昨日の今日で
館長、という呼び声に気づいて、野木沢まどかはハッと顔を上げた。
「全然聞こえてない? 五、六回呼んだよ。ずいぶんぼーっとしていたみたいね」
母親ほどに年齢の離れた美術館スタッフ、村上という年配の女性が、苦笑を浮かべて立っている。
まどかは「すみません」と言いながら、手元に広げていた書類を集めた。束にして角を揃えるようにとんとん、とローテーブルの上で立てる。さりげなく、村上の視線から文字列を逃すように。
その程度でごまかされる相手ではなく、「また見ていたのね、あの資料」と指摘される。
美術館の事務室。入ってきて、声をかけている間に、とうに見られていたのだと気づき、まどかも微苦笑を浮かべた。
「自分でも何か思いつかないかと……。次の打ち合わせまでに」
書類は、市内のコンサルティング会社『銀の星企画』から経営計画案として提示された資料一式。
美術館の館長をしていた祖父の急死により、一年前に急遽まどかが後継者として館長業務を引き継いだものの、そのときにはすでに経営は傾いていた。できる限りのことはしてきたつもりだったが、先行きはまったく見通せず。そんなときに知り合いからコンサルティングをすすめられ、決断。
その結果、いくつかの改善案とともに「せっかくのカフェスペース、閉鎖したままではもったいない。確実に集客できるレストランをテナントとして紹介できる」と提案されたのだ。
(美術館併設で、企画展と連動した限定メニューを出すレストラン自体は珍しくないし、うまくお客さまの流れを作れるなら……。でも、この店長に推薦されてきた「西條聖」さんって、経歴を見ただけでもすごくて)
北海道出身。有名大学卒業後、数カ国渡り歩き、フランスの星付きレストランではスーシェフをしていた実力派。語学堪能。昨年末に帰国。現在は市内の「海の星」勤務の傍ら、近郊のリゾートホテルのレストランからシェフに抜擢の話があったが、断っているとのこと。
まどかは、資料を受け取って以来、その部分に何度も目を通していた。
西條聖に関しては、写真は無く、文章のみ。それだけに、想像が膨らんだ。
年齢はまどかより三歳下。だが、遥かに濃密な生き方をしてきたのが、その経歴から垣間見えた。いったいどんな人なのだろうと、ほのかな憧れすら抱きつつあった。
思いがけないタイミングで昨日、当の本人と出会うことになったが。
「館長、お食事終わりみたいだし、表に来てもらえるかしら。お客さまが」
「お客さま? 混んできました?」
「そうじゃなくて、館長にお客さま」
村上は、妙に意味深な、含みのある笑みを浮かべる。
その意味がよくわからないまま、まどかはローテーブル上に置いてあった弁当箱に手を伸ばした。最低限のスタッフで運営している中、昼休憩にと事務室に下がってきたところであったが、すでに食事は済んでいる。
「すぐに行きます。ロビーですか? 業者さん?」
「いいえ、それがね、若い男性よ。すっごいイケメン。モデルさんみたい。目が青いの」
がちゃん、とまどかは弁当箱を床に落とした。
(それはもしかしなくても、「西條聖」さんでは……!)
「な、何かご用件おっしゃってましたか。ええと、歯を磨いてから行きたいんですけど、一分待ってもらえますか」
「大丈夫大丈夫、呼んできますって言ったら、ソファで本開いていたから。しっかり歯を磨いて、お化粧も直して、鏡確認してから来てよ」
「そんな、そんな、ええと、村上さん、何か誤解してません? あのひとそういうんじゃなくて、仕事。仕事の方です」
ううふふふ、と楽しげに笑われて、まどかは自分が声がひっくり返るほどに動揺していることに気づいた。落ち着かねば。顔も赤くなっているかもしれない。
「どこで知り合ったの? 今度紹介して」
「それはもう。すぐに紹介することにはなりますので、ご心配なく」
「あらそうなの? 楽しみだわ」
村上は、悪いひとではないのだが、親世代の遠慮の無さで、三十歳過ぎて独身でいるまどかに、事あるごとに探りを入れてくる。毎回「いい人は特にいないです」と事実のままにかわしてきたが、今日は見目麗しい男性が訪ねてきたことで俄然色めきたってしまっているらしい。
(「紹介」の意味も勘違いされている、絶対に。違うのに)
自分の発言が誤解されていることに気づき、まどかは力強く訂正した。
「本当に、お仕事関係の方です。いずれスタッフの皆さんにご紹介することになるかと思います。あの方、既婚者なので、今みたいな身内ノリで『館長とは個人的な知り合い?』と尋ねるのは辞めてくださいね」
あら、と村上が目に見えてトーンダウンしたのを見ながら、まどかは「失礼にならないように、歯磨きと身支度してからすぐに行きます」と告げた。
* * *
エントランスに他に客の姿はなく、待ち人は一人がけソファに足を組んで座り、文庫本を読んでいた。
一幅の絵のような、という表現にふさわしい美麗な姿。離れた位置で立ち止まって見つめてから、まどかは呼吸を整えて歩み寄った。
声をかける前に、聖が顔を上げた。目が合った瞬間、気後れする前にと、まどかは笑みを浮かべて一息に言った。
「お待たせしました」
「昨日の今日で悪い。時間は大丈夫ですか」
「はい。今は大丈夫です。何か御用でしたか。忘れ物でも」
聖はすぐに立ち上がった。顔が小さく、頭身のバランスがモデルのような立ち姿。背が高い。
(ほんと、見目が良すぎて、目のやり場に困る……)
それとなく視線を喉あたりに向け、目が合わないようにする。聖は、まどかの戸惑いに構うこと無く、歯切れのよい口調で言った。
「たいした用じゃない。昨日話が中途半端になったから。『海の星』の予約状況を確認してきた。やっぱりランチは結構混んでる。『ミュゼ』ではランチに力を入れることになると思うから、雰囲気的にはそっちを見てもらった方が良さそうだけど、ここの休館日の月曜日で調べたら三週間先まで空きがない。夜ならまだある。予約、どうします? 月曜日以外も一応見てきたけど、状況はあまり変わらないです」
「私の休日は月曜日だけですが、三週間後は、さすがにちょっと」
(そんなに混んでるんだ。名前は聞いたことがあったけど、行ったことなかったから、知らなかった)
言葉を濁らせたまどかに対し、聖は「だよな」と頷いた。
「もしよければ、俺の知り合いだと言って、来週のランチに席を取ります。最初にご来店された方のあとの席、二時間くらいみておけば空くから。多少お待たせはするかもだけど。普段は夜の営業にかかるから、平日のランチは満席で取りきったあとの回転はあまりとらないけど、よければ」
「それは、ご迷惑になりませんか?」
「大丈夫。野木沢さんの場合、食後にオーナーシェフの岩清水やスタッフと話す時間を作る意味でも、むしろ遅めの予約が都合良いかなと。もちろん、来店するときは美術館の野木沢さんと言わなくてもいいよ。俺の名前で予約入れておくから」
昨日の短い会話で、全部先回りして考えてくれていたらしい。男性にここまで自然に気を使われた経験の乏しいまどかとしては、手際の良さに感心してしまう。
説明を終えた聖は、ジーンズのポケットからスマホを取り出した。
「良ければ今ここで予約入れてしまう。来週の月曜日、十三時。席は一人で大丈夫ですか」
「はい。それで。予定は空いてますので」
ここで電話は大丈夫? と確認されて、まどかは「他にひともいませんのでどうぞ」と答えた。聖はすぐにスマホを操作にして耳に近づけ、話し始める。
「お疲れ、西條だ。来週の月曜日のランチ、俺の知り合いで予約を頼む。一名で、十三時から。入れ替えの席と伝えてあるから、多少のお待たせは了承済み。名前は……、鷹司で」
さらっと「偽名」で予約を入れて、通話終了。会話の接穂を失わないように、まどかはすかさずそこに触れた。
「今の流れで言うと、私は鷹司と名乗れば良いわけですね。西條さんのお知り合いの方ですか」
「いや、俺の旧姓。西條は妻の名字。佐藤さんや鈴木さんで他のお客さまとかぶってもややこしいから」
妻。
思わず、左手の薬指に目を向けそうになる。何度見ても変わらない、と自分に言い聞かせて堪える。
「ご丁寧にありがとうございました。本当は、抜き打ちで偵察も気がひけるんですが」
「当日俺もいるようにするから、タイミング見て言おう。岩清水も別に気にしないはず」
「そういえば、オーナーシェフの方、『銀の星企画』の岩清水さんの御子息なんですよね」
「あの親子、似てる。見ればすぐにわかる」
前日の気まずい空気が嘘のように、滑らかに会話が出来た。まどかは、ほっと、吐息する。
(このひととはこれから長い付き合いに……なるはずだから。昨日は「無限浄土」のせいであんなことに)
話すきっかけとなった絵。「気になる」と言われたが、変に意固地になって、結局壁から下げてしまったままだ。
「用事はそれだけだから、今日はこの辺で。そうだ、予約の変更とか、何かあったら俺に連絡を。電話番号伝えておく」
「すみません、いまメモを何か。スマホも置いてきてしまって」
「着信残しておくから、電話番号教えて。今が14時06分。その着信が俺」
スマホの画面を見ながら、すらりと言われた。仕事だから変な意味はないはず、とまどかは緊張を悟られぬよう、自分の番号を告げる。
聖は、コール音を確認してから電話を切る。「それじゃ」と軽い調子で言って、まどかの横を通り過ぎようとした。出口まで送ろうとまどかがついて行くと、ちらりと視線を流して言われた。
「“壁にかけられない”とは思わなかった。先に館内見てきたけど、戻してなかったな。俺は言葉足らずで悪かった。気が向いたらまた絵を見せて」
「私の陰気な絵を、ですか?」
嫌味のつもりで言ったわけではなかったが、聖は端麗な顔をくしゃりと歪めて、絞り出すように言った。
「ごめん」
その表情は、思いがけず弱っているように見えた。