名前と関係性
※岩清水さんが本当に結婚しました。
(……まさかの「先を越される」……ッ)
由春から伊久磨に海の星二号店「ミュゼ」の話があり、将来設計まで話が飛んで、最終的に「明日結婚する」という真偽不明の発言があったのは四月半ば。
しかしそのときは、すぐに結婚する素振りはなかった。
翌週、四月最後の火曜日。聖が、仕事先となる美術館をプライベートで下見に行き「先方と変な空気になった」と打ち明けてきた。「西條さんだめですよー」と閉店後にスタッフ全員でダメ出し。そこまでは何もなかったのに。
その翌日の、水曜日。
「駅前の新築が引き渡しになったから、明日の木曜日は一日引っ越し作業してる。その次の日が俺の誕生日だから籍入れることにした。金曜日、昼に明菜と少し抜けるな」
ランチの後、休憩に下がるタイミングで由春が連絡事項として告げてきた。
ホールにはまだ数組客が残っており、明菜は会計中。たまたま伊久磨がパントリーに戻ってきたところで、顔を合わせるなりその発言。
「結婚……!? 岩清水さんと明菜さん、いつの間に!?」
目をむいて聞き返した伊久磨に対し、由春は不思議そうに首を傾げて「いつの間にも何も、最初から決まっていたことだ。時期は決めていなかったけど、同居を始めるタイミングと誕生日が被ったから」と答えた。
「そ、そうですか……。もう少し先だと思っていたので、びっくりしました」
変な汗出てきた、と深く息を吸って吐いて呼吸を整える伊久磨をよそに、由春は至って平穏な様子で続けた。
「俺もまさか伊久磨より先になるとは思わなかった。三月に結婚できなかった件はともかく、お前、先延ばしにしすぎたんじゃないか。六月までまだ一ヶ月以上あるぞ」
「一ヶ月以上あるからなんですか。人生、結婚してからの方がずっと長いわけで」
「そうれはそうなんだが、不安定な状態の一ヶ月と、正式に家族になったあとの関係だとまた違うだろうからなぁ」
「き、昨日まで結婚する素振りもなかったひとが、語ってる……! いきなり人生一歩も二歩も先行っちゃった感出してきますね、シェフ」
「実際、先行ってるから。ま、そういうことでよろしく」
言うだけ言うと、由春は背を向けて、風を切るような足取りで事務室へと姿を消した。
そしてその宣言通り、金曜日のランチの後に明菜と外出し、帰ってくるなり「婚姻届出してきたから」と報告してきたのである。
* * *
「シェフ結婚ですか? おめでとうございます!!」
学校帰りに「海の星」に姿を見せた齋勝光樹は、ちょうど由春と明菜がスタッフに結婚報告している場に立ち会うことになった。
「おう。ありがとう」
ジャケットで私服姿の由春は、腕時計を外しながら、光樹ににこりと微笑みかける。その横に寄り添った明菜も「ありがとう」と輝くばかりの笑みを浮かべて言った。
幸せそのものの二人を前に、光樹は眩しそうに目を細めて何度か頷いた。
「姉ちゃんと伊久磨さんが結婚失敗していたから、なんとなく実感なかったんですけど。結婚って、しようと思えばできるものなんですね」
「光樹。失敗だとちょっと意味が広すぎるから」
聞き捨てならないと伊久磨はすかさず口を挟んだが「しようとしたけど、受理されなかったんですよね? それで、まだしてないですよね? 実質、最初の結婚は失敗ですよね?」と光樹が畳み掛ける。
「最初の結婚……、だから意味が」
納得いかない伊久磨がぶつぶつ言っている間に、調理師学校を終えたエレナが裏口から出社し、ホールに私服姿の由春と明菜がいるのを見て「今日でしたね。ご結婚、おめでとうございます」と丁寧に頭を下げた。
それを、ありがとう、と二人で受ける。
キッチンからオリオンと聖も顔を出したところで、由春が改まった様子で告げた。
「戸籍上『岩清水』だ。旧姓は使わない。以降店でもそれで通すことにする。二人いるからややこしくなるかもしれないが」
「シェフとマダムで呼び分けますよ」
伊久磨が言葉を挟むと、由春は首を振った。
「明菜は入社間もない。店に不慣れなうちは、さしあたり岩清水の名前で」
「それだと、かえって切り替えのタイミングが難しいんじゃないですか。シェフの奥様であることは今後変わらないわけですから、マダムで良いと思います。不慣れといっても、経験者です。この一ヶ月の仕事ぶりも問題ありません。もし、俺をはじめ古参のスタッフに気を使っているなら、必要ありません」
「考えておく」
平行線。考えておくも何も毎日のことなのに、と反発しそうになりつつ、伊久磨はひとまず堪えた。
続けて、由春は聖にちらりと目を向けてから「あともうひとつ」と言った。
「聖が、正式にうちの社員になる。『ミュゼ』の準備で向こう一ヶ月は行ったり来たりだろう。オープンは六月中旬。それまでメニュー開発もあるし、『海の星』の系列としてふさわしいように、内装や食器類の選定もある。姉貴がいま臨月で食器づくりは出来ていないが……。『和かな』を『ミュゼ』で使うかは要検討だな。まあいい。そういうことで、今後ともよろしく」
テキパキと話を切り上げて、由春は聖やオリオンとともにキッチンへと向かった。
残った顔ぶれを見回してから、伊久磨は明菜へと尋ねる。
「今日の営業、西條さんに任せて、お二人は休みで良かったと思います」
「予約をたくさん頂いていますし、明日から土日なので、春さんが休んでも落ち着かないみたいです。あの、皆さんで閉店後、誕生日のお祝いも考えていてくださったんですよね……?」
「オリオンにケーキ発注していましたが。本物の新婚さんなので引き止めても良いものか……。いずれ、西條さんの店長就任祝いもありますし、結婚祝いもどこかでさせて頂けたらと思っています」
話している間に、エレナは「予約確認してきます」とエントランスのカウンターへと向かう。
光樹も「誕生日のお客さまとか、記念日利用の方確認します。リクエストがあれば」と話しながらその後を追った。
二人で残った形になり、伊久磨は明菜に「マダムで良いと思うんですが」と今一度申し出る。
明菜は微苦笑を浮かべつつも、伊久磨の目を見てきっぱりと言い切った。
「春さんにとって、仕事の場面では蜷川さんが一番です。私は、実際にまだお会いしたことのないお客さまもいますし、お店のことで聞かれても答えられないこともあるかもしれません。少し、時間をください」
「そうですか……。それでお二人が納得しているなら、今はこれ以上言いません。待ちます。ところで『仕事の場面』以外ではもちろん大切にされていますよね? 昨日から一緒に暮らしているわけですが」
その何気ない確認に対し。
明菜の反応は目覚ましく。
目に見えてわかるくらい、みるみる間に顔がかっと赤くなった。
(ま、まんがみたいな……。火を噴きそう。そんなに?)
「ははは、春さんは、はい。なんかもう、すごく優しい、です。少し前から鍵を受け取って、荷物運び込んでいたんです、けど。実際に一緒に暮らすとですね……その……」
だんだん聞き取りづらくなった声が、そこで途絶えた。明菜は赤くなった顔を見られたくないのか、うつむいてしまう。
「あの、べつに全部報告する義務はないですよ。あんまり詳しく聞くとセクハラになりそうですし」
「せ、せく、セクハラですか……!? 詳しくってまさか、その、夫婦生活的な」
「明菜さん落ち着いてください。聞いてません、聞いてません。言わなくて大丈夫です。言いたいなら他あたってください。色々聞いてしまったら、俺、岩清水さんの前で笑わないでいられる自信ないんで」
放っておくと、さらにとんでもないことを言い出しそうな明菜の叫びを気合で遮り、伊久磨は「落ち着いてください」と言い聞かせた。
「笑うような……笑うような内容ではないと思うんですが」
「明菜さん、そんな不安そうな顔しなくても大丈夫です。そのへんが普通か普通じゃないかはじっくり二人で話し合ってください。俺を巻き込まれても……」
伊久磨と明菜でぎゃーぎゃー言い合っているところに「何の話だ?」とコックコートに着替えた由春が顔を出した。
それだけで伊久磨は噴き出してしまい、慌てて横を向く。
「なんだよ」
「いや、こんなときどんな顔をすれば良いかわからなくて。こっち見ないで頂けますか」
「どんな顔も何も伊久磨、完全に笑ってるだろ」
怪訝そうにしていた由春であったが、うっすらなんの話か察したのか、伊久磨に厳しい声で「ふざけんな」と言った。
もはや遠慮することはない、と伊久磨は腹を抱えて笑いながら「本当に、おめでとうございます。お幸せに」と二人に祝福を述べた。
* * *
エントランスにて、エレナがパソコンを操作して予約画面を広げる。光樹とざっと夜の内容をさらった。
その流れで、光樹が生演奏で入る予定の土日の予約も確認。エレナはさらにマウスで画面を切り替えていく。
「最近バタバタしていて、平日お昼の内容全然見て無くて。北川さまとか……、常連さんね。平日のお昼だけのお客さまもいらっしゃるんだけど、お会いできてないし。蜷川さんとすごく仲が良い方なのよ。少し先にでも予約入っていないかな」
月曜日のランチの時間帯を見ていく。
伊久磨の客と聞いて光樹も「知ってるかも。ホタテのひとかな」とエレナと肩を並べて画面をのぞきこんだ。北川の名前はない。
翌日にページを送ろうとして、ふとエレナは手を止めた。
「この予約……」
「『鷹司』さん? あんまりない名字ですね。備考欄、西條シェフからって。知り合いかな」
読み上げてから、光樹はエレナの反応がなかったことに気づいて、その横顔に目を向けた。
頬をこわばらせたエレナは、小さな声で大丈夫かな、と呟く。
「何がですか?」
光樹に尋ねられ、エレナは考えに沈んだようにかろうじて呟いた。
「これ、西條くんの旧姓なの。西條くんはご家族とすごく折り合いが悪かったはずなんだけど……。どなたがご来店されるのかしら」