君の絵
西條聖は、長いことその絵の前に立ち尽くしていた。
どうかすると、写真のようにも見える風景画。
美術に関しての知識は、たしなみ程度。そう自認している聖は、決して自分が絵に詳しいなどと勘違いはしていない。それでも、直感的にその絵を鑑定に出したとて、目の飛び出るような高値がつくことはないだろうとは感じた。そういう意味での価値とは別次元の何かのせいで、身動きがとれない。
市内にある、ゆかりの画家の名前を冠した個人美術館のひとつに、とある目的で訪れていたときのこと。
その順路をたどっていたときに、何かの間に合わせのように壁の隅にかけられていた絵が目についた。
そこにあるのに。
ほとんど誰にも気にされないとばかりに、注意深く気配を消しているかのような存在感。
聖も、はじめはその前を通り過ぎそうになった。足を止めたのは、視界をかすめたタイトルが、ふとひっかかったせいだ。
“無限浄土”
(沿岸に行ったときに見たな。「浄土ヶ浜」……こんな天気ではなかったけど)
モノクロ写真のように白と黒の色に沈んだその絵は、空と砂浜、海から突き出た流紋岩を、重く垂れ込めた霧をまとわりつかせながら描いていた。
見つめているうちに、絵の中に囚われそうになる。その黒い霧を構成する粒子のひとつとなって、茫洋とした絵の暗がりの一部となるような、奇妙な感覚。
酔う。
思わず掌で口元を覆って、瞑目した。
「こんにちは」
低めの落ち着いた女性の声が響いた。
聖は、ゆっくりと目を開いて、声の方へと顔を向ける。
長い黒髪、澄んだまなざし。化粧気がないせいかやけに若い印象を受けたが、態度は堂々としており、振る舞いだけ見れば聖よりもずっと年長者のようにも感じる女性。
白いブラウスに、黒のパンツ姿で真っ黒のエプロン。各展示室に立っているスタッフだというのはすぐに知れた。
「具合が悪そうです。もしよければそこの椅子にどうぞ。もしくは、ここを抜ければすぐ出口ですので、一度明るいところへ出てみてはいかがでしょう」
柔らかい口調で、控えめな提案をされる。
夢からさめたように、聖はゆっくりと目を瞬いた。
絵に吸い込まれると感じたのはもちろん錯覚。美術館特有の、光の絞られた薄暗いフロアに、ひとりで立ち尽くしていただけ。他に客はいない。
聖は軽く微笑んで、口を開いた。
「この絵が気になって……。まだ出たくはないから、そこに座ってようかな。時間制限は大丈夫ですか?」
「制限は特にありません。閉館までまだ時間がありますし」
もちろん、制限など無いのはわかった上での冗談だったのだが、女性の生真面目そうな返事を聞く限り、通じたかは怪しい。
仕事中の人をあまりからかってはいけない、と思いながら聖は「ありがとう」と礼を言って、身を翻す。フロアの中央に、キューブ型の布張り椅子が円を描くように並べられている。そこまで進んで、腰掛けた。
両手を後ろにつき、胸をそらすようにして息を吐き出してから、あらためて「無限浄土」へと視線を投げる。
ちょうどその視線を遮る位置に、スタッフの女性が立ちはだかった。
偶然かなと思ったが、それにしてはさりげなく邪魔であった。聖がそのことを言おうかどうか悩んだまさにそのとき、女性の方から声がかかった。
「そんなに見所のある絵ではないですよ。どうせ見るならあちら側の展示はいかがですか。あの絵は、普段草花を好んで描いた野木沢の残した絵としては珍しい大作なんです」
聖が背にした壁の方へと注意を向けるように、説明を始める。
その口元を何気なく見つめながら、聖は「それはもう見た」とそっけなく答えた。付け足すように、女性に尋ねた。
「そっちの浄土ヶ浜の絵も、野木沢さんの作品なんだろうか。モチーフが違うせいかもしれないが、どうも違和感がある」
「この絵は、『野木沢きょう』の作品ではありません」
「ならどうして、作者の名前が無い? 今まで見てきた中では、野木沢さんの作品もそれ以外も、すべての作品は名前が表示されていたはず。それだけ、付け忘れたんですか?」
野木沢きょうという女性画家の名を持つその個人美術館の常設展は、ほぼすべてそのひとの作品がしめていたが、それ以外の作者の作品もいくつか展示されていた。なぜ作者が違うとわかったかといえば、野木沢の作品も他の作者の作品も、すべてタイトルと作者名が出ていたからだ。
(そうだ。この絵だけ、作者名が無い。だから気になったのか?)
「この絵はですね……、以前展示替えのときにこの壁に什器をぶつけて穴をあけてしまって。それでここにかけているだけの間に合わせなので、展示品でもなんでもないんですよ」
聖の追求が面倒だったのか、スタッフは早口にそう言うと、突然壁の絵に手をかけて外してしまった。およそ、美術品を扱うとは思えないような雑な手つき。まるで前の年のカレンダーが残っていることに気づき、捨てるために無造作に外したような荒さだった。
「べつにそこまでしなくても良いだろ」
ぶっきらぼうな態度にむっとしながら、聖は立ち上がって素早く歩み寄る。
絵を手にした女性スタッフは、奇妙なまでに剣呑なまなざしで聖を見上げた。
「もともと、壁の穴をふさぐまでの一時しのぎですから。お客様にお見せするようなものではなかったんです。片付けます」
「どこへ? 捨てそうな勢いに見えるんだけど」
「そんなの、企業秘密です。社外秘です。お客様には関係ありません」
「見たいんだ。その絵、気になる」
「気にしないでください。こんな暗い絵。すごく色味も味気ないですし、目をとめるひとがいるとは思いませんでした。すぐに片付けなきゃ」
聖の視線から逃すように、女性は絵を胸に抱き込む。
その仕草を見て、不意に確信を得た聖は鋭く呼びかけた。
「あなたが描いた絵なんだ」
女性は聖から視線を逸らした。「それは……」と小声で呟くも、その後が続かない。その横顔を見ながら、聖はだめ押しのように言った。
「粗末に扱うなよ。良い絵かどうかはなんとも言えないけど、妙な迫力がある。ひとを惑わすような。自宅に飾りたいかは難しいところだけど、気になる絵なのは間違いない。他には?」
「他?」
「同じ作者のべつの絵も見てみたい。制限時間無いみたいだし、引き返そうかな。名前が無い絵はなかったような気がするけど……。そうだ、あなたの名前を聞いていいか?」
絵を小脇に抱えたまま、女性は「えぇ……?」と妙な呻き声をもらして聖を見上げる。
絞り出すように言った。
「まだ何も言ってないのに……。私の絵だと決めつけたり、名前まで」
「態度を見ていればわかる。ここのスタッフで、適当な絵が無いから自分の絵をそこにかけた? その辺はべつにどうでもいい。俺は部外者だし、職権乱用だなんて責める筋合いじゃない。ただ、他にも同じ作者の絵があれば見たいだけだ。名前を聞いている理由も本当にそれだけ。ナンパじゃない」
「べつにナンパを疑ったわけじゃないですけど……。それに、他には無いですよ。同じ作者の絵」
「あなたの手元にはある? 画家として仕事してる? どこに行けば見られる?」
気になったので聞いただけなのだが、女性は絶句してしまった。
さすがに矢継ぎ早に言い過ぎたか、と聖は内心で反省しつつも「名前教えてもらえたら勝手に検索するから」とフォローにもならないことを言ってしまった。
女性は今度は目を逸らすことなく、かすれた声で答えた。
「そういうのは……。私も自惚れでこんなこと言うわけではないですが、怖いです」
「ストーカーっぽい? 悪かった。気になると調べたくなってしまって。そっか、先に俺が名乗れば良かったかな。とはいっても、いま名刺もないんだけど。どうしよう、こういうとき無職は不便だな」
「無職……。仕事無いんですか」
もともと聖に対して引き気味の女性は、その一言にほんのり表情をくもらせる。
気づいた聖は「ん?」と軽く首を傾げてみせた。
「仕事、今は無いけど、来月あたりからものすごく忙しくなるかな。そうだ、この美術館にも遊びで来てるんじゃない。今日は下見だけのつもりだったけど、せっかくだから責任者の方がいれば挨拶して行く。そうでもしておかないと、次に仕事で来たときに、あなたに完全にストーカー認定されそうだ」
「責任者に挨拶? なんの用事でですか?」
「併設のレストランの件で。この美術館にコンサルティングで入っている『銀の星企画』から声がかかって、いまは閉鎖しているっていうレストランに、今後仕事で携わる予定。西條聖だ。職業は料理人。責任者は、画家の子孫のひとがいるって聞いているけど……今日は会えるかな」
一息に告げた聖を見上げていた女性は、絵を片手で抱え直してから、空いた手で自分の胸元のプレートを指さした。
野木沢
聖がその文字列を認識したのを見て取ると、きっぱりとした口調で告げた。
「『銀の星企画』にお願いした、この美術館の責任者は私です。はじめまして、西條さん。館長の野木沢です」