帰り道と、朝の光
夜道は車が少なく、五分程度で目的地付近へとたどり着いた。
椿屋のある商店街の通りへと曲がれば、いつもながらに閑散とした道には車も人影もなく。
唯一、歩いている長身の後ろ姿を聖とエレナが同時に見つけた。
「樒さん、椿がいる」
聖の一言で、樒が車のスピードを可能な限り落とす。歩く香織に車を横づけるようなタイミングで、聖がウィンドウを下ろした。
「夜遊びか、めずらしい。どこ行ってたんだ。乗る?」
「なんだ、どこの酔っぱらいが絡んできたのかと思ったら西條か。乗らないよ、あと五秒でうちに着くっての」
「そうだな。じゃあ俺も下りる」
自由すぎる聖の放言に合わせて、樒がハザードランプを点灯させて停車した。聖はすぐに勢いよくドアを開けて、若干迷惑そうな香織に絡みに行っている。
「酔ってる……。なんだか西條くん、楽しそう。自分の車なのに、運転樒さんに任せちゃって」
エレナが呟くと、樒が「下りる?」と声をかけてきた。たしかに、椿屋はもう見えている。止まったタイミングで下りた方が良さそうだ。そう思いつつ、目が合ったら、気まずさが押し寄せてきて意味のない苦笑を浮かべてしまった。樒がわずかに、うかがうように目を細める。その表情を見たら、何か言わねばと気が焦り、止まらなくなった。
「今日はわざわざありがとうございました。さっきは少し、変なところ見られちゃって。その……、私のようなおばさんと付き合いたがる若い子もいるっていうか。でも彼女とかじゃないですよ。そういう真剣な話じゃなくて、ただの興味だと思います。やだなぁ、モテるだろうに、おばさんにまで手を出そうと思わなくてもいいのに」
(言わなくても良いことを、言うべきではない相手に)
年下の相手に良いようにされてしまった自分。目撃されてしまったことがずっと引っかかっていたせいもあり、言い訳ができそうな機会だと思ったら、明らかに口が滑りすぎた。
よりにもよって言うべきときに言えなかった「おばさん」が、今になって出てきたのも、まずいという自覚はある。自虐的な表現。それが相手にどう受け取られるか想像がつかないわけではないのに。ぺらぺらと、余計なことばかり。
どうにか空気を変えたいのにその方法が見つからないまま、エレナは自己嫌悪いっぱいに曖昧に微笑んで、話を打ち切った。
隣で黙って話を聞いていた樒は、ハンドルに両手を置いたまま、エレナに顔を向けた。
「それ、俺は『藤崎さんはおばさんじゃないよ』って言った方が良い?」
「いえ、すみません。今のは私の失言です。樒さんにそこまで言わせるなんて、接待強要も良いところですよ。ごめんなさい」
額を手でおさえて、こみ上げてきた溜息は気合でこらえる。そのエレナの耳に、温度を感じさせない声がすべりこむ。
「べつに言うのは構わない。本心だから。だけど、藤崎さんが困るんじゃないかと思って」
「困る?」
何をだろうとエレナが顔を向けると、眼鏡越しの真摯な瞳に射すくめられる。
「俺に本気で言われたら困らない? お世辞じゃなくて、綺麗な女性だと思ってるって」
「…………えっと」
ろくな反応ができなかったエレナに対し、樒はふっと笑みをもらすと、ドアを開けて車を下りて行った。
石畳の歩道、街灯の下でわいわい言い合っている男二人に声をかける。
「駐車場の位置、微妙にわからない。今下りられると困るんだった」
「あ、そうだそうだ。俺の車だった。椿も乗れよ」
「なんでだよ。意味わかんねーよ、うち目の前だっての。はなせ馬鹿」
「洗車したから乗り心地いいぞ」
「外側洗っただけで、中は変わらないと思うんだけどねええ」
さかんに抗議していた香織であったが、結局連れてこられて後部座席に押し込まれる。その後に、聖が続いてドアを閉めた。すぐに樒も運転席に戻ってくる。
「藤崎さんも一緒? おかえりなさい。で、西條はなんで樒さんに運転させてんの? ていうか飲んだのかよ。酒くさい」
「椿もなんかキッツイの食べた感じ。家系ラーメン。豚骨魚介醤油」
「うわ、あてるなよ気持ち悪いな。そういうの嫌なんだけど」
「つけ麺だと思う。間違いないな」
「うるせえよ。当てるなって。ラーメン食べたよそれが何!?」
急に、車内がうるさくなる。
ちらっと後ろを振り返っていたエレナであったが、口をはさむ気にもならずに前を向いた。
樒は直前までのエレナとの会話などなかったかのように、背後の二人のやりとりに笑っている。
「そっかぁ。椿は一人寂しくラーメンか。今日行った店すっっっげえ良かった。来ればよかったのに」
「西條ほんと少し黙って。別に俺ひとり寂しくじゃないし、だいたい今日は俺、西條に誘われた覚えないからね。わかる? 誘わなかったの、西條が。俺を」
「あ……、そっか。ごめん。椿、それで拗ねてたのか」
「死ね」
どか、と香織がシートに寄りかかった音がした。
(西條くん、ウザ絡みだなぁ……)
耳を傾けながらエレナも何かしらフォローできないか検討だけはしてみたが、諦めた。香織に関しては、ご愁傷さまと思っておくことにする。
聖は樒に近くで借りている駐車場の位置を告げてから、「ああっ」と急に大きな声を上げた。
「いま椿変なこと言ったな。ひとり寂しくじゃないってどういうことだ。友達いたんだ?」
「もういいから西條寝れば。あとでベッドに行くね。ハサミ持って。まだそこまで髪伸びてないから今回は前回ほどうまく切れなかったらごめん。先に謝っておく」
「そうだよ、俺そういえば椿に髪切られたよな。あれなんだったっけ……。怖ぇよ、夜中にハサミ持って来るから」
「あのときは何だったっけね。西條にムカついたのは確かだと思うけど、頻繁にムカついているからいちいち覚えてられない」
「ところで友達って誰だよ。蜷川?」
「誰だっていいじゃない。俺のことは放っておいてよ」
「女じゃないよな。この時間に帰ってきてるわけだし、豚骨魚介醤油つけ麺だし」
ぶつぶつと言い続ける聖に対し、香織が拳を叩き込んだのが、ルームミラー越しに見えた。
暗かったので、見間違えだったかもしれない。エレナはそう思っておくことにした。
* * *
飲もう、と。飲まねーよで言い争う二人をとりなしているうちに、縁側で二次会。
ほとんど無理矢理に誘われた樒が帰った二十三時にお開きとなり、順次シャワーを使って就寝。「秒で済ますから」と言って最初にシャワーを浴びてきた聖は、なぜか縁側に戻ってきてその場で寝ると言い出した。
「風邪ひかないでね。誰も看病しないから。他人の手を煩わせないで生きてよ」
「椿冷たい」
「冷たくもなるよ。自分の普段の言動よーく振り返ってみな」
「振り返るのは面倒くさいな……。まあいいや、人間いつ死ぬかわからないわけだし、俺に冷たくしたこと後悔したくなかったら、優しくしておいた方がいいぞ」
「どんな脅しだよそれ……」
香織と聖は何やら言い合いをしていたが、最終的に香織が折れた。
健やかに寝てしまった聖に悪態をつきながら、掛け布団を運んでいた。
何か手伝う、とエレナは声をかけたものの「大丈夫。寝て。俺ももうすぐ仕事だから寝る」と香織には微笑まれて完全に解散となった。
(今日はなんだか疲れた……。いろいろあった気がするけど、盛りだくさんすぎて……)
自室に戻って、布団に入りながら思い出そうとしたが、思い出しきれぬまま。
眠りに落ちた。
夜明けはすぐにやってきて、「藤崎、藤崎!!」と部屋の外から聖に声をかけられて何事かと目をこじ開ける。
時計を確認すると、五時半。
ドア越しに返事をすると「庭にきて!!」と言い残して聖は去っていってしまった。
ひとまず、ジーンズを履き、パーカーを着て、顔だけ洗って居間から縁側へと向かう。
ガラス戸を開け放って、瑞々しい緑の薫る庭に出ていた聖が、笑いかけてきた。
何、と声をかける前にその理由に思い至る。
――G線上のアリア――
(どこから……)
目を閉ざして、耳を澄ます。
奏でられる音色に身を浸す。
目裏に浮かんだのは、青く澄んだ空と一面の赤茶けた砂漠。
一心不乱にチェロを弾く灰色の髪の青年の姿。
弓の先から紡がれ、重力から逃れて、空へと向かうかのように、伸びやかに広がり続ける音の奔流。
やがて彼の足元から、水が湧き出す。とめどなく、豊かに荒れ地を潤し、地表を覆っていく。
いつしかそこは水の楽園となり、地面に青空が映し出され、雲がゆるやかに流れて天地が溶け合う。
朝の澄んだ空気が清冽さを増して、呼吸するたびに肺が満たされる感覚があった。
丁寧に紡がれるメロディーは、柔らかく深みに落ち、かつ軽やかに走り続ける。
流れる一音一音が全身に染み込んでいき、溜息のような吐息がこぼれた。
身動きすらできぬまま縁側に座り込み、ただ聞き続ける。
曲が途切れたタイミングで、エレナのもとに歩み寄ってきた聖が、その横に腰を下ろした。
「樒さん。チェロ弾いてくれる約束だった。ここで寝て待ってた。……藤崎?」
立ち上がった聖は、部屋の中から籐のケースに入ったティッシュを手にして戻ってきて、エレナに差し出した。
そこでエレナはようやく、自分が泣いていたことに気づく。
「すごい綺麗な音。樒さんって、心が綺麗なんだと思う。こんな優しく、語りかけるみたいに……」
(全部、優しく包み込むように)
次の曲が始まったので、二人とも口を閉ざす。
かすかな物音が聞こえて振り返ると、作務衣姿の香織が歩いてきて「久しぶりだね、樒さんの演奏」と微笑んで言った。二人から少し離れた位置に立ったまま、庭へと顔を向ける。
丈の高い草木が生えているうえに、川原は庭の際から一段低くなった遊歩道の向こうで、直接樒の姿が見えるわけではない。
音だけが、優美な調べとなって届く。
昨夜の騒々しさが嘘のように、三人とも口を閉ざしその音色に耳を澄ませた。
やがて音が聞こえなくなり、朝の光が明るさを増すそのときまで。
演奏を終えた彼は、今日もあの店で一日、彼の元を訪れる客に珈琲を淹れ続けるのだ。