから、一緒に考えておくよ」
さまよっていた視線が、静香に向けられた。口元には苦笑。
「ああうん。佐々木さんのことは、俺とシェフでどうにかと思っていたけど……、明菜さんもいるから」
「あと、香織も昔なじみなんだよね? あたしはべつに仲良しでも友達でもないけど、あたしの顔色うかがって付き合ってもらう必要はないから。お祝いはお祝いとしてする。佐々木さん、これからひとりで子ども育てていくときに、絶対に周りをがんがん巻き込むんでしょ? こっちだって、はれもの扱いしていても仕方なくない? あたしもいつ何時関わるかわからないから、普通に接するつもり」
静香は「海の星」の従業員ではなく、産休に入る前の佐々木心愛とはひと悶着あり、決して良好な関係ではない。だがそれはそれとして、いずれ心愛は職場に復帰するし、そうすると伊久磨とは毎日顔を合わせ、静香も間接的・直接的に関わることになる。
ひと悶着に関して「気にしていないよ」というほどの度量の広さがあるわけではなかったが、そこにこだわったままだと周りが気を使うのはよくわかっていた。
静香の発言に対し、伊久磨はほっと吐息して言った。
「ごめんなさい。静香にそう言ってもらえると助かりますが、無理なときは無理しないでください。佐々木さんは俺にとって仕事仲間だけど、それこそ親戚でもなんでもなく、静香まで無理に付き合う必要のない相手です。嫌な思いをしながら我慢されるくらいなら、無視で良いんです。俺にとって仕事仲間は大切ですが、静香以上に優先する相手はいません。そこは俺を信じて」
表情や声で、それが伊久磨にとっても、どれだけ気がかりだったかがうかがえる。心愛のことも静香のことも大事。だが、そこには明確な優先順位があるということ。
(親しき仲にも礼儀あり、だよね。伊久磨くんの、あたしに対してそういうことを有耶無耶にしないところがあたしは好きだよ)
「大丈夫、信じてる。その上で、協力したいというのはあたし自身の意思だから、伊久磨くんも思いつめないで。この状況で、和嘉那さんだけ祝って、佐々木さんを無視しちゃうのは、あたしが収まり悪い。はい、シャワーに行って」
長々続ける話ではないとばかりに打ち切ると、伊久磨は微笑んだまま頷いた。目元に甘さを滲ませて、優しい声で囁いてくる。
「静香が奥さんで良かった、と思いました」
「ん!? ところがまだ結婚していないので! 奥さんでは無いんです! あたしもさっき間違えたけど」
「そういえばそうだった。彼女とか恋人? 結婚、先延ばしにしすぎたかな。早く結婚したい。明日する?」
「ええー、予定変更するとまた何があるかわからないから、そこはもう決めた通りにいこうよ。引っ越しの予定もあるんだし、いろいろ変わってきちゃう。はい、この話はおしまい。さっさと行って行って」
伊久磨を追い立てるように部屋から押し出し、静香はベッドのそばまで引き返す。床ではなくベッドに腰掛け、そのまま横向きに倒れ込んだ。
枕に手を伸ばしてひっつかみ、胸に抱き込む。
目を瞑っていると、やがて遠くでシャワーの水音が聞こえ始めた。
――早く結婚したい。明日する?
軽やかに言われたセリフが耳の奥で響いて、呻きながら枕に顔を埋める。
(恥ずかしくて先延ばしにしちゃったけど、明日できるものなら明日したい……。早く本当に奥さんになりたいです)
押し隠した本音を胸のうちだけで呟いて、枕を抱きしめる腕に力をこめた。
※今回水沢夫妻か樒さんのエピソードも書くつもりだったのですが、「このひとたち波乱が無くて……」と見送りになりました。
「大丈夫だよ、出番少ない水沢夫妻書いてもいいよ!」という方はぜひ「いいね!」でお知らせください。
「さっさと本編を進めてOK!」の方も「いいね!」を……!?
※いいね模索中ですが前回たくさんのいいねをありがとうございましたー(๑•̀ㅂ•́)و✧