美味しい幸せ
「季節のきのこのカプチーノ仕立てです」
店内の笑いさざめきに耳を澄ませながら、席から見える範囲のアンティークや観葉植物を堪能していたら、料理が運ばれてきた。
(そういえばメニュー見てない! 先にサイトは見てきたけど、詳しい内容は出てなくて)
「この、料理の注文は」
「ご予約時に、西條からランチコースでと」
「そうでしたか。一応、あとでメニュー見せてもらっても良いですか」
「リストはありますが、コース名と金額のみの表記です。本日の料理でとのことでしたら、お帰りまでにご用意させて頂きます」
背の高い男性店員ににこやかに言われて「お願いします」と答えてから、まどかはハッと気づいて相手の顔を見上げる。
「もしかして、わざわざ作ってもらうことになりますか」
「はい。季節ごとにコースの内容はおおまかに決めてはいるのですが、毎日の仕入れで細かく変更があります。特にランチは日替わりに近いものがあるので、お客さまからご要望があった場合のみ、お作りしています。シェフの手書きのコピーでよろしければ、それほどお待たせすることはないですが。ここだけの話、この裏技をご存知のお客さまからは毎回『例のあれを』と所望されまして」
「私もその『例のあれ』でお願いします……!」
「わかりました。今日は西條が書いているので、結構字に癖がありますよ。慣れないと読みにくい」
「それが欲しいです」
全力で頭を下げてしまった。
(料理は日替わりで、メニューを作っても使いまわしができない。不要なお客さまもいることを思えば、最初から作っておくのは時間と印刷代の無駄よね。小さいお店なら節約できるところはしないと。希望があった場合に印刷……。「シェフの手書き」メニュー、西條さんの)
あくまで現場の空気感を知るためだから、と自分に言い訳をしつつ、いただきますと小声で言う。
丸いスープスプーンで、泡立つ白いスープをすくって一口。
「美味しい」
声に出た。
いくつものきのこの味に、丁寧なブイヨンの下味が効いていて、ふわふわの泡の食感まで美味しい。
「パンをお持ちしました。焼き立てです」
真剣にスープと向き合って食べていると、バスケットを持った女性店員がそばに立っていた。先程のお嬢様店員とはまた別。
派手な目鼻立ちではないが、弾けるようなミルク色の頬に、ほんのりと健康的な赤みがのって、童話の中の少女のような可憐さがある。微笑みには輝くばかりの幸福感が滲み出ていて、まぶしい。
「お食事パン、お好きなのをどうぞ。バタールと、チャパタ、こちらは天然酵母で少し酸味のあるパンと……」
こっそり見とれながら説明を上の空で聞き、「いかがなさいますか」と聞かれたところで「全種類……」と考えるまでもなく答える。「かしこまりました」と店員はトングで皿に次々とパンをのせていく。
「パンもお店で焼いているんですか」
「はい。私が」
「ということは、パン職人さんですか?」
「はい。何かご不明な点やご質問がありましたらお呼びください」
「質問なんてもう、その笑顔の秘訣といいますか」
「え?」
間違えた。
きょとんとした顔で見返され、まどかは自分が脳内垂れ流しでおかしなことを口走ってしまったと気づいたが、折よく通りがかった男性店員ににこやかにフォローされてしまう。
「お客さま、さすがです。こちらのスタッフは先週結婚したばかりなんです。幸せオーラ出てますよね」
「蜷川さん……」
かああ、とみるみる間に頬が赤く染まっていく。見ているまどかまでドキドキするほどの初な反応であった。
「それはそれはおめでとうございます」
「ありがとうございます。お客さまからお祝いの言葉を頂いてしまうなんて、恐縮です」
男性店員がさりげなくパンのバスケットを受け取ったので、女性店員は体を二つに折りたたむほどの勢いでしっかりと頭を下げてきた。
「見ているだけでわかります。新婚ってすごいですね。お幸せに……。拝んでみれば何か私にも良いことあるかな」
「拝むなんてそんなっ。あ、やめてくださいやめてください。そんなに拝まれたら私も拝み返します!」
新婚さんにあやかって何か良いことありますように! と反射的に拝んだら、拝み返された。
バスケットを持ったまま、男性店員が震えている。笑ってる。
顔が真っ赤のままの女性店員(新婚)さんが「お客さま、どうぞお料理さめないうちに」と言いながら後退していった(可愛い)。
見送っただけで、溜息が出た。
「お腹いっぱいになりそう……幸せ最高」
「まだ一品目です。お料理続きますのでどうぞ」
「新婚さん可愛い」
「ありがとうございます。本人に伝えておきます」
にこっと男性店員が微笑む。
伝えられた新婚さん(可愛い)が羞恥に悶えるところまで容易に想像がついて、(この男性店員さん、面白がってるけどS寄りだな……)とまどかは妙に得心した。
それにつけても、新婚さん(可愛い)。
* * *
「西條さんのご親戚の方、すごく良いひとですよ。まず間違いなく悪い人じゃないです」
三品目のメインの魚料理の皿を下げてきたところで、伊久磨はすれ違いざまのエレナに告げた。
エレナはほんのわずかに眉をしかめて「そう」と固い声で応じる。その表情に不穏なものを感じて、伊久磨は念押しするように言った。
「藤崎さんも話してみると良いと思います。あまり先入観を持たずに」
「うん……。わかっているんだけど、西條くんの昔を知っていると……。子どもの頃から他人の穂高先生と暮らしていて、常緑と結婚するときも特に親族側からのお祝いはなかったはず。それが今になってどうして、て」
「たとえば折り合いが悪いのが母親か父親だけで、どちらかが亡くなって、ご兄弟と親交が復活したとか、そういうこともあるかもしれませんね。生きているうちに和解ができれば、というのは理想ですけど、死んで何もかもうまく回りだす関係があるなら、それはもうそういうものなんですよ」
伊久磨には特に説教の意図はなかったものの、エレナは「ごめんなさい。私が悪かったです」と頭を下げてきた。
それから、「タイミングみて話せそうなら話してみる」と顔を伏せて立ち去る。
(藤崎さんは西條さんと付き合いが長いだけに、思うところが色々とある、か……)
二人が今現在恋愛的な意味で意識しあっているかどうかはわからないが、友情があるのは間違いない。それはときに、相手が受けた痛みを自分のことのように感じたり、相手以上に怒ってしまったりするような深い絆に見える。
「デザート用意できてる」
「ありがとうございます」
今日は一度もホールに出ていない聖が、お茶とデザートプレートを準備して待っていた。受け取りながら、伊久磨は聖に確認する。
「お料理ここですべて終了です。西條さんはお話しないんですか」
「そうだな。行くか」
(あっさり。べつにきまずい関係でもなさそうなんだよな。お客さまも変な緊張感はなかったし)
何故か明菜と二人で拝み合うなどという謎の現象はあったが。思い出して、伊久磨はふきだしそうになり、気合で堪える。
「先、行きます」
デザートプレートを手に、キッチンを後にした。
* * *
「ラズベリーとカスタードクリームを挟んだマカロンケーキと、エクレア風マカロンです」
男性店員の運んできた皿をひと目見て、まどかは溶け崩れそうになった。
ピンク色のマカロンケーキは、間に挟んだラズベリーがアクセントになっていて、宝石箱のような華やかさ。細長いエクレア風のマカロンはグリーン。天井のチョコレート部分に繊細な転写プリントでレース柄が描かれている。
(料理も全部美味しかったけど、デザートすごい、可愛い……。夢が全部つまってる感じ)
「このデザートプレート、もしかして西條さんですか」
「わかります? 仕上げも西條です。本人からご挨拶させて頂きますね」
「えっ、西條さん客席に出てくるんですかっ?」
食いついてしまった。
男性店員からは、面白そうに微笑まれてしまう。
もちろん、仕事で来ているので、最終的には顔を合わせることになるのはわかっていたが、心の準備ができていない。
「そうだ。このデザートまで秘密にしたかったので、メニューは最後に渡すことに決めていました。お楽しみ頂けましたか?」
動揺するまどかをよそに、男性店員はテーブルの上に、さっとフランス語混じりの手書きのメニューを置いた。
(西條さんの字……。癖があるけど綺麗な文字だ。本人そのもの)
「額に入れて飾ればいいですか?」
「止めません」
思わず妙なことを口走るまどかに、男性店員はひどく丁寧に答えてくれた。
そのとき、ふっと風を感じた気がして、まどかは視線を滑らす。ちょうど、背の高いコックコートの男性がホールに姿を見せたところだった。
目が合った。青い目にほんの少し優しい光が浮かんだように見えた。滲むような笑み。
(制服萌えとかスーツ萌えとか一切無いと思っていたのに……。コックコートって何? 似合いすぎじゃない? 死ぬの? 私死ぬと思う。五秒後に死ぬ。五、四、死んだ。五秒ももたない)
もとから、ちょっと見ない美形だとは思っていたが、コックコート姿を見たら鮮やかすぎて目に焼き付いてしまった。恐ろしい。あの姿でこれから毎日職場で顔を合わせるだなんて冗談ではない。萌え死ぬ。
(既婚者にこんな邪な感情を抱くなんて最低)
「あら、西條さん。こっちこっち」
まっすぐテーブルに来るかと思っていたら、近くの女性が声をあげて彼を呼んだ。一瞬だけ、「待ってて」というようにまどかに目を向けてから、西條は呼ばれたテーブルに近づいていく。
母親くらいの年代の女性が「いつ見ても良い男ね」と遠慮なく褒め称えていて、西條が愛想よく笑いつつ適当にかわしている気配があった。それが楽しいらしく、テーブルの空気が盛り上がっている。
彼がホールに立てば、同じかそれ以上の光景が「ミュゼ」でも繰り返されるに違いない。まどかは早くもその未来を幻視した。