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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
43 たとえば恋に勝ち負けがあるとして
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舌禍を招く

 それは椿香織が「海の星」へ謝罪に訪れた日のこと。

 ランチの最後の客となった野木沢まどかを全員で見送った後。ふと振り返った視線の先、表門付近でビビッドピンクのパーカーが見え隠れしていることに伊久磨は気づいてしまった。


「おかえり、柳さん」


 全員が店内に戻ってから、一人で引き返して声をかける。肩を震わせて振り向き、見上げてきた相手の目つきや動作、反応が小動物そのもの。


「な、なにか用ですかっ。……大きい……」


 海の星で、藤崎エレナに一方的に喧嘩をふっかけて表に飛び出していた柳奏(やなぎかなで)

 犯人は現場に戻るよろしく引き返してきたようだが、中に入る勇気は出なかったのだろうか。

 伊久磨に見つかって勢いよく言葉を返してはみたものの、身長差に明らかにまごついている様子。

 その反応をある程度予期していた伊久磨は、距離を詰めることなく、少し離れた位置から穏やかに微笑みかけた。


「全部終わったよ。香織の謝罪に対して、お客様も納得してお帰りになっている。香織は少し疲れているかな。でもこういう仕事は慣れているから、明日まで引きずらないと思う。柳さんは大丈夫? 明日またきちんと出社して、香織と話せそうですか」

「わたしは……」


 視線がさまよう。迷いを感じる仕草。伊久磨は軽く首を傾げて、さりげなく畳み掛けた。


「何か気になっているから引き返してきたんだよね。香織? 藤崎さん?」

 反応は目覚ましかった。ぶわっと毛が逆立ったのが見えた気がした。戦闘態勢。

「藤崎さんって、なんなんですか。あのひと、まだ椿香織と付き合ってるんですか。なんか……、人前であんな風に馴れ馴れしく話しているのって、気持ち悪い」

 きつい口調で言い捨ててから、「朝ごはんの相談なんかしないでよ」と小さな声でぶつくさと続けていた。

 気持ち悪い。それはおそらく、生理的な嫌悪。感情が逆撫でされる不快感。


(わからないでもない。目の前で一緒に暮らしているのを見せつけられたら嫌だよな。ひとつ屋根の下で男女が、となればいろいろ憶測されるわけで。それがわかった上であそこは同居しているんだけど)


「あの二人は、付き合ってはいないと思う。ただ一緒に暮らしていて、普通に仲が良いだけだよ」


 奏は、まだ大人になりきれない多感な年頃。

 伊久磨としては、最低限のことを注意深く気をつけて口にしたつもりであったが、奏の傾ききった機嫌が回復することはなかった。


「子どもじゃあるまいし。何もないはずない。あんなにベタベタして」

「そう見えるかもしれないけど……、あそこは本当に友達だと思う。香織も、藤崎さんも、たぶん今は恋愛する心境じゃなさそうだし。恋愛って、ある程度生命力が必要だと俺なんかは思うわけで。疲れていたり弱っていたりすると、それどころじゃないっていうか。世の中には、逆にそういうときに他人を必要とするひともいるけど、あの二人の場合は、警戒心も強い。そばに人の気配はあってほしいけど、温もりはいらない、みたいな」

「何いきなり語ってんの。すっごく気持ち悪い」


 右ストレート。

 すぱんと殴りつけられた錯覚に、伊久磨は奏を無言で見下ろした。完全に軽蔑しきっている様子で強く睨みつけられた。


(気持ち悪い……、「すっごく」気持ち悪い……。俺はどうすれば良かったんだ。一言か。一言で何かすべてを言い表せば良かったのか。何かって何をだよ。「あのひとたち性欲とかなさそうだし」って言ったら、不適切発言で通報されかねないだろ。あとはなんだ。藤崎さんから意識を逸らすのが先か。よし)


「香織はだいたい誰とでもベタベタだよ。俺も一緒に暮らしていたことあるからわかる」

「なにそれドン引き。キモ」

(だよな)


 間違えた。

 奏は本気で薄気味悪いものを見る目で伊久磨を見上げながら、吐き捨てるように言った。


「椿香織の周りって、大人なんだか子どもなんだかよくわかんない大人ばっかりだよね。青春してるの? もうオッサンなんだから自重してよ。藤崎さんだって、たいがいおばさんなわけだし」

「社会人として、世の中のこと全然わかってない十代に何言われても痛くもかゆくもないな。三十路の藤崎さんを十代がおばさん呼ばわりするのもアリといえばアリだろ。だけど、おばさんはおばさんでも藤崎さんはかなり綺麗なおばさんだぞ。あんなに綺麗なおばさん滅多にいない」

 ※静香は別として。


 つい本気で言い返してしまった。奏の虫けらを見る目には変化はなかったが、なぜか一瞬奇妙な憐憫がその瞳に浮かんだ。


「蜷川さん。その……、べつに私はおばさんおばさん言われても良いんだけど。フォローしてくれていたみたいだし、全然気にしない。でも私以外のひとはあんまりそれをフォローとは思わないかもしれない。もう少し気をつけた方が良いかと」

 

 背後からエレナの声。

(全ッ然接近に気づいていなかった……っ!)

 がばっと振り返ると、慈愛に溢れた微笑を浮かべたエレナが「蜷川さん、仕事ではそつがないのに」となぜか気遣うかのように声をかけてきた。


「すみません。決して普段からそう思っているわけでは。いえ、『綺麗な』は嘘偽り無く本心で」

「いえいえ。良いんです、流れは理解しています。ただ私としても、妻帯者の男性に『綺麗』と言われても何も響きません。むしろ迷惑です。それはぜひ静香さんに言って差し上げてください。こんな無駄なことで無駄な火種をまいてないで」


 にっこりとエレナに微笑まれたが、若干の棘のある発言内容を検証するに、怒っているのかいないのかは微妙な線であった。

 変な汗が出る、と伊久磨はひとまず静かになっている奏を振り返る。

 静かどころか、奏はすでにその場から姿を消していた。


(無駄な火種呼ばわりされる修羅場に俺だけを置いて消えやがった……)


 気まずいなんてものではない。

 その伊久磨に、エレナは営業中のような完璧な笑みを向けて「中で休みましょう」と優しく呼びかけてきた。


 * * *


「まだ辞めてなかったんだ」


 数日後。

 海の星での一件について、奏はその翌日に香織に謝罪していた。香織は言葉少なく「もう二度とするな」とだけ言ったが、エレナの件に触れることはなかった。プライベート絡みの問題であり、なおかつひとたび口にすれば泥沼になることを察知していたせいかもしれない。

 以降、個人的にも仕事上でも奏は香織と接することはなく、目の前の仕事に向き合う静かな日々を過ごしていたというのに。

 珍しく遅番で、午後の遅い時間まで店舗にいた奏は、店の引き戸を開けて顔を見せた西條聖に開口一番でそう言われてしまったのだ。

 いきなりの、問題発言。店内に客や他に店員がいなかったこともあり、奏は即座に応戦する。


「辞めていた方が良かった、みたいな言い草ですね」

「ん。今のは俺が悪かったけど、柳さんもたいがい攻撃的だよな。よくそんなんで接客業やってるよ。やれてるのか?」

「は? そっっくりそのまま返しますけど? 顔が良いせいかもしれないけど勘違いしすぎ。その良い男俺様ムーヴ、マジでうざいんですけど。わたし、あなたの何? なんでそんな口きかれなきゃいけないの?」


 なぜか、聖はにやりと口の端を吊り上げて、笑った。

 悪寒が走った。


「悪いな。『脳と口が直結してる』って、この間とあるひとから言われたばかりだった、そういえば」


 聖にしてはなかなかに殊勝な態度であっさり認めた。だが、聖に対する好感度ゼロの奏には何もかもが逆効果。


「それ言い訳ですか? 謝られた気もしないんですけど。だいたい、悪いなんて思ってないでしょう。最初の頃にあんた一回わたしに『お前何様だよ。さっさと辞めろ』って言ってるし。なんで何回も同じこというの? 記憶力死んでるんじゃないの? それとも頭の良さは別のところに使っていて性格まで回ってこないの? へえ。あ、脳と口が直結してるから思いついたことその場ですぐに言わないと絶対に気がすまないとか? 言わないと死ぬ病気みたい」


 言ってしまったものは仕方ない。何しろ聖は奏にとっては不倶戴天の敵。

 (とも)に天を戴かずとはすなわち、顔を合わせたが最後殺るか殺られるかだ。

 

「脳と口って、実際すごく近いよな。間に遮るものも無いし」


 こたえた聖の声はのんびりとしていたが、奏は奏で止まらない。


「あんた死ぬほど頭悪いこと言ってるけど、脳と口の間で『思いつき』の流出を遮るのは『良心』って言うの。持ち合わせてないみたいだけど」

「柳さん、俺に詳しいな」

「いちいちひっかかる言い方しないでよ。詳しくなんかないし嫌いなだけ」


 ぞぞぞぞっと嫌悪感が沸き立つままに言い返せば、聖は不意に顔から表情を消してぼそりと言った。


「うん。ま、俺に対してのその態度はべつに良いんだけど。藤崎にそれはやめろよな。『良心』大事」

「……」


 一瞬で、喉が苦しくなって言葉が詰まった。


(だから。そういうのが嫌なんだって、あんたたちの関係。家族でも恋人でもない曖昧な繋がりのくせに、子ども(わたし)相手にずっと被害感引きずって、釘さしてくるの。本人からならともかく、なんの関係もないはずの男が口出す話じゃないじゃない)


 すうっと手足が冷える。


「それ、言わされてるの? 藤崎さんに」

「そうじゃないけど。あいつは落ち込んでも外に出さないから」

「だから何? 言いたいことがあるなら自分でくればいいのに。周りの男に気を使わせて意のままに動かす女王様怖い」

「違う。藤崎はそんな奴じゃ」

「もうしゃべんないでよ! あのひとをそういう嫌な女に見せてるのって、結局あんたとか椿香織みたいな男じゃない、ほんっと気持ち悪い」


 また言い過ぎてしまう。良心なんて、奏だって持ち合わせていないから。

 飲み込もうとした言葉が溢れてくる。


(感情に振り回される自分が一番嫌)


 聖が重ねて何か言おうとしたそのとき、店の奥から暖簾をくぐって顔を出した香織が低い声で「やめろよ」と言った。


「お客様いないからって、やめてくれない、そういうの。店の中そういう空気にされんの嫌なんだけど、俺が」



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[良い点] おぉうふ、奏ちゃん、まるで手負いの猫だな笑 「フーーーーッ!」って声が聞こえてきそうw 全方位に向けて威嚇中かぁ でも全方位って言っても背中は守れないわけで 壁際に逃げ込まないといけないわ…
[一言] 奏ちゃんは本当にイイキャラですね! 年頃の女の子が等身大で描かれていて、見ていていい意味でハラハラしますw
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