知れば知るほど遠くなる
香織が向かった先は「海の星」というレストラン。奏も名前を聞いたことがある。香織の同居人たちの勤め先。それが、今回の菓子折りが渡った相手先だという。
洋風の古い屋敷のドアをくぐると、白シャツに黒スカートで清楚な印象の藤崎エレナが待っていた。
紙袋を手にした香織が、足早に近寄る。
「藤崎さん、今日はどうもありがとう。すごく助かった」
「騒ぎを大きくしたならごめんなさい。菓子折りの件、海の星では誰も気にしないのだから、このまま終わらせることもできるのに」
エレナの表情は冴えない。そのエレナを見下ろしながら、香織は柔らかい笑みを浮かべた。
「そういうわけには行かないよ。黙ってればバレない、なんてことはない。後ろ暗いことはだいたいバレるし、バレてからだと『なんで隠した』って問題にもなる。早めに手を打てて良かった。明日の朝ごはん俺が作ろうか」
優しい横顔を、奏は金縛りにあったように固まったまま見ていた。エレナは香織を正面から見上げて、困ったように苦笑する。
「それをされると、私の練習にならない。なるべく料理はさせて。大体これは、私の仕事だからお礼なんて良いのよ」
「そっか。たしかに、藤崎さんの料理の機会を奪うわけにはいかない。でも何かさせて。感謝してる」
エレナは「こちらへ」と速やかに歩き出し、ホールが視界に収まるところで止まる。香織に目配せをした。香織は、奏を振り返る。
「あの女の人で間違いないね? ……柳?」
そこで奏は、自分が硬直したままだったことに気づく。慌てて数歩進み、香織の背から顔を出して、ホールに唯一残って談笑しているグループを見た。
コックコート姿の西條をはじめ、香織の誕生日会で顔を合わせた覚えのある面々がいた。その中に、午前中に客として商品を手渡した覚えのある女性を見つけて「はい」と短く返事をする。
「わかった。柳はここで待ってて。あとは大人同士の話だから」
香織は前を向いて振り返らずに行ってしまう。それは確かに、大人の背中だった。
奏は、視線をそっとすべらせて、香織を見送っているエレナの横顔を盗み見る。透明感のある美人。顔の造作は整っているものの、気取ったところがなく、つい話しかけたくなる親しみすら漂わせている。表情は少しくもっていたが、それは香織を心配しているせいだと伝わってきた。
(ミスして足を引っ張るしかできないわたしに比べて、そのミスを拾って椿香織のことをきちんとフォローしてる。この件の埋め合わせに、椿香織はこのひとに何かお礼をするんだ。大人の二人で、何を?)
ふつ、と浮かんだ感情。胸の奥が熱い。じわじわとせり上がってくる不快感。言いようのない思い。
知れば知るほど、香織は遠い。手が届く気がしなくなる。
朝ごはんを作ろうか、だなんて。
一緒に暮らしている男女の何気ない会話。香織をごく自然に気遣うエレナ。それを受け止めて感謝を示す香織。互いを大切な相手として扱っている空気。
奏が見ていることに気づいたのか、エレナが顔を向けてきた。
「連休に入って、お店混んでるのかな。普段と勝手が違うと、いろいろあるよね。私も『海の星』で働き始めた頃はずいぶんいろんなミスをして、そのたびに周りに助けてもらったの」
「……はぁ」
話しかけられるとは思っていなかった奏は、曖昧な返事をした。エレナは気を悪くした様子もなく、穏やかな声音で続ける。
「仕事が怖くなることもあったけど、『毎回違う失敗しているひとは、いつも新しい仕事内容にチャレンジしているってことだから、気にしなくていい』って言われて、少し楽になったよ。失敗の無いひとなんかいない。柳さんも、今後同じ失敗しないようにすれば良いと思う」
「あの」
慰めてくれている。それは、ミスが怖くて仕事そのものに及び腰になってしまった奏にとっては、的を射てありがたい先達の言葉。実際、ほんの少し心が動いた。こんな完璧そうなひとも、ミスなんかするのかと。目を開かされる思いだった。
そのくせ、口から出たのは、いかにもぶっきらぼうな言葉。感じ悪すぎる響きを自分でも耳にして、気持ちが一気に投げやりに傾いた。こんな自分を、どう取り繕っても無駄だ、と。それが悪い方に勢いを増すきっかけになった。
「わたしのミスって、頭っから決めつけているみたいですけど。その場にいたわけでもないくせに。何も聞かないうちからなんなんですか。ろくに話したこともないのに、わたしの何がわかってるんですか。無関係じゃないですか。わたし、高校も出ないで、無理言って会社に入れてもらって、その挙げ句ミスしてあのひとに迷惑かけてる生意気なガキって感じですか。すみませんでした。って謝ればいいですか」
エレナは凪いだ表情のまま、奏の目を見つめてきた。
「たしかに今のは私が失礼でした。ごめんなさい。その上で言うけど、私は香織さんじゃないから、私に謝っても伝わらない。本当に謝りたいのは香織さんじゃない?」
言われて初めて気づく。
(わたし、椿香織に謝ってない……? ごめんなさいって言った覚えがない)
自分の言動をさらってみたが、動揺していたせいか、交わした言葉がうまく思い出せない。だが、明確に謝った記憶はない。
はっと香織の方を見ると、名刺を出して女性と会話をしているところだった。
奏の視線の先で、香織は深々と女性に頭を下げた。女性の表情は固い。
エレナはそのやりとりに耳をすませるどころか、奏に対して柔らかくもきっぱりとした調子で言った。
「もしかして、今回の件だけじゃなくて、もっと他にもあるのかも。気になっていること、きちんと香織さんと話せたら良いね」
(その、余裕)
奏のことなど、眼中にない。敵でもなんでもない。だから客観的で、落ち着いている。
奏は、エレナと香織が並んでいるのを見ただけでだめだった。自分の居場所がどこにもないように感じた。二人だけでわかる言葉で話してほしくないし、互いをその目に映さないでくれればいいのにと願った。
ほんの短い会話でさえ、嫉妬に胸を焼かれ、心はズタズタだった。
二人の空気が恋愛かどうかなんか関係なかった。むしろ、恋愛の気配がほとんど無いからこそ、ぞっとしたのかもしれない。少なくとも、エレナは純粋に友人として香織を心配しているように見えた。
しかし友人だからこそ、だめなのだ。
たとえ奏に限らず、他の誰かが恋愛の面で勝者になったとしても、友人であればこのひとを完璧に退けることはできない。勝負にのってこない相手には、どうしたって勝てない。それでいて、もしその気になったら、絶対的に強い。一緒に暮らして、ありえないほど近くにいる。朝も晩も。互いに食事を作って、一緒に食卓を囲んで、その日あった話をしているなんて。恋人でもないのに。
(こんなひとに、誰がかなうの)
「藤崎さんは、余裕ですね。藤崎さんが何か言えば、周りのひとはみんな聞いてくれそう。人生の勝者って感じ。仕事でミスしたことがあるなんて言いますけど、百回のうち一回とか、蓋を開けたらその程度の話じゃないですか。それで他人の痛みがわかるような顔をして。そういうの嫌なんですけど。親近感持って安心して悩み話してから、気づくとか。実は全然次元が違う話だった、みたいなの。わたしとはレベルが違うくせに」
唇が震えて、乱暴な言葉がこぼれ落ちた。エレナはその内容には触れずに、冷静に言い放った。
「柳さん、声が少し大きい。向こうに行って話そう。ここでそういう話をしているのは、香織さんの邪魔になる」
動かない表情。真剣なまなざし。猛烈に苛立つ。
「できる女ぶって。自分は周りが見えていて、気も使えて、だから愛されて大切にされますみたいな顔をして。他人から軽く扱われた経験なんか無さそう。美人だし、頭良いらしいし。わたしにも優しいし? それとも馬鹿にしているんですか? 優しいんじゃなくてそれは同情ですか? わたしが、あまりにも何もできないから……ッ」
「柳」
低く、押し殺した声に名を呼ばれた。
なぜか、エレナが参ってしまったように瞑目する。その表情を追う奏の視線を塞ぐように、引き返してきた香織がエレナの前に立った。
「お前、何してんの。藤崎さんにミスをフォローされているのに、よくそんなこと言えるな。それは完全に八つ当たりだ。藤崎さんに謝れ」
「香織さん、待って。怒らないで。私にも悪いところがあるの。よく話を聞かないまま、決めつけるようなことを言ってしまって」
謝罪の件自体はスムーズに終わったということなのか。女性や、レストランの他のスタッフの面々がどういう顔をしているかを見る余裕は奏にはなかった。ただ、目の前で香織が見たこともないほど怒気を迸らせている、それがすべてだった。
その香織を、エレナがなだめている。
(「私にも悪いところがあるの」って……。優等生。優しくて。虫酸が走るって、こういうこと? 香織さんが自分のために怒ってくれているからって。吐き気がするほどの余裕)
「藤崎さんが何を言ったんだとしても、柳の言っていることはおかしい。そんなことのために、俺は柳をここに連れてきたわけじゃない」
香織は責任感で怒っている。それは奏にもよくわかる。エレナに対し、恩を仇で返した。奏は香織の顔を潰した。仕事に続き、プライベートの繊細な部分でも。
奏の目の前で、エレナが香織の腕に手を置いた。
「香織さん、お客様の前。いま怒ったら全部台無し。私のためというのなら、私に免じてこの場はここでおしまいにして」
「藤崎さん」
全然納得できていない顔で、香織は眉をしかめる。
その香織を見上げて、エレナはもう一度「香織さん」と念押しするように言った。香織は目を伏せて、小さく頷いた。
「ごめん。埋め合わせ方法考えさせて」
「それで香織さんの気が済むなら」
エレナがほっとしたように息を吐き出す。その邪気のまったくない様子を見ていたら、いても立ってもいられずに、奏は身を翻して戸口に向かって走り出した。