心遣いの行方
――遅い時間にごめんなさい。いま電話平気?
受話器越しに流れ出した声は、頭が痺れそうなほどの美声。思わずスマホを耳から少し遠ざけて、野木沢まどかはなんとか「大丈夫です」と答えた。
――いま「海の星」。ディナーが一段落するまで仕事していたら遅くなってしまった。月曜日の予約の件だけど、食材の苦手やアレルギーの確認をしていなくて。何か食べられないものはあります?
言葉をきちんと追いかけていたはずなのに、最後の一言のあと、まだ声が聞こえないかと心待ちにしてしまう。少し間が空いたことに気づいて、まどかは慌てて答えた。
「食材、好き嫌いは特にないです。アレルギーもありません」
くすっと軽い笑い声が耳に届く。そういう声質なのだろうが、響きが甘く耳朶をくすぐるように優しい。
――「好き」はあるんじゃないですか? 今後「ミュゼ」のメニュー開発するにあたって、意見を聞くことも出てくる。野木沢さんは何が好きですか。甘いものは?
会話の流れはなめらかで、とても自然に質問を繰り出してくる。もちろんそれは「個人的な興味」ではなく、「仕事上の確認」だとわかっているのだが、スマホで自室で耳元から西條聖、という状況にまどかはいささか気が動転しかけていた。時刻は夜二十一時過ぎ。
「甘いもの、チョコレートとか、抹茶味のお菓子が好きです。お店で買うのはマカロンとかアップルパイとか……。マカロンってなかなか出会いがないんですよね。フランスの街角ではいくらでも買えたように思うんですが」
――なるほど。「フランスの街角で買えるような」スイーツ、良いかも。食事はどうしましょう。「ミュゼ」はパスタ、ランチプレート……、コースもやりたい。失礼、その辺はこれからですね。今回はあくまで「海の星」だった。つい、先の話をしそうに。
「いえいえ。前向きに考えて頂けてありがたいです。すごい経歴のシェフさんだと聞いていたので、よく引き受けてくれたなと。お世話になります」
どうしても、スマホを耳につけることができず、やや離した状態での会話。あの声で耳元で囁かれたらまずい、と本能的な危機感からの回避行動。
――こちらこそ。「海の星」は来ていただければわかると思いますが、店内にアンティークがたくさんあって、美術館に近い雰囲気があります。「ミュゼ」とは相性が良い。価格帯が周辺の店より高めな分、少しカジュアルな二号店というのは既存のお客さまの普段遣いにも良さそうですし。俺も楽しみです。
「そう言っていただけると心強いです。お客さまの足が美術館から遠のいてしまったのは経営の面だけでなく、仕事として純粋に寂しくて……。レストランが賑わってくれるだけでも嬉しいです」
――ご期待に添えるよう力を尽くします。それでは月曜日に。遅くにごめんなさい、おやすみ。
「おやすみなさい……」
震える手で通話終了を選択。
そのまま、ゆっくりとスマホを下ろす。腕も肩もガチガチに緊張していた。
仕事を終えて、両親と暮らす家へ帰宅。晩御飯を食べ、お風呂に入り、部屋で映画でも見ようか、というタイミングでの着信。
(この時間でもまだ働いているんだ……。レストランだし、夜遅そう。「ミュゼ」は美術館の閉館時間に合わせる予定だけど。仕事終わったら、どこかに飲みにとか……いや、ない)
あくまで仕事上の付き合いで、普通に発生し得るコミュニケーションの一種とはいえ、相手は既婚者。さらにいえば、まどかは上役的立ち位置。「飲みにいきましょう」などと誘ったら、パワハラ・セクハラになりかねない。
クリーンな経営、風通しの良い関係。必要以上に近付かない。プライベートは詮索しない。
理解ある両親だけに「結婚は……」と急かされることはない。むしろ会話としてNGになってしまっている空気すらあり、親戚の集まりで誰かが言おうものなら率先してかばってくれたりする。
まどかとしては無難に「良いひとがいれば」と答える。それは嘘ではないのだが、普段の生活では、出会いらしい出会いは無い。かといって、自分から探しに行くほどの甲斐性も無い。
(同じ年代の、素敵な男性と知り合えばときめきくらいはあるけど。仕事相手で既婚者って始まる前から終わっている。あまり意識しない、自然な関係が良いな。自然ってどういう感じだっけ)
いつもの癖で、ブラシを持ち、長い黒髪にあててはみたものの、手の動きはそこで止まった。
綺麗だなんて、言わないでくれたら良かったのに。
きちんと手入れしてきた長い髪。それは誰のためでもなく、まどか自身がそうしたかったから。それを「綺麗」だなんて言われてしまったら、今度から彼の視線を意識することになってしまう。必ず。
こうした普段通りの手入れさえ、次に会うときのためではないかと自分を疑いそうになる。特別な感情などありえないし、芽生えてしまっても摘み取るしかないのに。
行き場のない、甘苦い感情が胸を息苦しく染めていく。
欺瞞。
(「綺麗」と言われることが無かったわけじゃない。会話のきっかけとして言われたことは、今までだって度々あった。そのときはただ嬉しいと思っただけ。言われたくなかったと、相手を恨んだことなど無い。あの人に言われたから胸に残っている)
彼はあのとき、絵を見ていた。
――“壁にかけられない”とは思わなかった。
あんな出会いでさえなければ。
* * *
金曜日の夜ということもあり、ノーゲストになるのは閉店ギリギリという予想に反して、二十一時半には最後の客が退店となった。
外まで見送ってから、玄関の鍵を閉めた伊久磨は、その足でキッチンへと向かう。
「岩清水さんのバースデーを、と言いたいところですが。今日はケーキを持ってさっさとお帰りください! 新婚初日!! 奥様が家でお待ちかねですよ!!」
「まだ明日の仕込みも」
「帰れ。俺がいるから帰れ」
食い下がろうとした由春の横で、包丁を研いでいた聖が手を止めて言った。由春は居心地悪そうに目をそらしながらぼそりと答える。
「聖が社員になるの来月からだから残業手当が」
「いい加減にしろ。帰れないときは帰れないんだ。帰れるときくらい意地張ってないで帰れ。明菜さん、食べないで待ってるぞ、絶対」
言いながら、さっと身を翻して近くの作業台に置いていた紙袋を手に戻り、差し出す。
「『豚肩ロースのビール煮込み』『カポナータ』『サーモンとホタテのチーズテリーヌ』『ほうれん草とベーコンのキッシュ』『白いんげん豆のマリネ』あと、オリオンのケーキと、蜷川からシャンパン」
ばたばたとエレナと光樹が走り込んできて、「蜷川さん!」と大ぶりの花束を伊久磨に渡す。受け取った伊久磨が「岩清水さん、荷物多いから車まで一緒に行きます。帰ってください」と言って、そのまま裏口前で待機。
居残れない空気を察した由春は、諦めてコックコートを脱ぎながら事務室へと向かう。
「べつに結婚したからって何か変わるわけじゃ」
「そういう照れ隠しいいですから。変わってくださいよ。変われば良いじゃないですか」
すかさず伊久磨が言った。
すぐに着替えて、ロッカーからワンショルダーリュックをかけて戻ってきた由春がキッチンを横切る。「おめでとうございます!」と光樹が声をかけると、さすがに邪険に出来ず、微笑みを見せた。
花束を持った伊久磨が「これ結婚祝い、みんなからです。静香が作りました」と言いながら由春に渡して先に立ち、外に出る。
振り返った由春は、キッチンに向かい、「いろいろとありがとう。また明日からよろしく」と声を張り上げて、背を向けた。
ドアが閉まると同時に、慌ただしい空気が一瞬静まり返る。
誰ということもなくほっと息を吐き出したところで、聖がオリオンに声をかけた。
「由春、家出たけどオリオンはどうするんだ。よそに部屋でも借りるのか」
「迷ってるところ。マダムはいつまででもいてって言ってるし、僕もホームステイは今まで経験あるから気詰まりというわけじゃないけど……。部屋を借りるのは外国人だし、手続きが複雑で」
「椿邸は?」
「いいね」
勝手に言い合う二人を見ながら、エレナがタイミングを見て「西條くん」と声をかける。
顔を向けた聖に、何気ない調子で尋ねた。
「月曜日、西條くんのお客さまのご予約があったわよね。備考欄が足りなくて」
「そうだ、蜷川にもそれを言われた。さっき本人に確認したんだけど、食材NGなし。料理はおまかせだから俺のほうで考える」
「あー、うーん、そうなんだ」
返事は妙に白々しい。
気づいた聖は軽く首を傾げて「どうした?」と水を向ける。エレナは咳払いをしてから聖の目を見て言った。
「鷹司さまになっていたけど、ご親族の方?」
「あ。そういうことか。そうだな……、まあそういうことで良い」
聖は聖で、きわめて曖昧な答え。エレナの横でさりげなく聞いていた光樹がぴくりと眉をひそめた。エレナの声が、固いものになる。
「何か注意事項は? みんなで共有しておく情報ある?」
「そこまで気にしなくて良い。落ち着いた女性客、一名様だ。居心地悪くないように、いつも通りの接客で。食後少し時間をもらって由春やうちのスタッフと話すかもしれないけど、食事中は詮索するような会話はNGで頼む。とにかくこのレストランを見たいっていうのが用件だから」
「なんのために? 西條くんが働いているから?」
「それは大きいな。その辺含めていつも通りで構わない」
言い切った聖に、エレナは躊躇いながら「そう」と言って質問を終えた。表情は浮かないまま、ホールへと戻っていく。
聖は首を傾げ、光樹に目を向けた。
「どうしたんだ、藤崎。何か聞いてるか?」
「いや、えーと、西條さんが構わなければ良いんだと思いますが。西條さんのご親族ってどんな方か、楽しみです」
ややぎこちない笑みを浮かべてそう言った光樹を見返し、聖は視線を彷徨わせて少し考えてから、独り言のように言った。
「そうだな。髪がすごく綺麗だ。会えばすぐにわかると思う」