ずっと恋してる
その時間が近づくと、明菜は落ち着かなくなる。
何度も壁掛け時計を見上げて、手元のスマホを見下ろし、そろそろかな、とそわそわする。
夫の帰宅時間。
リビングのソファの上にひっくり返って、じたばたするくらい、落ち着かない。
(慣れない……っ。一生慣れる気がしないっ。十代の頃からずーーっと好きだった相手が、一緒に暮らしていて、同じ家に帰ってくるってそんなのあり? 大丈夫?? 私、明日死ぬの? むしろもう死んでる?)
二人で新生活を始めたのは、駅近くの新築一戸建て。
黒い外壁の隠れ居酒屋のようなモダンな佇まいで、木の格子のはまった引き戸を開けて玄関を入ると、コンクリート床の広い土間。ウォークインクローゼットがあって、釣り道具や自転車が置いてある。オープンキッチン付きの広いリビングは岩清水家本邸を彷彿とさせる作りで、「実家の倉庫にあった」と運び込んだ家具類はどれもお洒落なアンティーク風。キッチンの裏には洗面所と浴室、ベッドと大型のテレビを置いただけの寝室。その他、リビングの横に洋室一部屋があるシンプルな作りの平屋。
由春が「ソファは少し良いものを買おう」と選んできた、やけに座り心地の良いソファがリビングの主役。明菜がひとりで家にいるときは、だいたいそこで過ごしている。
本を読んだり。
配信チャンネル契約済みのスマートテレビで映画やドラマを見たり。大体、上の空で。
(待たなくて良いって言われているけど……、寝られるわけがない)
一緒に暮らしはじめてそろそろ一ヶ月だというのに、「海の星」の閉店時間を過ぎた頃から小さな物音にも耳をすませてしまう。足音を聞き逃すまいとするせいか、身じろぎすらしない。しまいに体が硬直してくる。すぐには動けないくらいに、全身がバキバキに強張ってくる。
コーヒーを淹れても一口も飲まないままアイスコーヒーになっているし、スマホを見ていたはずが画面がいつの間にか消えていてる。
自分が何をしているかも全然わからないくらい、前後の記憶が抜け落ちてしまう。ただただ待ち遠しい。
先に帰宅した明菜は夕食も風呂もすませ、ルームウェア姿。「プライベートでも頑張りすぎ」と由春に思われたくないのと、「新婚時代くらい可愛くしても」の間で揺れていて、いまだに何が適切なルームウェアかもわからない。その日は、夏物のワンピースを部屋着におろした体で、コットンの白のワンピースを身に着け薄いカーディガンを羽織っていた。明菜の普段の服装からすると完全に「ガーリー寄り」で可愛い。ただし、あくまで古着なので「がんばってない」のである。自分に対する言い訳は抜かり無い。
「今日……遅くなるかな……」
ソファに座り直し、スマホの画面を表示させる。
そのとき、ガチャ、と玄関でドアを開ける音がした。ひゃっ、と声にならない悲鳴を上げてスマホを床に落とした。スマホはそのままフローリングにごとん、と音を立てて転がる。あわあわあわ、としゃがみこんで拾い上げていたところで、由春がリビングに顔を見せた。
* * *
そろそろ見慣れよう、自分。
何度言い聞かせても、無理なものは無理。
少し茶色がかった髪。母親や和嘉那によく似た横顔は端整で、眼鏡がよく似合う。コックコートから着替えた私服姿は、ブランド物のシャツにダメージジーンズ。
床にしゃがみこんだ明菜を不思議そうに見て「ただいま。どうした?」と言った。
「お……」
おかえりなさいが言えない。声が出てこない。
由春は首を傾げて、近づいてくる。
「寝てた? もしかしてソファから落ちたのか?」
「そういう……」
そういうわけじゃなくて。舌がもつれて、全文言えない。半分も言えない。何もかも言えない。
「どこかぶつけた? 立てるか」
ついには、由春が目の前に到達。しゃがんで目線を合わされた上で、手を差し出されてしまう。銀色の結婚指輪のはまった、長く骨ばった指。器用に料理を作り、ピアノを奏でる繊細な指。
(とても……とても掴めない……ッ。ずっと憧れ続けてきた手。指輪なんかしてくれないと思っていたのに、「別に邪魔にはならない」って言ってつけてくれているし。尊すぎて触れない……)
明菜にとってはまごうことなき神の手。しかし由春は明菜の躊躇いなどさっさと乗り越えてしまう。
気遣うような仕草で明菜の頬にかかった髪に手を差し入れて、指で髪を軽く梳いた。指が耳を掠めた瞬間、明菜は息を止めた。
「薄着だな。夜はまだ寒いだろ。ソファで寝たら風邪ひくぞ。遅いんだから、俺を待っていないで寝室で寝てても良いのに」
間近で見た笑顔は蕩けるほどに甘く、声が優しすぎて頭がぼうっとしてくる。一瞬でのぼせた。目頭が熱くなってきて、慌てて瞬きをして、緊張も興奮もやり過ごそうとする。
「待っていたくて。その、寝ていたわけじゃなくて、スマホ床に落として拾おうとしただけで」
言い訳しながら立ち上がると、由春も同時にその場に立つ。
普段伊久摩の長身を見慣れてしまって長身耐性ができているとはいえ、並んで立つと由春との身長差は歴然。
見上げると、視線がぶつかる。
由春は、目にも鮮やかにふわりと笑って言った。
「その服可愛い。似合う」
「……っ」(※無理ですその笑顔)
ドストレートな褒め言葉に返事もできない明菜の前で、由春は眼鏡を片手で外す。流れるような動作で体を傾けて唇に唇を重ねた。
すぐに顔を離して、ごく近い位置で目を細めて囁いた。
「シャワーしてくる。遅くまで待たせて悪かった」
固まっている明菜の髪を片手で撫でて。ふっ、と息だけの笑いをもらして浴室へと向かった。
もはやそれを見送ることもできないまま、明菜はその場にゆっくりと崩れ落ちた。
拝啓
夫がかっこよすぎて死にそうです。敬具
(な……にを言っているか自分でももう全然わからないけど、いま誰に手紙を書いたのかもわからないけど、あんなかっこいいひとが夫って大丈夫? 私、明日死ぬレベルで運使い果たしてない? 春さんって、昔っからかっこよかったけど、年齢重ねても一ミリも後退しないし一緒に暮らしても幻滅する隙がないし毎日かっこいいし優しいし色気ダダ漏れなんだけど、バグ? バグってない? チート?)
サァァァァ、と遠くで水音がする。
この後、ドライヤーで乾かしても少し濡れた髪で、プライベートルームウェア仕様(どんな服装かは誰にも教えません)で出てきて、軽い会話を交わしながら晩ごはんを食べて一緒に就寝……
頬から首筋まで赤くなってる自覚があって、明菜は床に座り込んだまま両手で顔を覆った。
心臓がドキドキと痛いほど鳴って、胸がきゅうっと痛い。
「だめ……死ぬ……。死因、春さんがかっこよすぎで……」
自分でも(新婚だなぁ……)という自覚はうっすらあって、かなりのぼせあがっているとは気づいている。たとえば「海の星」の誰かに見られたら即座に死因が「羞恥」に変わる。間違いない。
それでも、止められない。
もう結婚しているのに、結婚する前より、再会したときより、ずうっと前に初めて出会ったときより。
今の方がずっと好きで、ずっと恋している。
耳をすませて帰りを待った後、今度はシャワーの水音が止まるのを呼吸も控えめにして聞いている。
すでに深夜に近い時間帯で、翌朝も早い時間から二人とも仕事のために家を出る。それまでの短くも濃密な数時間。
今晩は二人でどんな会話をして過ごすのだろうと思うだけで、ほんのりと笑いがこみ上げてくる。
幸せだな、と。
※いいねが実装されましたー!!(๑•̀ㅂ•́)و✧
いいねは誰がどのタイミングで押したか書き手側には一切わからない仕様なので、
シャイな方もぜひ。
このついでにおっと★★★★★★★★★★を忘れていたという方も、
この機会にぜひいかがでしょう。
(๑•̀ㅂ•́)و✧