初顔
紺色のコットンワンピースに、かぎ針編みのベージュのストール。刺繍加工のワンピースの裾からアイボリーのペチコートがのぞいている。足元はライトグレーのスニーカー。紐部分が白のオーガンジーリボンで、印象は甘い。
赤いフレームの眼鏡をかけていて、癖ひとつない黒髪を背に流している。
昼間のピークをほんの少し過ぎた頃、エントランスに現れたひとりの女性。
ホールから気づいた伊久磨が近づくと、緊張した様子で見上げてきた。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
「予約、してあります。混んでるってきいて。十三時の……」
「一名様でご予約の鷹司様ですね。お待ちしておりました」
十三時の予約は一件のみ。聞いていた特徴とも一致する。落ち着いた女性で、髪が綺麗、と。
名前を言い淀んだところで伊久磨から確認をすると、ほっとしたように頷いた。顔の強張りがとれて、表情が和らぐ。
(西條さん、お客さまの年齢について何も言っていなかったから、漠然と親世代の方かと思っていた。妹って感じじゃないけど、お姉さんとか、従姉妹?)
「これ、少ないですけど、皆さんでどうぞ。手土産何が良いか全然わからなくて……」
女性はそう言いながら、紙袋を差し出してくる。従業員の皆さんで召し上がれと、常連客から差し入れを受け取ることは多い。また、同業者同士でも「今日はお世話になります」の意味合いで手土産を用意することはある。「鷹司様」の場合は、身内である聖が働いているので、「いつもお世話になっています」だろうかと想定しつつ、伊久磨は「お気遣いありがとうございます」と受け取った。
見覚えのある紙袋。
御菓子司 椿屋
(……品物である程度、どこから来たひとかわかることもあるんだけど。西條さんの身内で北海道土産なら旅行中かな、とか。だけど近所で調達してるってことは、滞在している? しかも椿屋。市内では老舗だし、お使い物にちょうど良いのは間違いなく……。もしかして、西條さんが気を回して「飲食業って差し入れの習慣があるから、来店する時にこれを持ってきて」と先んじて渡したとか?)
悩んだのはせいぜい一、二秒程度のはずだが、伊久磨が一瞬動きを止めたせいで、女性はおおいに焦り出した。
「甘いものなら皆さん好きかなって思ったんですけど、チョコとかクッキーだと競合店のものになってあまり良くないのかと。それと、自分が職場で差し入れを頂くときは個包装のものが配りやすかったりするので、中は一応個包装の和菓子で……。そういうのは、やっぱりこういうお店の皆さんは食べないんですか?」
「いえいえ。食べます。大好きです。椿屋さん、美味しいですよね」
早口で言われた内容を素早く吟味しつつ、伊久磨はにこりと笑いかけた。
(西條さんが用意した線は無いか。あと、「こういうお店の皆さんは」と、従業員の実態のイメージが漠然として掴めていないところからすると、西條さん本人とも距離がありそう。あのひと食べ物は和洋こだわりなく好きだし、しかも住んでるところが椿邸……。たぶん、そういうプライベートの事情もよく知らない。ということは、親族とはいっても最近まで疎遠だった上に、今も詳しい話はしていない感じか)
お席にご案内します、と伊久磨は声をかけて先に立つ。確認がてら肩越しに振り返ると、ブルーグレー色のブランドのバッグを握りしめて、女性はあとに続いて着いてきた。
左右に置かれたアンティークの飾り棚やランプシェードを、興味深そうに見ている。
窓際の席に案内して椅子をひいて促すと、腰掛けてから伊久磨を見上げてきた。
「綺麗なお店ですね。西條さんから、美術館のようなお店だとは聞いていましたが、想像以上です。私はアンティークには疎くて全然詳しくないんですけど、マヨリカ焼きの絵皿があったように見えたんですが……。あれもアンティークですよね? 地震のときとか大丈夫ですか? 固定してあります?」
「はい。通路の飾り棚の絵皿のことですよね。三百年くらい前のものみたいです。店の食器類を作っている陶芸家さんが、ちょうど同じことを気にしていました。対策はしてあります」
盗難防止も含めて、とは口に出さず伊久磨は穏やかに答える。
(「西條さん」……やっぱり、身内というよりは距離感ある関係だ。アンティークに詳しくないっていうけど、見ただけで焼き物の種類にあたりをつけられるのはすごい。美術方面に関しての知識がある? 絵皿がわかる職業ってなんだろう。職場の話もしていたから、和嘉那さんみたいに独立開業しているアーティストっていうより、会社勤めの人っぽいな)
話す内容から推測を並べつつ、伊久磨は一度テーブルのそばを離れる。
キッチンに戻ったところで、エレナに素早く話しかけられた。月曜日とはいえ、ちょうど五月の連休ということもあり、エレナも昼のシフトに入っていたのである。
「西條くんのご親戚の方、どういう感じ?」
「あくまで印象ですけど、たとえば西條さんにお兄さんがいるならその奥さんとか、そういう感じです。血縁ではないかも。西條さん、海外長かったみたいですが、その間疎遠になっていて、たまたま最近帰国しているのを知って会いに来たような……。もしかして県内や近県、ここの近くにお住まいなのかもしれません。旅行中という雰囲気でもないですし、土地勘もありそうなので。差し入れにこれを」
早口に説明して、手土産の紙袋を見せる。どうして、とエレナが不思議そうに呟いた。
「西條さんが椿邸で暮らしていることも知らない可能性が高いです。全部推測ですが」
そのまま作業中の由春と聖に向かい「西條さんのお客さまご到着です。お土産を頂いています」と報告した。
* * *
レストラン「海の星」。
明治・大正時代の、外国人建築家の手による設計を思わせる瀟洒な佇まいの洋館。正門から入口までの前庭は手入れが行き届いていくつもの花が咲き乱れており、ステンドガラスの光が透過する玄関口はすでに日常とはかけ離れた別世界。
店内に足を踏み入れると、優美な彫りの施されたカウンターやその上に置かれたエミール・ガレのシェードランプが目をひく。その他にも、漆の飾り机や凝った張り地のアンティーク風の椅子など、おそらくその筋の人間が目にしたらくらくらするほどの一級品がそこかしこに配置されていた。
(アンティークの鑑定はできないけど、どれもこれも美術館収蔵品レベルに見える……。街のレストランというより、一般開放された旧家とか、移築された戦前の豪邸の一部とか……。入館料いらないの? 本当に?)
聞くのと見るのでは大違い。想像を絶するなんてものではない。
御冗談でしょう、という気持ちでまどかはただただ圧倒され、周囲をうかがっていた。
そこに、店員らしき男性が、忙しなさを感じさせない足取りで近づいてくる。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
(背、高い……。雰囲気も清潔感があって感じが良い……。高級店だ)
高級店に引け目を感じる年頃でもないくせに逃げ出しそうになりつつ、焦って用件を告げる。
「予約、してあります。混んでるってきいて。十三時の……」
「一名様でご予約の鷹司様ですね。お待ちしておりました」
言えなかった偽名は、予約台帳のようなものを確認するまでもなく、諳んじられる。その隙きのない受け答えに(やっぱり高級店だ……)と妙に納得しつつ、忘れないうちにと手にしていた紙袋を差し出した。
「これ、少ないですけど、皆さんでどうぞ。手土産何が良いか全然わからなくて……」
まどかは見た。受け取った瞬間の彼が、ほんの少しの間、固まったのを。
それは不自然と断じるほどの長さではなかったにせよ、なんらかの戸惑いがそこにあったと疑いを持つには十分な間。
(だめ……!? 後から仕事関係って打ち明けるなら、最初から差し入れくらいと思ったけどタイミング間違えた? それとも、品物が違うのかな!? こういうお店で働いているひとって普段何食べてるんだろう……。和菓子は食べない? でも、洋菓子の場合、ライバル店だったりして気を悪くしたりしないかなってそれも心配だったし。西條さん、抹茶のお菓子って言ったときも変な反応してなかったから、和菓子にも偏見ないと思ったんだけど……。皆さんは食べないんですか?)
びくびくしながら言い訳をしたが、店員の男性は「いえいえ。食べます。大好きです。椿屋、美味しいですよね」とそつのない返事をくれた。笑顔が完璧過ぎて、何を考えているのか憶測すらできない。
そのまま、店内を案内されて席に通されて座り、二、三会話を交わした後、店員が去る。一人になったところで、まどかは肩ががっくりくるほど大きく息を吐き出した。
(緊張した……。もう少しカジュアルなお店かと思っていたのに。店員さんも、威圧感はないしたぶん若いんだけど……そつがない。執事喫茶、みたいな? 行ったことないけど。なんかもうどこのファンタジー世界ですかっていう。まるごと映画みたいな)
呼吸を整え、こんなことではだめだと自分に言い聞かせる。まずは落ち着いて、もう一度しっかり店内を見てみよう。そう意気込んだところで、人の気配を感じた。
「いらっしゃいませ」
品の良い声の響きにつられて顔を上げると、女性店員がお冷とおしぼりを持ってきたところだった。
きっちりと夜会巻きされた黒髪に、透き通るような肌。ぱっちりとまっすぐに見つめてくる瞳は、理知的な印象がある。ものすごく可愛い女の子が大人になったら、可愛いまま美女になった、というチート感のある美人。
(お嬢様……! 間違いなく旧華族のお嬢様とか、そういう設定がある! これはもう映画でしょ?)
もはや拝めて良かったというレベルの美女、と慄くまどかに対し、女性店員は感じよく「ごゆっくりなさってくださいね」と言ってテーブルを離れていった。
後ろ姿まで惚れ惚れするほどのうつくしさであった。
(お嬢様店員さん、尊い……)