銀の軌跡とハナミズキ
来てるわよ、と村上にはずんだ声で言われて、まどかは書き物の手を止めた。
カウンターから入り口に目を向ければ、すらりと背の高い青年が入ってきたところ。すれ違った女性客がさりげなく横目で見ている。
青年は、軽く首を傾げるようにしてまどかに視線を向けてきて、浅い会釈をした。
「西條さん、ほんと素敵よね。芸能人みたい」
まどかの横で、村上が小声でまくしたてる。考えたことはまどかも同じだったが、何しろ相手は既婚者。無闇にはしゃいではならぬと自分自身を戒め、村上に小声で返す。
「仕事関係の方ですよ。来るたびに騒がないでください」
ちらっと確認すると、西條は目の前を通過している女性客に道を譲って立ち止まっていた。
横を向いた拍子に、けぶるような青の瞳が遠くを見つめる。その、芸術品としか思えない横顔。
妙にはしゃいだ村上に、耳打ちをされた。
「そりゃあ、指輪しているひとだけど。出会いの順番なんか些細なことだと思うわ。館長、応援してるわよ」
ひくっと唇が引きつる。同時に、さあっと血の気がひく感覚。目の前が一瞬、暗くなった。
(出会いの順番って。それってつまり、「結婚指輪なんか気にするな」とでも? 不倫のすすめですか。村上さん、自分の旦那さんが職場で好き放題に言われていたら嫌じゃないんですか。それとも、私のせい? 私が、西條さんをそういう目で見てる? 周りから誤解されてしまうほど物欲しそうに)
情けないような、悔しいような。
まどか自身は道を外れた望みなど抱いていないのに、周囲から無責任に寄せられる興味が鬱陶しい。
「冗談でも、やめてください。順番は絶対です。そもそも応援も何も、仕事ですから」
早口で言ったところで、ふっと目の前に人が立った。
「こんにちは。少し時間があるから来たんだけど、いま忙しい?」
深い響きの、低い声。
まどかが答えるより先に横に立っていた村上が「いいえ!」と明るく答える。
「館長でしたらいまちょうど手が空いたところなので! 閉館業務はやっておきますから、ごゆっくり!」
「村上さん」
ぐいっと背中を両手で押されて、カウンターの中から押し出される。
まどかとしては迷惑な気遣いだが、西條が悪いわけではないので、不機嫌な顔をしているわけにもいかない。腹をくくって、「どうしましたか」と話しかけながら歩き出した。
* * *
「用事というほどじゃないんだけど。今日の昼間、救急車呼んだって聞いた。水沢夫妻」
入館受付はすでに終わっており、新たに展示室へ向かう客はいない。人気のない方へと足を向けていたら、自然と順路に入っていた。
もともと空いている上に閉館間際とあって、展示室は無人。
自然に肩を並べて歩きながら言われて、あ、と思わず声が出た。
「気になっていたんです。旦那さんの方から、こちらに電話くださったんですけど、直接対応できなくて。お知り合いなんですよね?」
「一応。椿屋にも連絡があったみたいで、無事だって」
「良かったです。安心しました」
薄明かりの中向き合ったところで、西條の視線が自分にしっかりと向けられていることに気づく。
真正面から見ると、改めてその瞳の青さに目を奪われた。咄嗟に、言葉が出てこない。
まどかの不自然な態度に構わず、西條は展示の絵をぐるりと見回すように首をめぐらせていて、再び目を向けてきた。
「野木沢さんの絵は? 野木沢きょうさんじゃなくて、館長の方」
西條の視線がまどかから外れたほんの一瞬。無防備な横顔を食い入るように見つめてしまっていた。
目が合ったときに、おそらくそのことに気づかれた。見ていないふりをするのが間に合わなかった。ふっと西條が軽く息を吐き出して、笑った。
「びっくりするとこ?」
「びっくり? びっくりですか?」
「いま。目、見開いてた。なに? そこから何が見えるんですか」
言うなり、西條は一歩まどかに向かって進み、横に並んで立つ。その位置からもう一度周囲を見渡して、ぽつりと言う。
「そんなに景色が変わった気がしないな」
「あ……たりまえじゃないですか」
(私は展示を見ていたわけじゃなくて、西條さんを見ていたんですよ。なんて、言うわけにはいかないですが)
肩が触れそうな近さ。西條が立っている右側の体半分が、異常に緊張している。顔も赤くなってないかな、と不安になって思いっきり反対側を向いてしまった。
西條は前方を見たまま、響きの良い声で滔々と流れるように言葉を紡ぐ。
「当たり前じゃないですよ。いつも自分が働いている店でも、実際に客席に座ってみると、それまで全然気づかなかったことに気づくんです。自分の立ち位置から、自分が見ているものだけがすべてじゃない。『あのひとは何を見ているんだろう』って気になったら、そのひとの立っている場所に自分も立ってみないと。俺はいつもそうしてます」
「どういうときに、気になるんですか。他人の視界」
気を紛らわせたくて、会話を続行する。平常心、平常心と自分に言い聞かせる。
そうだなぁ、と西條が呟いた拍子に肩がぶつかった。ごめん、と言われて触れ合った事実を強烈に意識した。大丈夫ですと言おうとして、顔を上げた。
そのまどかの目の前。すっと、銀の軌跡がよぎった。左手の指輪。
「他人の見ているものが気になるのは、相手に興味があるときだろうな。店だったら、お客様の感じていること、考えていることはすごく興味がある。仕事の話で言えば、上に立つか下で使われるかの『立場』という面もあるけど、どちらに立ってみることも経験として重要。今は……」
言葉を切って、体ごと向き合ってくる。正面からまどかを見下ろしてきた。
「野木沢さんの絵の切り口が心に残ってる。世界がどういう風に見えているひとなんだろうかと思った。その場ですぐに気の利いたこと言えなくて悪かった。良い絵だったと思う」
真摯なまなざし。
視線がぶつかった瞬間、撃たれたように自覚した。全身に痺れが走った。
(…………嘘。私はいつから西條さんのことを、こんなに好きになっていたんだろう。「順番なんか些細」って言わせたのは私なんだ。誤解じゃなくて、事実として私の態度が疑いよう無く「恋」なんだ。落ちている。このひとに)
仕事だとわかっていても、会えると嬉しい。姿が見えただけで、気持ちの張りが違う。目で追ってしまう。声が好き過ぎて苦しい。
思いが溢れ出しそうになって、だめだ、と自分に言い聞かせる。見ている高さを西條の首辺りにさりげなく落として、まどかは目を合わせぬまま微笑んでみせた。
「考えないと『良い』と言えないような絵は、べつに良い絵じゃないんですよ。ピカソの絵なんて凄いですから。以前美術館で絵の前に立った瞬間、ぶわってきました。絵から、得体の知れないエネルギーが出てるんです。心がざわっとして、浮足立ったところを鷲掴みにされる感じ。飛行機が離陸するときの浮遊感みたいに、別世界に飛ぶイメージです。そういうのが私が考える『良い絵』です。私の絵は」
(私の絵は?)
言葉選びに詰まったところで、西條がその後を継いで言った。
「その定義なら、やっぱり俺にとって野木沢さんの絵は良い絵だった。異界に連れて行かれそうな絵。現実と重なった平行世界、こことは違うどこか。料理でも、普段『美味しい』は反応ですぐにわかる。『美味しい』って言葉が出るから。一拍置いて、考えながら『こういう理由で美味しい』って言われたときは内心そんなに美味しくなかったのかなって身構えるよ。だけど、判定基準はそんな単純なものだけじゃない。すぐには言葉にできない美味しさっていうのは、実際あるんだ。時間を置いてから、ふっと『あれはなんだったんだろう。もう一度食べてみたい』そういう美味しさ。野木沢さんの絵はそれに近い。たった一度しか見なかったあの絵が、ずっと俺の心にひっかかっている。ここに来たら、壁にかかっていないかと目が探していた」
熱情を孕んだ低い美声が、他に誰もいない展示室に響く。心が揺すぶられる。
心臓が、その手に直に掴まれる感覚。
まどかはいつしか息を止めていた。感情が高ぶりすぎて、目が潤んできてしまい、そっと横を向く。
(絵のこと、めちゃめちゃ褒められてる……。好き。本当に好き。末期。どうしようもなく、私はこのひとのことが好き。絵が褒められているのに、絵だけじゃなくて、自分も同じように見られたいなんて。初めてかもしれない)
ずっとそういう感情からは、距離を置いてきたのに。
絵は名声の道具じゃない。絵に与えられる評価を自分の価値と混同したくない。たった一枚の絵がほめられても、次の絵は駄作と貶されるかもしれない。
そのとき、絵と自分を同一化してしまったら、自分が否定された気がして、死にたくなる。
作品とは距離をおかねば。冷静でいなければ。ずっとそう思っていたのに。
絵ではなく。
絵と同じように。
絵よりも。
私を見てほしい。
(恋って、こんなにダメな感情なんだ。人間としての矜持が崩れていく)
いま自分が、人生で初めて、その深みに落ちたのをはっきり悟った。
西條の左手を落ち着き無く瞬きながら確認してしまう。指輪は依然としてそこにある。
その相手を好きになるのは、道に外れること。
「私の絵は、今度また何かの機会に。どうぞここでは野木沢きょうの絵を御覧ください」
「そうだな。この美術館の絵にも詳しくならないと。花の絵がメイン、と。花言葉も料理するときに結構調べるから意外と詳しいよ。たとえばあの絵は……」
話を逸らしたら、西條も深追いはせずに壁の絵に目を向ける。そして、呟いた。
「ハナミズキだ。花言葉は『私の思いを受けてください』だったはず。ほら、詳しいだろ?」
悪戯っぽい笑顔を見たら、足元の床が崩れ去るかと思った。
――私の思いを受けてください
ごめんなさい、西條さんの奥様。
私はこの思いを決して打ち明けることはありません。
許してくださいとも言えません。
胸の痛みを無視して、まどかは「正解です」と笑顔で告げた。