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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
42 暗中模索は光を求めて
294/405

希求する未来を描いて

「伊久磨、二号店出すぞ」


 物事が動き出すときはいつも急だ。

 ある日突然、「海の星」のオーナーシェフ岩清水由春が言い出したのだ。

 西條聖を正社員に迎えて、二号店「ミュゼ・ステラマリス」の店長にする、と。


「市内中心地で川沿いに建っている『野木沢きょう美術館』に出店する。官公庁や繁華街にも近いけど、後ろが住宅街だから落ち着いた立地だな。話はほとんど本決まりで、聖も前向きに考えている」

「野木沢きょう美術館って学生のときに一回行ったことありますけど、ほとんど記憶に残ってないな。レストランなんかあったっけ。作るところからですか」


「ひとまずテナントという形で。賃料を払いながら、通常メニューの他に美術館の企画と連動したメニューを提供していく。もともと軽食のカフェスペースがあったらしいんだが、それが趣味みたいな担当スタッフが切り盛りしていて、退職後うまく引き継げずに閉鎖したらしい。美術館の開館時間に合わせて、ディナーは無し。ランチとアフタヌーンティー中心の店にする予定」

「アフタヌーンティーは良いですね。西條さん、デザート得意だし。女性のお客様にウケそう」


 四月半ばの、仕事終わりのこと。

 久しぶりに二人で飲むか、と由春から誘われて焼き鳥居酒屋に向かったら、まさかの二号店の話。

 仕事中は、お互いなかなか時間が取れない。改まってミーティングをするとすれば、こうして営業時間外に食事をしながら、というのは自然な流れ。とはいえ内容が内容だけに、伊久磨はアルコールを控えようかと逡巡した。

 それを見越していたかのように、カウンターで並んで座った由春が「お祝いだと思って好きなだけ飲んでいいぞ」と笑った。

 久しぶりの、ほどけた空気。

 伊久磨が静香と暮らし始めてからは、由春と個人的に飲む機会がほぼなかったのだ。


「お祝いですか。二号店の話がいきなり具体化したことも驚きですが、あの西條さんがこういう形で海の星(うち)に加わるというのも意外です。いつかどこかへ、行ってしまいそうなひとだと思っていたので」


 ひとまずビールを飲みながら、伊久磨は感慨深く呟く。

 伴侶を失い、長らく海外で漂泊の身の上だった聖。縁あってこの地を訪れてとどまっていたが、いつ途切れても不思議のない、細い糸のようなつながりだと感じていた。

 いなくなるときはいなくなる。伊久磨としてはそう覚悟していたので、話を打ち明けられたあともすぐには実感が沸かない。

 由春はのんびりとねぎ間を一串食べ終えてから、何気ない調子で付け足した。


「叔父貴の影響が大きい。もともとこの話、うちの親父から来ているんだが、叔父貴でという案もあったんだ。叔父貴は死ぬまで仕事を続けたい人間だが、体力的に思わしくないところがあって……」


 声に滲む、微細な感情に耳をこらしながら、伊久磨は邪魔にならないように最低限口を挟む。


「ヒロシェフ、ランチのお店だけでも難しいくらいのお加減なんですか」


 そこで、由春はくすっと小さく笑った。聞き間違いかと伊久磨はその横顔を見つめてしまったが、実際に由春は笑っていた。見られていることに気づいてか、伊久磨に視線を流しながら楽しげに言った。


「体調に関しては楽観視できない。本人ではないので、あまりはっきりとは言えないが。ただ、『まだ倒れねーよ』とかなんとか。この辺に進出してくる大手リゾートホテルからの話を受けて、グランシェフ就任が決まった。半年でも一年でも、倒れるまでやるって。聖にも声がかかっていたんだが、聖は今回見送った。叔父貴が倒れたらもう一度声がかかるかもしれない。少なくとも関係者や聖はその覚悟で、叔父貴の決断を受け入れている。体調に不安があるとはいえ、あれだけのネームバリューある実力者は他にいないからな」

「それだと『ミュゼ』に関しては、西條さんは腰掛けみたいなものですか」


(大切な「海の星」の二号店なのに?)


 違和感から伊久磨が尋ねると、由春は即座に答えた。


「いずれにせよ、聖の腕で、ディナーの無い店をずっと続けるのは本人のためにもならない」

「それはそうですが。オーナーシェフレストランである『海の星』が岩清水さんあっての店であるように、『ミュゼ』も軌道に乗るとすれば、それは西條さんにお客様がつくという意味でもあるはず。長期的な展望が無いまま進めて良い話とは思えません」


 責める口調になってしまった。それは美術館側にとって、本当に益のある話なのだろうか、と。レストランが軌道にのったところで撤退など、だまし討ちのようではないだろうか。

 その点に関して、由春はひどく真面目くさった顔で頷いた。


「そうだな。将来的に聖が抜けるとすれば、後継者育成は急務だ。藤崎は間に合うだろうか」

「無理に決まってる」


 反射的に答えてから、さらに「冗談じゃないですよ、藤崎さんですよ」と伊久磨は本人が聞いたら涙にくれそうな念押しをする。由春は少し考える素振りをしてから、再び口を開いた。


「佐々木という手もある」

「あるかもしれませんけど、無いです。たしかに、佐々木さんが復帰するとすれば、保育園の関係からみても朝から昼だけの営業時間は仕事先として向いています。でも、お子さんが熱が出たとか、何かあったときに、全部ひとりで対応するわけですよね。とすれば、復帰後しばらくは急な休みも想定し、ポジションはあくまでサブで考えておくべきです。メインでお店を任せるのは難しい」

「明菜」


 グラスをカウンターに置いた伊久磨は、由春を睨みつけた。


「これは大事な場面なので敢えて言いますけど、その想定では、しばらく妊娠・出産は無しということになるでしょう。お二人はそれで良いんですか。先延ばしにすればタイミングを逃し続ける恐れがありますし、年齢の面からリスクも高まります。完全に、家庭より仕事を優先する形になりますが」

「お前、考えてるなぁ」

「うちは静香が俺より年上なので。先延ばしにはしません」


 伊久磨からの強い視線に対し、由春もまた、体ごと伊久磨に向き合うような形で顔を合わせた。しっかりと目を見つめながら言った。


「今話したのは、全部叔父貴の寿命が半年ないし一年で切れたらっていう、いわば最低の想定の上に成り立つ内容だ。実際、そこはなんとも言えない。グランシェフとして叔父貴が足場を固めてから、聖と交代する可能性もある。いずれにせよ、聖を『ミュゼ』に長く置いておけないのは確かだが、『海の星』の二号店として運営していく方法は考えるから、今からあまり心配するな」


 店内のざわめきが、少しの間遠のいた。静かに、二人で向き合う。

 言葉も無く見つめ合ってから、伊久磨はふっと息を吐き出した。


「最近西條さんが少し元気なかった理由が、わかった気がします。しがらみがなくて、どこかに行ってしまいそうな人だったのに、ヒロさんに繋がれていたんだ。後継者になれって口説かれたのかな」

「叔父貴には、俺より聖の方が合うんだろうな」


 由春が、すっと視線を逸らして体の向きまで変える。その横顔に幾ばくかの寂寥を見いだして、伊久磨は思わず肩に手を置いた。


「違いますよ。岩清水さんに関しては、心配ないからじゃないですか。家も店も家族も婚約者も全部揃ってる。こう言っちゃなんですけど、西條さんにはそのすべてがありません」

「事実でも、言葉にするとなんとも言えないな。ここで叔父貴があっさり死んだら、聖は常緑(ときわ)さんに続いてまた身近なひとの死を背負うことになる。そのときのことが、俺は今から心配だよ」


 “あいつは耐えられるんだろうか”

 横顔に浮かんだ、行き場のない思い。由春が、ついぞ他人には見せることのない不安げな表情。


(恐れている。岩清水さんが。岩清水さんにとっても、ヒロシェフと西條さんの繋がりは、吉と出るか凶と出るか、見定められないことなんだ)


 未来はあまりにも不透明で。一寸先にどんな悲しみが待ち構えているかは誰にもわからないから。

 どんなに備えていても、運命は容赦なくある日突然すべてを奪い去っていく。

 ひとはあまりにも無力で、なすすべも無く次々と倒れていく。ときには、誰にも助けを求められないまま。

 目を瞑らなくても、伊久磨はかつて馴れ合った絶望の存在を身近に感じることができる。

 自分を取り巻く、虚無。

 その暗闇のイメージを打ち破るのはいつも、雪降る夜に目の前に差し出されたひとりの手なのだ。


「らしくないですよ、岩清水さん。自分で、今から心配するなって言ったそばから。半年、一年あったら、人間いろんなことができます。岩清水さんも俺も、西條さんも。もしかしたら西條さんにも出会いがあって、ここに根を下ろして生きていく理由ができて。この三人の中で一番先に結婚して子どもまで出来ているかも。子育てあるから、この先数年は夜の営業ない店の方が助かる、なんて言って。佐々木さんと子育てトークで盛り上がったりして。たとえば、そういう、未来だって。絶対無いとは、言えないです。というか、信じて諦めなければ、どうにかできますよ」


 アルコールが入っていたせいもあり、酔っていた。酩酊ほどではない。それでも言葉が強くなってしまった。止まらなかった。

 黙って聞いていた由春は、伊久磨の背にそっと手を伸ばして優しく触れた。


「泣くなよ」

「泣いてねーし」

「今日はお祝いのつもりだったんだ。不安にさせて悪かった」

「泣いてねえから」


 顔を見合わせたところで、由春はふきだした。遠慮無く。

 その明るすぎる笑い声を聞いていたら、伊久磨は「ほら見ろ泣いてない」と主張する気も失せた。カウンターの奥に「注文いいですか」と声をかける。


 由春は何がおかしいのか、しばらく笑い続けていた。

 いい加減にしろ、と伊久磨が肘打ちをすると、笑ったまま「伊久磨、六月には結婚するはずなのに、今から聖に越されたら面白すぎるだろ」と言い、目をむいた伊久磨にいたずらっぽく微笑んで告げた。


 俺はそこまで間抜けじゃねーから、明日にでも結婚しよう、と。

 

ここで100万字到達(๑•̀ㅂ•́)و✧

長らくお付き合い頂きありがとうございます。

まだ続きます!!

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― 新着の感想 ―
[一言] 今さらながら、100万字到達おめでとうございます!! そして、めでたい発表!……かと思っていたら、ここでも安易に終わらない諸々の問題が浮き彫りになってきましたね……!! それにしても、伊…
[良い点] それぞれがそれぞれに想い、決断し一生懸命に生きていく あ~、ドラマですねぇ 今回は濃厚さを感じました(*‘∀‘)ノ [一言] ラストの伊久磨っち、言葉が乱れるなんて珍しいですね笑 良いもの…
[一言] 100万字到達おめでとうございます! お、叔父貴……!! これは作風読み的に、最悪のタイミングでその時が訪れてしまいそうな気が……( ˘ω˘ )
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