回復する場所
「こんにちは。今日はありがとうございます」
声をかけられるまで、接近に気づかなかった。
女性客と話す西條聖をぼんやり見ていたまどかは、顔を巡らせて相手を確認する。
ほんのり茶色がかった髪。シンプルなフレームの眼鏡をかけた、コックコート姿の男性。左腕に銀糸の筆記体で名前らしき刺繍が入っているが、確認せずとも顔を見ただけで強い既視感があった。
「当店のシェフの岩清水です」
長身の男性店員が一歩ひいてそのひとを紹介してくれる。
岩清水シェフは、ちらりと西條の姿を確認してから、まどかに対して感じの良い笑み浮かべて言った。
「西條とタイミング合わせていると、挨拶しそびれそうだったので。今日のお料理はいかがでしたか」
「美味しかったです。サラダもレタスがパリパリしていて、あと聞いたこともないような野菜もいくつか。契約農家さんに作ってもらっているんですか? 白身魚もソースが美味しくて……、すみません、予約、無理をきいてもらって」
「お楽しみいただけたなら何より。市場にあまり出回っていない野菜に関しては、お願いして作ってもらっています。生産者さんと話すと、学ばせて頂くことも多いです」
年齢的には若いはずだが、話しぶりは堂々として落ち着いている。ここぞとばかりに食いついてしまったまどかの勢いを受け止めて、柔らかい口調で返事をくれた。
(「銀の星企画」の岩清水さんと似てる……。頭が良さそうで、飄々としているこの雰囲気。誠実な話し方をするけど手の内が見えなくて、甘えたこと言うとやり返されそうな緊張感とか)
「オーナーシェフさん、ですよね。この建物やアンティークは全部個人のものなんですか?」
「身内から譲り受けたものが大半です。アンティークに関しては、祖父と曽祖父に収集癖があったようで」
「お店全体が美術館みたいです。こんな空間でゆっくり食事ができるなんて、すごく贅沢」
「窓から見る外の景色も綺麗ですよ。夜はライトアップもして雰囲気が変わります」
「ディナーも来てみたいです。店員さんも親切だし。ひとりで来たけど、全然退屈しませんでした」
まどかが笑うと、岩清水はちらりと男性店員に目を向け「コントでもしたのか?」と眼鏡の奥の目を細めて問いかける。「俺ではなく岩清水さんが、ですね。明菜さんの方」と接客の男性がしれっと答えて、絶妙な沈黙となった。
聞くとはなしに聞いていたまどかは「あっ」と思わず声を上げる。
「もしかしてさっきのパン職人さんですか? 岩清水さんということは」
「正解です。このひとも新婚です」
男性店員は力強く頷き、シェフの肩に手を置く。シェフはちらっと視線を流したが、男性店員は笑顔。まどかまでつられて笑顔になってしまった。
「おめでとうございます。職場内恋愛ですか? 若いひとが多いとそういうこともあるんですね。うちの職場は私が一番若いくらいだし、周り全部既婚者だから、別世界の話みたい。あるところにはあるんですねぇ……」
「うちも人数が多いわけではないので、他は別に」
男性店員がそれとなく説明をくれる。その本人の左手の薬指にもシンプルな指輪があり、既婚者らしいと知れた。
(この職場、若いのに既婚率高……ッ。さっきのお嬢様みたいな店員さんどうだったかな)
チェックしなかったな、と余計なことを思い巡らせたところで、「何の話をしているんだ」と西條が到着早々やや強い調子で口を挟んできた。「西條さんが来るまでの繋ぎですよ」と男性店員が悪びれなく笑顔で応じている。
西條は渋面であったが、まどかに顔を向けると、眉間の強張りをといて、ゆっくりとぎこちない笑みを広げる。
「今日はありがとうございます。感想をお聞きしても?」
「楽しかったです。想像していたのと全然違いました」
「ごめんなさい。デザート、まだですね。この二人が邪魔でしたか。どうぞ食べてみてください。緑のマカロンはピスタチオじゃなくて抹茶です。もっと和テイストに寄せることもできるけど、ひとまず」
手をつけそびれていたデザートに、気づかれる。話しかけられたから食べられなかったのもあるが、崩すに崩せなかったというのも大きい。
(ピンクのマカロンと、抹茶マカロンのエクレア風。この間私が好きなものを言ったから? それをこんなにかわいく作っちゃうって、すごくない……? 料理も美味しかったけど、デザートも格別)
――まどかさんのために作りました。食べさせてあげましょうか?
わずか一瞬の妄想の中で、コックコート姿の西條聖にフォークで「あーん」をされて、まどかは瞑目し、「ちがうちがう無い無い」と小刻みに首を振った。
「食べにくい形だったかな」
まどかの戸惑いをどう受け取ったのか、西條が神妙な様子で独り言を呟く。
「私がもったいなくて食べられないだけです! こんな可愛いの初めてで」
「大げさですよ。この先いくらでも作りますから。見た目だけじゃなくて味の方でも意見をください。料理は見た目が良くても発想が面白くても、最終的に美味しくなければ意味がないです」
――この先いくらでも作りますよ。あなたのために。
(なんて言われたら大体の女の人、即落ちでは……。この見た目でこの声で、こんな可愛いデザート作れて、それで美味しかったりしたら……)
邪な思いを打ち払うべく、無心の境地でまどかはマカロンケーキにフォークを差し入れる。一切れ切り分けて、口に運ぶ。舌で味わい、噛み締めて飲み込む。
そこが公共の場でなければ、その場に突っ伏すなり、転がるなりしてしまったかもしれない。
「美味しい……」
それしか言えなかったが、西條が横でほっと息を吐き出した気配があった。
「良かった。せっかく来てもらったのに、期待はずれでした、というわけにはいかないから」
「言うわけないじゃないですか。こんなすごいレストランで、こんなすごいお料理で。これはもう大人のテーマパークですよ」
顔を上げたら西條に「そう?」と面白そうに聞き返されてしまい、まどかは居住まいを正してその青い目を見つめた。
「美味しいだけじゃなくて、すごく楽しいんです。こういうお店なら通いたくなるの、わかります。たとえばどん底まで落ち込むようなことがあっても、『海の星』にだったら行きたいなって、思うかも。行くとしたら変な格好じゃいけないし、つまんない自分見られたくないし、って少し見栄を張りたくなっちゃう。でもそれは嫌な見栄じゃなくて、ボロボロの自尊心が息を吹き返す感じ。そうやって頑張ってここまできたら、あとはもう楽しむだけ楽しんで……。それで帰る頃には人間としての尊厳を取り戻しているんじゃないかな。店員さんも、馴れ馴れしいわけじゃないけど、親しみやすくて気が利いてますよね。そうやってひとに気を使ってもらうって、すごく貴重な経験だと思うんです。ここに来ると、自分が大切にしてもらえるような気がする」
言い終えてから、まどかはふと(語りすぎましたかね!?)と我に返った。
(西條さんがものすごく真剣に話を聞いてくれるから、つい……!)
動揺のままに「あ、う、えっと」と妙な呻きをもらしながら、膝の上でスカートを握りしめる。そのとき、長身の男性店員がすかさず言った。
「お客さま、パーフェクトです。いまの録音しておけば良かったです」
「すみません、私……。本心なんですけど、恥ずかしい」
「ご安心ください。気にするところじゃありません。いま一番照れてるのうちのシェフ。西條さんも柄にもなく照れています。二人とも面と向かって褒められる経験そこまで多くないですから、この後しばらく思い出して浸ると思います」
「伊久磨」「蜷川」
両側からコックコートの二人に捻り上げられて、「痛ッ」と悲鳴をあげて言葉を途切れさせる。
「そこまで気に入ってもらえたなら、本当に良かった。今後の話もしやすいかな。いま時間大丈夫です?」
西條が横を向きながら視線だけちらっと流して、ぼそぼそと言ってきた。頬が赤いとまでは言わないものの、妙にやりづらそうにしている。
(辱めてしまったような……。そんなつもりはなかったんですけど、恥じらい困り顔の西條さん可愛い。追い詰めてすみません)
なぜか胸がドキドキとしているが、そのとき、ちらっと見えた西條の左の手元に指輪があるのを見て、すっと頭の奥が冷えた。
たまたま彼の思いがけない面を見たところで、自分は彼の「大切な相手」になれるわけではない。すでにそこにいる誰かを脅かすことのないよう、自制して身の程をわきまえていなければ。
(好きなデザートを作ってもらえるのも、大切にしてもらえるのも「お客さま」だから。その線引を越えて「自分は特別」と勘違いするお客さまは、お店にとって煙たい存在になる。尊重しあえる関係を築くためには、決して思い上がってはいけない、よね)
「時間は大丈夫です。お店の皆さんこそ、お忙しいのでは」
「そのへんは気にしないで。俺がすっかり忘れていたんだけど、この時期って連休なんだよな。普段接待とか記念日利用の多い店だから、夜はガラガラ。ということで、紹介して良いですか?」
改まった様子で尋ねられ、まどかは席を立った。
西條がシェフと男性店員に向かって告げる。
「今日は初めてだからってことで俺の名前で予約入れていたんだけど、野木沢美術館の、野木沢館長。『ミュゼ』の件で店を見に来ていたんだ」
「すみません。西條さんに予約をとっていただいたときに、違う名前で」
頭を下げて言うと、「そうでしたか。ようこそ」と二人からは平然とした調子で返される。西條がやっぱり、と素早く言った。
「由春、気づいてただろ」
「伊久磨が。親戚の線は無いんじゃないかと。ただ藤崎はかなり気にしていたから、きちんと説明しておけよ。誤解してる」
身内同士のやりとりを短く終えてから、シェフはまどかに向かい、涼しく微笑んで言った。
「まずはデザートを召し上がってください。それから少しお話できたらと思います」