浄化する微笑
触れた唇を離す。奪うというより、ただ押し付けただけ。
(キスの仕方なんか知らない。一瞬過ぎてなんだかわからなかった)
目を開いて見上げた香織は、眉をしかめて顔を歪ませていた。
それは怒りではなく、見ている奏の方が胸が潰れるほどに悲しい表情。少しだけ首を傾げるようにして、奏の顔をのぞきこんできた。
「どうしてこんなことをした。何も嬉しくも楽しくもない。ただ傷つけ合うだけの行為だ。柳も俺も」
声が暗い。
奏の耳は、他人の声に敏感だ。感情が塗りつぶされたような、あまりにも沈んだ声。
怯えながらも、奏はきちんと香織の目を見ようとしたが、その視線の先で世界がブレて、乱れた。
視界いっぱいに、黒いクレヨンで上からぐちゃぐちゃに描き殴ったような落書き線が現れる。香織の顔はその向こう側。絡まりあった黒いもじゃもじゃの奥で香織が何か話しているように見えるが、声も聞こえない。
聞きたいのに、言葉のすべてがもやもやとした音に変換されて、何を言っているかわからない。
(何かを話しているのに、聞こえない。わたしの心が拒否しているから? 呆れられて、嫌われて、突き放される。決定的な拒絶を聞いてしまえば、もうここにはいられない。事実を受け入れるのが怖くて)
ときどき、黒い落書き線が小さくなって、表情が少しだけ見える。険しい顔。声は聞こえない。
聞かないと、と焦れば焦るほど声は得体の知れない音となって耳になだれ込んできて、奏は足をふらつかせた。
吐き気。
「柳」
膝が勝手に折れて、床につく。体を支え切れなくて、その場に座り込んでしまった。前のめりに、がっくりと頭が垂れて肩が下がる。
「具合悪いのか?」
(聞こえた)
香織の声が、意味をもった言葉として耳に聞こえる。
奏は息を吐き出しながら、なんとか声を絞り出した。
「吐きそう」
「立てるか?」
本当に吐くかどうかはわからなかったが、喉元まで気持ちの悪さがこみあげてきている。目を開けているとめまいがひどく、俯いたまま目を閉ざした。冷たいような熱いような、変な汗が体中からどっと噴き出す不快感。唾を飲み込むだけで、喉が詰まりそうで、青い息を吐いた。
(苦しい。怖い。気持ち悪い……どうしよう。どうしよう。また怒られちゃう。早く立たなきゃ)
薄く目を開けた。胸が苦しくて、うっ、と呻きが漏れる。
次の瞬間、有無を言わさぬ強い力で香織の腕に引き寄せられて抱き上げられていた。
「そこのソファに横になれ。仰向けとうつ伏せはどっちが楽? ……しゃべるのも無理そうだな」
応接セットの、革張りのソファに横たえられる。身動きすらできず、置かれた姿勢のままうつ伏せになっていると、少しの間を置いて足元にブランケットのようなものをかけられた。
「発作か何かなのか、それ。そういうときに飲む薬は持ってるか? どう対応すれば良い? 親御さんに聞いたときはそんな話はしていなかった」
「……気持ち悪い、だけ……。薬は無い……」
(精神的な……。自己嫌悪が爆発して、限界で振り切れちゃった。わたしはわたし自身が、本当に嫌い)
椿香織を怒らせて、失望させ、呆れられた。もう見捨てられる、その覚悟をして奏は目を閉ざす。
沈黙の後、ごく近い距離にひとの気配を感じた。
うっすら目を開けると、床に腰を下ろした香織が、ソファの座面を背にして寄りかかってきているのが確認できた。
奏は目を瞑った。
「吐く」
「いいよ。我慢しないで」
「……迷惑かけちゃう」
「具合悪いときは周りのことまで気にするな。まず休め。落ち着いたら家まで送るから」
目を閉じたまま、吐き気をやり過ごすように、浅い呼吸を繰り返す。
やがて、香織の声が耳に届いた。
「柳と最初に知り合ったとき、川に飛び込んでいたのを、思い出した。あれからまだそんなに経ってないんだ。本当は今も死にたいくらい落ち込んでいても不思議はない。本人がやれるって言うから仕事をさせていたし、給料出ている以上働くのは当然だって思っていたけど。……ずっと辛かった?」
静かで、染みる。
昼下がりにアスファルトを湿らす霧雨。真夜中に音もなく降り積もる雪。夜明けの青い光の中で開く花のように、ひそやかに。
ささくれた心に、その声が浸透していく。
「今日、柳を持っている間に、湛さんのとこの奥さんの件もあったから色々調べていて。出産とか育児の記事もたくさん読んじゃったんだけど。出産って、全治一ヶ月の交通事故にあうくらいのダメージが母体にあるんだって」
(出産?)
何を言い出したのかと、奏は無言で聞く姿勢。返事がなくても気にしないように、香織は話し続ける。
「だから、見た目に大きな怪我があるわけじゃなくても、最低でも一ヶ月は静養していないと体が回復しない、と。だけど休んでもいられないって無理するから、産後鬱になったり。それを読んでいたら湛さんにきちんと育休とってもらわないとって思ったんだけど。ふと『これって出産の話だけじゃなくて、身投げ自殺とかもどうなんだろう?』って思ったわけ。柳は見た目に怪我が残ったわけじゃないけど、見えない部分の傷がいまどんな状態かは、他人にはわからないから。わからないせいで、仕事、出来るものならやってみろって、無理させすぎたんじゃないかと」
「やるって言ったの、わたし……。やれって言われたわけじゃなくて。悪いのはわたし」
「うん。知ってる。だけど、それを止めるのが大人だよな。『できるものならやってみろ』って焚きつけるだけじゃなくて、もっと、柳のことをきちんと見ていれば良かった。辛そうだなって気づいたときに、声をかければ良かったんだ。追い詰めて、悪いことをした」
(謝られてる? 悪いのはわたしなのに。自分の限界もわからないで、ひとりでどんどん滅茶苦茶になって、周りに迷惑をかけて。ひとを振り回すことしか、できなくて)
「キス、とかね」
不意に出てきた単語に、心臓が跳ねる。
はっきり動揺したが、奏は頑なに目を閉ざし続ける。
「上下関係があるときに、子どもが年上の男の気を引くために、相手を『好き』と誤認して『愛みたいなもの』を使おうとすることはよくあるんだって。でもそれは愛じゃない。俺も、愛だなんて勘違いはしない。俺と柳の間に今芽生えようとしているのは、もっと違うものだから」
奏はそこでようやく、うっすら目を開けた。
声は近いと思ったが、香織の座っている位置は手を伸ばしてもぎりぎり届かないくらいの距離。秀麗な横顔に視線を向けて、尋ねた。
「何? こんなになっても、これから、何かあるの……?」
目を開けた気配を感じたのか、ソファに首を乗せるようにして、少し下の角度から見上げてきた香織は、柔和な微笑みを浮かべて頷いた。
「うん、ある。大丈夫だよ。今まで、ちょっとないくらいぶつかったけど、それは多分お互いを知るための準備だったんだ。これからは、仕事仲間としてきちんと『信頼』を築いていこう。俺は年上の男で、柳は女の子だけど、この関係性においては愛も恋もない。先輩後輩として教える者と教わる者。人間としては対等。それだけ。自暴自棄になって、性愛の領域に持ち込んで、全部壊そうとしないで。壊したくなったら、まず俺に言うんだ。柳が一番最初に身につけるべきはそういう『素直さ』だよ。素直になってよ」
「素直……」
「辛いときは辛いって言う。嫌なことがあったらどうして嫌かを言う。伝わるように冷静に、変に隠さないで素直に。『どうせ言ってもわかってくれない』って構えてないで、どう言ったら俺がわかるか考えて話して。俺もわかろうと努力して真剣に聞くから。もっと柳のことをわかりたい」
まなざしが、優しすぎる。そこに嘘はひとつも無いのだろうと、思わされる。胸がずきずきと痛む。
(ド天然。その顔で、その声で、その距離で、そんな風に笑いながら「わかりたい」って言われて、ドキドキしないひとが世の中にいると思う? 自分のことわかってなさすぎ)
誘惑の意図など一切ない、透明感溢れる微笑が目にしみて、涙が出そうだった。
「わかってどうするのよ」
「仕事がやりやすくなる、俺が。柳から辞めたいと言われるまでは、うちの社員として、一緒に働いていく仲間として大切にするつもりだから」
香織は視線を奏から外すと、顔を前に向けてきっぱりと言い切った。
勘違いの余地すら残さない、屹然とした態度。
突き放さないくせに、しっかりと線を引いている。自分の側に乗り込ませない。それでいて、顔も見えるし声も届く距離で「どうした?」と聞いてくれる。奏がうまく言えないことも、きっと一緒に考えてくれるのだろう。それが自分の「仕事の範囲」だと心得ているから。
(取り付く島もなく完璧で、際限なく優しい)
瞼を伏せたときに、涙がこぼれ落ちた。気づかれる前に手の甲でぬぐって、奏は寝返りを打って背を向ける。
「もう少し休ませて。平気になったら自分で帰る」
「そこは遠慮しなくて良い。俺も外に何か食べに行こうと思っていたところ。そのついでだから」
呑気な口調で言いながら立ち上がり、香織はデスクの方へと戻った。
背中でその物音を聞きながら、奏は足元のブランケットを引き上げ、声を殺して泣いた。
(嫌われて突き放されたら、嫌うことができると思っていたのに。絶対に手が届かないと教えられた上で、こんなにも優しくされるなんて)
ときどき自分の視界を覆って、ひとと自分の間を妨げる、黒いぐちゃぐちゃの線。それが、力を失って胸の中におさまり、解けていくのを感じる。
呪いが浄化されるように。
その清々しさとは裏腹に、新たな苦難の始まりの予感があった。
(わたしはこの先ずっと、このひとの側の「友達以上の距離」になれるひとを心の底から羨んでしまう。わたしには絶対に手が届かない。だけどそんなわたしにできることは)
仕事で信頼されるひとになること。
自分に残された最後のその関係性だけは、誰にも負けないものに育てたいと、このとき初めて強く願った。