来訪者
御菓子司椿屋謹製
事務所の館長机の上にのせられていた紙袋を見つけて、野木沢まどかは足を止めた。
既視感。
数日前、ちょうど椿屋の椿社長からお詫びで受け取った菓子折りの紙袋を、そこに置いた記憶がある。
そのときは、「ミュゼ・ステラマリス」の件で、「海の星」まで偵察に行ったが、手土産で行き違いがあってお詫びされた――というすべての事情はなんとなく言いづらくて「家で頂いたものだけど、多いから皆さんで」と言い訳しながらスタッフに配った。
(あのとき全部はけたはずなんだけど……、なんでまた空箱が紙袋ごと戻ってきたのかな?)
そんなはずがないと、普段ならすぐにわかるはずなのに、このときのまどかは少々頭の回転が鈍くなっていた。
無造作に手を伸ばし、紙袋を掴む。ずしっという予想外の重みを手に感じて、数秒考えた。体を傾けて中を覗き込むと、箱には綺麗に包装紙がかかっている。
「この間の、じゃない……!?」
まどかは事務室を飛び出した。廊下を伝って受付まで走り込み、カウンターに立っていたスタッフの村上に紙袋を突き出す。
「これ、どこから?」
「お客様から頂きましたよ。皆さんで、って」
「誰? 何か頂いたときは私に早く教えてください、ご挨拶しないと……!」
「館長が倉庫行っている間に入館されたお客様なので、そろそろ館内まわって出てくる頃じゃないかしら。行き違いにならないように、ここで待ってたら?」
まどかの焦燥はあまり通じていない。歯がゆい思いを抱えて紙袋の取手を握りしめた。
(「海の星」で、菓子折りひとつでスタッフの皆さんからすごく丁寧にお礼を言われて、反省したばっかりなのに。スタッフ教育の違いというか、「持ってきたから受け取っておきました」みたいなこの感じ……。そこまで気を使ってくださるお客様に対しては、こちらも裏方仕事を後回しにしてでもご挨拶したい。開館時間内の接客はすごく大切だと思うんだけど、「接客業をしている」感じが薄いのよ、うちは)
その空気が、総じて美術館の空気となってしまっているところに、危うさを感じる。
美術館経営の立て直しに前向きになり、まどか自身が色々なひとに会う中で、これまで問題と気づいていなかったことが目に付き始めてきた。
接客だけでなく、館内でも細かく気になる部分はある。少しでも手を入れたいと思うものの、うまくスタッフに伝えることができない。「今までと違うことをする」「通常業務の合間にできるところから変えていく」こういったことが、無言の反発にあって、思い描いた半分も進まない。
スタッフの中ではまどかが一番若い。館長就任当初、受け入れられるために「仲の良い」空気を作ろうとつとめてきたが、ここにきて裏目に出ている。皆、愛想は良いが面倒なお願い事は頑として聞いてくれない。何かと理由をつけて断られる。腰が重い。変化を望まない。
(変えないと……。今のままじゃいけない。自分が変わって、周りも変えていかないと)
「あ、あのお客さんです。妊婦さんと一緒の」
村上に声をかけられて、まどかは順路の終わりに視線をすべらせた。
烏の濡れ羽色の、艷やかな髪の男性。さりげないシャツにジーンズ姿だが、垢抜けていてひと目で洗練されている雰囲気がある。ほとんど臨月ではないだろうか、というお腹の大きな女性の手を取ってゆっくりと歩いてきた。
女性の顔を見たときに、誰かに似ている、と感じた。目元や鼻筋、顔立ち。つい最近出会った誰かに似ているのだが、はっきりと掴めない。
男性の方が、まどかに目を向けてきた。紙袋に気づいたのか、丁寧にお辞儀をされる。隣の女性もぱっと顔を輝かせた。瞬間的に、周囲が明るくなる。
(うわあ、ものすごく綺麗なカップル……! 周りの空気が浄化されてる!?)
見惚れている場合ではないと、紙袋を持ったまま、まどかは足早に近づいた。
「こんにちは。こちらのお菓子を頂いたそうで、ご丁寧にありがとうございます。ご挨拶が遅れてすみません。野木沢と申します」
「はじめまして。『椿屋』の水沢と申します。差し入れ、少ないですが皆さんでどうぞ。先日は当店をご利用頂いた際に、ご迷惑をおかけしました」
「あ……っ、椿屋さんの方だったんですね。すみません、どういう関係の方か全然わからなくて。あのときもたくさんお菓子を頂いて、かえって申し訳ないくらいで」
とんでもないですよ、と水沢は爽やかに告げる。その軽やかで押し付けがましくない受け答えを、まどかは感心して見守ってしまった。
(同年代だと思うんだけど、貫禄ある……。社長さんの方が若かったように思うけど、このひとはどういう立場のひとなんだろう。隣は奥さんだよね?)
女性に目を向けると、にこっと微笑みかけられた。少し茶色がかった髪をアップにしていて、ウェーブがかった髪がふわりと頬にかかっている。大きくくっきりとした目が華やかな印象で、顔全体の造作が整っており、いかにもろうたけた美人。
そして、誰かに似ている。初めて会うはずだが、「知っている」という感覚。
つい、観察するまなざしになってしまっていたのか、女性はまどかに笑いかけながら口を開いた。
「先日は『海の星』をご利用頂きありがとうございました。いまは少し仕事を休んでいるんですが、『海の星』の食器制作を担当しています。水沢の妻で、旧姓は岩清水。食器のブランド名と同じ名前で和嘉那、シェフの岩清水の姉です」
「あーーーーー、そうなんですね! すっきりしました、誰かに似てるなぁと思っていたんです。言われてみれば、たしかに。先日は、こちらこそありがとうございました。『海の星』の食器、すごく素敵でした!!」
(シェフの姉でレストランスタッフが、椿屋の社員の奥様。だから若社長も、ある意味身内みたいなもの? あの空気、そういうことね。うわぁ、全然知らなかったけど、手土産が椿屋さんのお菓子だったの、どう思ったんだろう……)
知らないというのは恐ろしい。なんとなく気まずいが、別にそれが悪い結果につながったわけでもないので、良かったと思うことにした。
「二人ともここが地元で、こちらにもお邪魔したことがあったんですけど、今回ご縁があったのであらためて。いつ見ても素敵ですね。私もお皿の絵付けには野の花をよく描くんですけど、野木沢きょう先生の絵はずっと見ていられます。勉強になります」
和嘉那から感じ良く優しい声で話しかけられ、まどかは妙に舞い上がりつつつ、早口で答えた。
「『海の星』の食器の絵もすごく良かったです! 和風にも洋風にも見える独特な感じ。花菖蒲や藤の花の描かれたお皿が特に印象に残りました」
「ありがとうございます。今は体のことがあって新作作るのもままならなくて、スケッチばかり。『ミュゼ』の食器に関しては、数を揃えるのが難しいかと思っていたんですけど、西條さんはせっかくなら野木沢きょう先生の絵のお皿が使えたらって。ショップにはマグカップがありましたね」
「食器。そうだ、そのへん話し合いたいって西條さんに言われていたんですよ。わ~、オープンに向けてやること山積み!」
美人を前にした緊張感のせいか、おどけたように言ってしまう。穏やかな表情で聞いていた水沢が、くすっと笑った。
「良い機会ですから、西條を使ってください。帰国してから半年近くのんびりしていたんです。そろそろがむしゃらに死ぬ気で働いて良い頃だと思うんですよ」
「はい、って答えて良いんでしょうか。ええと……水沢さんと西條さんは……」
「西條はいま椿の家で暮らしている関係で、結構顔を合わせるんです。暇そうにしているなって思ってました」
にこ、と極上の笑みを向けられているのに、不思議な肌寒さを感じる。冷ややかというほど明確ではないが、「お兄さん怒っちゃいますよ」くらいの圧。
(椿の家って、社長と暮らしているってこと? 個人宅に下宿しているって藤崎さん言っていたけど、あの三人で暮らしているってこと? 人間関係渋滞しすぎだし、顔面偏差値振り切れてない? なにその下宿)
そして、目の前で寄り添う二人を見て思う。
西條の話を、本人以外から聞くたびに感じる、小さな違和感。「妻」の存在がひどく希薄だ。高校の同級生や同居人、プライベートをよく知るらしい相手にまで会っているのに、「妻」が見えてこない。
(別居……? フランスに置いてきてしまったとか?)
別れる寸前なのかな、と思ったところで、まどかはその考えを打ち消した。そうだとしても、自分には何も関係ない。たとえ彼の横が空いているのだとしても、そこが自分の場所だと思うほど身の程知らずではないつもりだ。それならそれで、もっと相応しいひとがその場に収まるはず。たとえば、藤崎のような。
「そうだ、まだ全然手を入れてないんですけど、『ミュゼ』のスペース見ていかれますか。奥様、立ち話とか歩くの大丈夫ですか?」
「ええ。動くのは動いた方が良いってお医者様にも言われているので。予定日までまだ一ヶ月ありますし」
そう言い終わった瞬間、和嘉那は少しだけ顔を歪めた。
(あれ、なんか辛そう?)
ちらりと隣の水沢を見ると、やはり何か気づいたようで和嘉那を見下ろしている。その手が水沢の腕に掴みかかった。
「お腹痛い……」
消え入りそうな声。顔色が悪い。
(さっきまで笑ってたのに?)
ぞっとする感覚に襲われた。そんな場合ではないが、何をすれば良いかわからない。
和嘉那を支えたままの水沢が、「椅子をお願いできますか」と聞いてきたので、走ってカウンターまで戻り、折りたたみのパイプ椅子を持ってきた。
「車まわしてきます。そばについていてください、お願いします」
「はいっ」
判断の早い水沢に救われた思いで、まどかはその場にしゃがみこみ、椅子に座った和嘉那の顔をのぞきこむ。痛みに耐えているのか、顔を歪めてはいたものの、和嘉那はまどかと目が合うと、「お騒がせしてごめんなさい」と小さな声で言って、かすかに笑った。