この思いは迷惑
どことなく、他のパートさんたちの態度がよそよそしい。
年齢が若すぎる。高校も出ていない。社長の香織に無理を言って職場にねじこんでもらった。理由はいくらでも思いつく。
好かれていない。苦手とされている。その空気もよくわかっていたはずなのに。
――どうしてお客様が選んだお菓子がここに残っているの?
午前中、椿屋に来た女性は、菓子折りに詰める和菓子を自分で選んでレジで会計をし、包装を待っていた。
奏が任されたのは、その菓子を箱に綺麗に並べて蓋をし、包装紙で包んで紙袋に入れること。出来上がりの状態で女性に渡した頃、店内は妙に賑わっていた。
一段落ついたときになって初めて、「女性が選んだはずのお菓子が残っていて、朝のうちに処分する予定だった期限切れのお菓子が減っている」と騒ぎになったのだ。もちろん女性はすでにいない。
幸いだったのは、領収証を書いていたこと。連絡はつけられるという話になった。
そこから先は責任者の仕事だと、香織が引き継いだ。「会社名義で買っている菓子折りだから、相手先に渡した後だと、どこまでクレームが大きくなることか」と一緒にレジに入っていたパートさんにぼそりと言われた。
(ずっと心臓が痛い。他のことが考えられない)
出来ると思って「私がやります」と言ったのだ。自分が余計なことに手を出さず、ベテランに任せてレジを打っていれば良かったのではないか。任せた側も後悔と責任を感じたらしく、それは奏に対しての冷たい言葉と態度として現れた。奏は何も言い返せない。ろくに喋れない、笑えない、指先が凍ったように鈍い。どうしようもない状態で、終業の十五時を待っていたそのとき。
香織が、事務所から店に飛び込んできた。
「菓子折りの女性、見つかった。今からお詫びに行くから、二セット用意して。相手先にすでに渡した後なんだけど、お詫びして交換してもらう。あと、お客様の方にもお詫びでお渡しするから。内容は同じもので大丈夫」
* * *
(自分のミスなのに、どうなったか知らないまま家で過ごすなんて無理)
菓子折りを準備し終えた頃、奏は仕事が上がりとなった。すぐにエプロンを外して退勤し、店の前で香織を待つ。
キイっと蝶番の軋む音がして、店舗横の、母屋から表通りに出る細道の木戸が開いた。
奏は、肩にかけていた帆布のトートバッグの持ち手部分をぎゅっと握って、そこに立つひとを見た。
木戸を後手で閉めているのは、艷やかな黒髪をワックスで整えた、普段は見ない髪型の香織。品の良いライトグレーのスーツに白のシャツ、藍色のネクタイ。手には椿屋の紙袋。
最近は作務衣姿を見慣れていたが、いつもより足の長さが際立って目に映えた。香織は、大股で歩きはじめてすぐに、街路樹の下の奏に気づいた。
「お疲れ様。気をつけて帰りなよ」
歩みを止めない。車に向かうのだろう。両手でトートバッグの持ち手部分を握りしめながら、奏はようやく「あの」と声を発した。
香織が、目を伏せながら振り返る。睫毛が長い。
「なに」
「わたしも行きたい」
「遊びじゃないよ」
「わかってる……っ。あの、車に乗ってるだけでもよく、て……。結果、知りたいから」
「結果?」
声が普段より低い。五月の爽やかな空気を凍えさせるような、冷気が漂っている。奏は泣きそうになる目に力を込めて、涙をこぼさぬよう注意をしながら言う。
「どうなったか、知らないままでいたくないの」
「明日話す」
「それだと今晩眠れないからっ。あの……謝るって、椿香織が怒鳴りつけられたり、土下座したり……」
「そうだとして、見たいの?」
「見たら死にたくなる」
(土下座して足蹴にされる椿香織……。お客様、そんなひどいことしそうなひとに見えなかったけど、怒ったらひとが変わるかもしれないし。客先に渡した後って、相当まずいんじゃ)
香織は腕時計に目を落とし、独り言のように呟いた。
「柳の場合、思い詰めると川に飛び込むからな。言い争ってる時間は無い。おいで、車出してくる」
「ついて行っていいの!?」
駐車場に向かう香織の背に追いすがりながら声をかける。わずかに歩調を緩められた。隣に並んで見上げると、ちらりと視線を向けられる。
「お客様の前には出ないように。謝らせるために連れていくわけじゃない」
「お前が頭下げてもなんの意味もない、ってことだよね!? わかる、おとなしくしてる」
「べつに俺、そこまで言わない。邪魔しなければいいよ」
そっけないが、冷たくはない。むしろ優しい。しかし、香織は奏に対して微笑むことは極端に少ない。考えないようにしようとしても、堪える。笑わないというのは、一緒にいても嬉しくも楽しくもないということ。重荷。頭痛の種。悩ませている。
(わたしは、存在が迷惑)
そこまで気づいていたら、これまでの奏はどうにかして距離を置いてきた。それなのに、香織に対してはどうしてもそれができない。
嫌われていても、側にいたい。
一日に一回でも香織と話せることが嬉しい。
(……これが恋愛だというのなら、厄介なんてものじゃない。相手の迷惑なのに、自分ではどうしても諦められない。ストーカーってこういう感じ? だけどわたしは、自分が好かれていないことはわかっている。そこは勘違いしていない)
いっそ、もっとわがままを言って、思いっきり振り落としてもらえたら、諦められるかもしれない、というずるい思いが頭をかすめる。
自分だけではどうにもできないために、相手に期待してしまう。裏を返せば、引導を渡されるまでは抜け道を探して、そこにいて良い言い訳を見つけようとしている。
「後部座席で。助手席に荷物のせるから」
連絡事項に、うん、と頷く。会話はそれだけなのに、胸がじんわりとする。
最初に、間違えた。
関係性を作ろうとして上司と部下になった時点で、恋愛としてはかなり詰んでいる。
もっと正しく、誰に対しても正々堂々として恥じることのない恋がしたかった。いまはただ、心の形がどんどん歪になっていくのを感じながらも、しがみついているだけ。
背の高い後ろ姿を見上げる。細身で圧迫感のない見た目のせいで普段は意識しないが、肩が広い。背中が大きい。
(だめだとわかっているのに、思いばかりが大きくなる。側にいたい)
* * *
「お客様が野木沢さんだと、いまはじめてシェフから聞きました。ご予約名が違ったので、全然気づかず……。藤崎と申します。今後どうぞよろしくお願いします」
お嬢様風の女性店員、藤崎に深々と礼をされて、まどかは思わず席から立ち上がる。
「こちらこそ。西條さんとお話したときに、お店の方に変に気を使われたくないとお伝えしたら違う名前で予約を入れてくださって……。そんな試すようなことしなくても、素晴らしいお店だってよくわかりました。本当にごめんなさい」
「謝らないでください。お気持ち、わかります。あの」
そこで、不意に藤崎は言葉を濁した。まどかが思わず小首を傾げてのぞきこむようにすると、藤崎の隣に立つ西條が不意に「あ」と声を上げた。
「野木沢さんから、スタッフに差し入れを頂いていてるんだ」
来店時に渡した手土産。すでに、シェフや男性店員の蜷川からは丁重にお礼を言われていたが、西條が話題にした途端、藤崎は動きを止めた。ただでさえ妙に強張った笑顔が、さらに固くなったように見えた。
そのまま、ぎくしゃくとした口調で言う。
「お心遣いも、ご丁寧にどうもありがとうございました。椿屋さんの和菓子……その件で、少しお話が」
「はいっ。なんでしょう?」
「私どもが中途半端に口を出すと、話がこじれるかもしれなくて。野木沢さん、いまこちらに向かっているひとがいるんですけど、お時間大丈夫ですか」
「向かっているひと? 時間はこの後何も無いので……、でもどなたが」
沈黙。藤崎の態度に腑に落ちないものを感じたのは、西條も同様であったらしい。
「どうした? 誰が来るんだ?」
「香織さん」
「野木沢さんあてに? 何の用事で?」
「香織さんの用事は、香織さん本人に任せた方が良いと思う。『海の星』は口を挟まない方がいい」
「どうしてうちに野木沢さんが来ていることをあいつが知っているんだ」
「西條くん。気になるのはわかるけど、少し待って。すぐに来るはずだから」
納得行かない様子の西條が藤崎に勢い込んで迫り、落ち着いて、と言い含められている。
(「西條くん」か。私がそんな風に呼べる日は来ないだろうな……)
自分で考えて、まどかは妙にダメージを受けた。並んで立つとこの上なく絵になる美男美女。さきほど蜷川は社内恋愛は一組と言っていたが、西條は既婚者。であればこちらは高校時代からの付き合いで、もうずっと前からの夫婦ということだろうか。
お似合い過ぎる、と思ったせいで、まどかは口を滑らせた。
「十五年付き合っていても、苗字で呼び合うのって初々しいですね! 家に帰るとまた違うんですか?」
「野木沢さん、西條の言い方が悪くてすみません。一緒に暮らしているというのは、下宿先が同じというだけです。二人ともここが地元では無いので、個人宅に間借りしてるんです。実質社員寮のようなものです」
(あれ、夫婦じゃなくて? でもそっか、西條さんの旧姓が鷹司なら、藤崎さんは?)
蜷川が、何か言いかけるように口を開いたそのとき、藤崎が手にしていた電話の子機が鳴り始めた。藤崎の手から蜷川がさりげなく受け取って「お電話ありがとうございます、海の星の蜷川です」と話し始める。まどかには黙礼してエントランスの方へと歩いて行ってしまった。
藤崎が、まどかに笑みを向けてくる。
「『ミュゼ』の件は私もすごく楽しみにしています。今度美術館にお邪魔させて頂きますね」
「そう言って頂けると嬉しいです。お待ちしています」
一瞬の空白で、会話の内容が飛んだ。そこにシェフとパン職人の女性店員が姿を見せる。
改めて二人におめでとうございますと言ってしばし雑談となる。
やがて、エントランスの方で涼やかなドアベルが鳴った。