薄氷を踏み抜く
問題というのは、どうあっても起きるときは起きる。
椿屋店舗の、カウンターから暖簾をくぐった奥。事務所スペースの応接セットのソファで、うなだれた柳奏。その対面に、椿香織もまた冴えない表情で座っていた。
「やっちゃったものは仕方ない。再発防止は徹底して。後のことは俺がどうにかする」
「どうにかって、どう」
「こうなったら、柳に出来ることはもう無い。反省はして。落ち込んでもいいけど仕事には影響出すな」
手にしているのは、手書きのメモ。「野木沢きょう美術館」の文字。スマホで検索して、美術館の代表番号をそこに書きつける。月曜日休館、という記載を見て手を止める。
「わたし、お店にすごく悪いことしちゃった」
奏の声につられて顔を上げると、今にも泣きそうな目と視線が絡んだ。
「その責任取るのが俺だよ。柳は店に戻って働いていればいい。時給発生してるんだから」
「給料いらない!」
「そういう問題でもない」
きつい口調で言うと、奏はぐっと唇を閉ざす。目の縁に盛り上がった涙がこぼれ落ちる前に立ち上がり、香織に背を向ける。
目撃してしまった香織は、眉をしかめてぼそりと言った。
「泣きながら戻るなよ。涙は拭いて行け」
戸口に向かいつつ、立ち止まった奏から、ぐすっと鼻をすする音。香織はローテーブルに置いてあったティッシュの箱を手にして立ち上がり、「柳」と名を呼ぶ。肩越しに俯いたまま振り返った奏に箱を押し付け、声を低めて言った。
「べつに誰も死なないし、店が潰れるわけでもない。もう気にするな。ミスは起きるときは起きるし、大抵いろんな要因が絡んでる。結果的に柳のミスになったとはいえ、まぎらわしいところにはねてた品物置いていたとか、新人のお前に箱詰めも包装も任せて見ていなかったとか、色々……」
うう、とか細い嗚咽が耳に届く。小さな肩が震えている。香織は見ていられずに天井を仰いだ。
どれだけ哀れっぽく見えても、奏の体に触れるわけにもいかず、手の出しようがない。
それが、自分でも思った以上に辛くて戸惑う。
(俺、柳に甘いか? これどうすれば良いんだよ。泣くなって叱って涙が止まるならそうするけど、こいつも泣きたくて泣いているんじゃないだろうし……)
奏の子どものように小さな体が、しゃくりあげるたびに震える。その様子を、香織はどうすることもできずに見ていた。
* * *
エレナは、悩んで悩んで、受話器を手にした。
紙にメモした番号に、思い切って電話をかける。
「香織さん、お仕事中ごめんなさい。他の人に伝言を頼みたくない内容だったから」
――大丈夫だよ。藤崎さんこそ、いま「海の星」だよね? ランチが終わったところ?
受話器から流れ出してきた椿香織の声。私用ではないという意味で、エレナは「海の星」のカウンターで固定電話から「椿屋」へかけて、本人へと取り次いでもらったところであった。
聞き慣れた優しい響きを耳にして、ますます気持ちが沈むのを感じつつ、一息に言う。
「今日『海の星』にご来店されて、従業員へと『椿屋』のお菓子を差し入れをくださった方がいるの。それで、開封してみたら、詰め合わせのどら焼きとか最中、全部賞味期限がぎりぎりだったり切れていたり。食べるのは平気だと思うのだけど、お使い物として大丈夫かなって気になって。封をした和菓子の期限ってそんなに短かった?」
途端、電話の向こう側で、「ああ~~」という悲鳴まじりの呻き声が上がった。
――藤崎さん、それ。ありがとう、それいま探していたんだ。お客様は「海の星」に?
「まだ店内に。やっぱり、何かの手違い? お客様が前もって購入していたのかと悩んだのだけど、お食事の予約が入ったのも最近だし……」
――うちで買ったの、今日の午前中だよ。賞味期限ではねていた菓子が、カウンターの中に置いてあって。従業員の子が、菓子折り用だと勘違いして箱詰めして包装して売っちゃったって……。明らかに手土産風だったっていうし、領収証も切っていたから、気づいてから先方の会社に連絡もしていたんだけど、今日お休みで電話もつながらなくて。明日朝イチで連絡ついたら、お詫びして交換してもらうしかないかなって話していたところ。そっか「海の星」に……良かったか悪かったかわからないな。すでに客先に渡ってるってことだもんね。
よほど社内的に問題になっていたのか、切々と早口で説明された。エレナはなぐさめも思い浮かばず、淡々とした調子を崩さずに返事をする。
「客先といっても、『海の星』だし、身内みたいなものだから、安心して」
――いや、結果的に「海の星」だっただけで、別に身内ではないし、それは「椿屋」の信用問題だ。賞味期限切れの菓子を自分の客先に渡すっていうのは、そのお客様の顔を潰すこと。違う、それはお客様の落ち度じゃない、うちが悪い。
「もしかして、新人さんのミス? 柳さん、あの高校生。他は大丈夫なの?」
――ああ、わかっちゃうか。そう。午前中少し店が混んだ後に、処分するお菓子が減ってるって騒ぎになって「それならさっき包んじゃいました」って……。そんな紛らわしいところに置いていた方も悪いんだけどね。ミスがあったのはその一件。そこは大丈夫。いまから俺がそっちに行ったとして、お客様と話せるかな。お客様にお詫びして、事情説明して品物を交換させて欲しいんだけど。
椿屋の責任者として、誰のミスであろうと、店の信用に関わることだけに、最終的に頭を下げるのは香織のしごと。申し出は、エレナももっともだとは思う。
「言い分はわかる。でも、敢えて言わなければお客様はわからないままで終われることよね。それで気持ちが収まらないのは椿屋の問題。香織さんが今この場に来ても、やぶ蛇で『海の星』とお客様の空気が変になる恐れもある。シェフに判断を仰ぎます」
――それはその通りだ。岩清水と話せるなら電話繋いでほしい。
そこで話がついたので、保留にしてエレナは子機を手にする。ホールにはまだ女性客は残っていたが、他の客は退店している中、由春や聖、伊久磨といったメンバーが食事を終えた女性のテーブルに集まって談笑していた。
和やかな空気。気心の知れた者同士のような、笑顔。
明るい表情の聖が、妙に遠く感じられた。
(西條くん、その「鷹司」さまは、いったい誰なの……?)
* * *
「シェフ、お電話です」
立ち話をしている由春に近づき、電話の子機を見せると「いま?」と聞き返される。接客中だけに無粋であるのはエレナも承知の上だが、内容的に女性客が帰ってからではまずい。「込み入った話なので、シェフの判断が必要です」と言い添えると、由春は女性に断って身を翻した。
並んでキッチンに向かって歩きながら、エレナが軽く説明をする。
差し入れの椿屋の菓子が、賞味期限切れであったこと。念の為香織に連絡したところ、店にお客様がまだいるならお詫びに来たいと申し出があったこと。
由春は「電話は椿?」と言いながら子機を受け取って、通話にする。
「ん、俺。……ああ、べつに。ミスは仕方ない。食べる分にも問題ないだろうし。お客様に、そうだなぁ……」
由春も困惑した様子。
エレナが気づかなければ、椿屋から明日にでも先方の会社に連絡を入れて発覚、先方と椿屋から「海の星」に謝罪の流れになっただろう。だがエレナから椿屋に連絡を入れたこの状況は、やや想定外の事態。よほど丁寧に説明しない限り、女性には「差し入れの中身を検めて、店側に直接クレームを入れた」と受け取られかねない。この時点で、すでに「海の星」としては女性の顔を潰す危険を冒している。
「椿、五分で来れるか? いい、言っただけだって。そこまで急がなくて良い。事故には気をつけて。お客様引き止めておくから」
由春は通話を終了し、「椿が来る」と呟いた。
「椿にしろ、うちにしろ、気づいたものを見なかったふりはできないからな……」
「余計かとは思ったんですけど、すみません」
「藤崎が謝ることじゃない。ミスはミスで、傷口が大きくならないように早めに連絡したのもわかる。そういうの、本当は明菜が気づくようにならないと……」
そこで由春は口をつぐんだ。
(明菜さんには、お店のマダムにふさわしい働きをして欲しい。どうしても、仕事の面でもパートナーとしての働きを期待してしまう……ですよね)
どんなに由春が仕事とプライベートを切り離そうとしても、この狭い人間関係の中で、それは難しい。それで言えば、香織も結局、椿屋で奏に目をかけている節もある。
エレナとしては、ことさら自分は優秀であるとひけらかしたい気持ちはない。ただ気がついたことをしただけ。それで明菜よりでしゃばってしまったかと思うと、少し気まずい。自分の立ち位置が、今はわからない。
「そういえば藤崎、あのお客様だけど、西條の親戚じゃない。西條が自分の名前で予約を取るときに念の為偽名にしただけ。気にしていただろ?」
由春からの不意の打ち明け話に、エレナは顔を上げてその目を見る。由春は「まぎらわしいよな」と微笑を浮かべて言ってから続けた。
「野木沢美術館の館長。これから『ミュゼ』の件で聖と組む仕事相手。藤崎も食事が済んでいたら一言挨拶を。聖は第一印象、出会いで失敗したって割に、お互いわだかまりもなさそうだ。うまくいきそうな気がする。あとは椿次第か。またよりにもよってあいつか」
ちょうど事務所から明菜が顔をのぞかせたので「明菜も挨拶を」と由春は同じ説明を繰り返していた。
エレナはひとまずホールへと足を向ける。
気づいた聖が、「野木沢館長」に向けてとても感じよく言った。
「彼女はホールスタッフの藤崎。俺とは高校時代からの付き合いだから、もう十五年くらい? いまは一緒に暮らしているんです」
野木沢館長が、ゆっくりと瞬きをしてエレナを見た。それを受けて、エレナは張り付いたような笑みを浮かべた。耳を疑うとは、このこと。
(……西條くん、いま、明らかに余計な説明したよね!?)
(๑•̀ㅂ•́)و✧300話目です。長らくお付き合い頂きありがとうございます!!
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活動報告でこぼれ話を書いていることも多いのでぜひのぞいてみてください(・∀・)