本当はいつも叫んでいる
「ミュゼ・ステラマリス構想? へぇ。良いんじゃないの」
淡々と相槌を打ちながら、照りの綺麗な鰤を丁寧に一口大にほぐす割り箸の先を、聖はぼんやりと見ていた。
魚を食べ慣れている、洗練された仕草。
聖自身、見苦しくない食べ方を心がけているが、樒の動きは見ていていっそ心地よい。
何を話していたかも半ば忘れたような状態で眺めていたら、皿ごと目の前に置かれた。
「食べていいよ」
「食べたかった」
「わかる。ずーっと見てるから」
耳に優しい笑い声。聖は箸を構えて、食べやすいサイズの身を掴もうとする。指に力が入らず、かすめただけで終わった。うう、と箸を握りしめて呻く。
「……手が酔ってる。俺じゃなくて、手が」
「手はお酒飲まないと思うなぁ。食べさせてあげようか?」
「大丈夫。食べたい気持ちは本当……」
箸を持つ手をなんとか落ち着かせ、一切れつまみあげ口に運ぶ。
もういい加減酔いがまわっているのに、照り焼きソースの甘さと香ばしさ、絶妙な焼き加減に溜息が出た。
「今日まで生きてきて初めて、鰤の照り焼きと出会った気がする。今まで食べていたのはなんだったのか」
「そこまで熱烈に言われたら鰤も君に食べられた甲斐があるだろうさ。もっと食べなよ」
そう言って何かと料理をすすめてくる樒は、自分も適当に食べてはいるようだが、聖はまったくそのペースを把握していなかった。
目の前に運ばれてくる料理に向き合っていたら、瞬く間に時間が過ぎてしまって今に至る。
店内はいまだ賑やかだが、ぽつぽつと席が空きはじめていた。
(普段だったら、もっと周りを気にしている。グループ客の滞在時間とか、人の出入りや流れ。同行者の食べるペースも。食べている物も。好き嫌いとか。この人が何を食べていたか記憶にない。見ていない)
「こんなに普通に食べることだけ楽しんだのって、いつ以来か全然思い出せない。今日はいつもと何が違うんだろう……。美味しいのは間違いないんだけど、美味しい料理なら今までだって」
聖が考え考え言うと、樒はクスッと笑った。
唇から緑の小瓶を離して、ゆっくりとした口調で言う。
「安心しているように見える」
「安心……?」
「心配事が無さそう。いま、気持ちが落ち着いているんじゃない」
(心配事?)
なんのことだ、と思ったそばからどっと濁流のように押し寄せてくる。自分という人間の不確かさ。
今住んでいる椿邸は、いつか遠くない未来出ていかなければならない。「海の星」で週の半分は働いているけれど、腰を落ち着ける場所ではない。
住む場所も働く場所も、自分自身の力ですべて作っていく。独り立ちした大人として、当たり前のこと。
不安が無いとは言わない。それでも、覚悟は決まっている、そのはずだったのに。
目の前が揺れて、聖は思わず瞑目して眉間を指でつまんだ。
「この先、たくさん困難があるのはわかっている。俺は、困難にぶつかることが、怖いんじゃない。いつだって、乗り越える方法は見つけられると思う。怖いのは……、乗り越える理由が尽きてしまったとき。『俺が頑張らなくても』『ここを乗り越えても結局』苦しみも喜びも自分ひとりだけ。誰かの為に生きていない俺は……、自分ひとりで、生きていく理由がどうしても見つからない」
ひっそりと呟いて、箸を置く。
――西條さんに、何処にも行かないで欲しいとは、言えないです。他人の人生なので。でも遠慮して口出さないでいると、それまでなんですよね。時間は容赦なく流れて、いろんなことが決まっていってしまう。そこに自分が関わろうと思うこと自体、おこがましいんだって一旦は納得しようとするんですけど……。そういう行儀の良い人生送っていると、どんどん臆病になります。ひとと関わること。自分の意見を言うこと
(蜷川だっけ。前に、何か言っていた)
――俺、そんなに死にそう?
――それはわかりません。でも生きる理由があまりなさそうだとは思っています
――お前、きついなそれ
「それなら、俺を生きる理由にしてみる?」
記憶の中の伊久磨との会話にかぶせるように。
最前までと変わらぬ穏やかさで樒に言われて、聖は力なくふきだした。
「できるはずがない」
「縁もゆかりもない他人だから? だけど、君の死んだ奥さんは、今の君の生きる理由になっていない。むしろ、臆病と諦観の源のように見える。強い結びつきある相手に、この世界に独りで置いていかれたことが、君をずっと苦しめている。『結局、ひとは独りなんだ』って。その強すぎる思いが、他人を信じることを躊躇わせ、寄りかかることを許さない。気づいていないかもしれないけど、君、いますごく辛いんだよ」
「ストップ。それ以上は」
甘い毒のように忍び込んでくる声。心が侵食されてしまう。
(生きていることが辛いと認めたら、常緑を責めることに。俺は……生きなければ。まだ生きたいと願いながら死んだ常緑の分まで……、独りで? 常緑が生きたかったのは、この世界に俺が残るからじゃないのか。常緑には生きたい理由があった。けれど、常緑が死んだ後の俺には、生きる理由が)
隣に座って、のんびりと焼きおにぎりをつついている樒に目を向け、聖は恨み言を吐き出した。
「よくも俺を惑わしたな」
「ごめんね」
「謝って済む問題じゃない。俺の、すっげえ弱い部分、思いっきり刺しただろ。そういう、もののついでみたいに抉ってくるなよ。だいたい、死んだ奥さんの話って、デリケートな話題だよな!?」
樒は、ぬるくなりはじめた熱燗の徳利を持ち上げて聖の猪口に日本酒を注ぎながら、眼鏡の奥の目を細めた。口角が持ち上がっている。
「やっぱり普段の君、悪ぶってるよねえ。奥さんのことで相当傷ついている。傷つくなとは言わないけど、それでいま生きている周りのひと信用できなくなるのはどうなの。すぐには難しいかもしれないけど、君はもう少し他人を信じる訓練をした方が良いよ。コツは、あまり深読みしないこと。信じると決めた相手のことは信じて、自分を偽らず、可能な限り自分から心を開く。そのときに『どうせ俺より大切な相手がいるくせに』『俺を置いて逝くくせに』そういう風に、一歩ひかないこと。できそう?」
注がれてしまった分は飲み干してから、猪口をカウンターにタン、と置いて聖はきっぱり言い切った。
「無理。できない。絶っっ対できない。他人を信じるというのは、リスクを抱えることだ。人間は簡単に裏切る」
「それが君の本音だ。裏切りが怖い。周りの人間に対して怯えている。だからだよ、いつも不安そうな顔をしているのは。今みたいに、素直に叫べばいいんだよ。『絶対無理、怖い、助けて』って」
「叫んでどうする」
「俺が聞いている。耳は良いんだ。『ゴーシュくん』だから」
淡い笑みに続く言葉を奪われて、聖は猪口を指先で弄くり回した。「結構酔ってるけど、まだ飲むの?」と尋ねられて、手のひらを猪口の上にのせる。これ以上注がれたらやばい、という拒否。
「素面のくせに絡むなよ」
変に清々しい気持ちを持て余して、苦し紛れに毒づく。樒は気にした様子もなく「さて、行くか」と立ち上がった。
すでに、目の前の皿はすべて完食で空。
(いつ食べたかも覚えてない。たしかに酔ってる……記憶飛んだことなんかないのに。時間が飛んだ)
おかしい、と思って歩き出してから「あ」と呟くと「勘定は済んでるよ」と答えられて、その場に崩れ落ちそうになった。腕を掴まれて、なんとか免れたか、どこからどう見ても完全に酔っ払い仕草。聖はいいだけ落ち込んだ。
もう大丈夫、と腕を離してもらってから、カラリと引き戸を開けて外に出る。
晩春、空気にはわずかに冷たさが残っていて、頬に心地よい風が吹き付けてきた。
「何か、話が途中になった気がする……」
「ええと、ミュゼ・ステラマリスの話は途中だった。それはまた後日詳しく」
連れ立って駐車場に向かって歩き出す。
樒が、ふと星空を見上げながら言った。
「時間的にちょうど良さそうだし、大通りの方を経由して帰ろう。同居の美人に連絡してみたら?」
「んん……? 藤崎?」
街灯が少ないせいで、街中とは思えないほどくっきりと星が見える。樒につられて聖も空を見上げたら、密度の濃い輝きに目を奪われて足を止めてしまった。
数歩進んでから、樒が振り返る。
「そうそう、藤崎さん。大通りのカラオケに行ったって言っていたよね。帰りの足に困っていたら拾うからって、言ってあげなよ」
(気が回り過ぎだからそれは。藤崎、子どもじゃないし。自分で行ったんだから自分でどうにか……)
そうは思うものの、食事に誘ったときは来ると言っていたのに、突然「行けなくなった」とふられたせいで自分も意地になって、粗末な対応をした覚えはある。
そのときの電話は、記憶が確かなら樒に目撃されていた。
「やばい……、全部掌の上過ぎる。これ、俺が酔ってるからだけじゃないよな……? 樒さんがおかしいよな?」
「褒められたと思っておくよ。足元気をつけて、ふらふらだよ。危ないなぁ」
言ったそばからつまずきかけて、引き返してきていた樒の力強い手にまたもや腕を掴まれる。振り払おうとしたら、掴み直された。
互いの顔もはっきり見えないほどの暗がりで、真剣な声が耳に届いた。
「人間には誰しもダメな時期があるけど、その期間人に寄りかかったり救いを求めたりが出来ないと本当に死んでしまうし、何も残らない。限界は突然来る。頼れ、信じるんだ。今、すぐに思い当たる相手が近くにいないなら、俺でいいから。いつもあの場所で珈琲淹れてる。限界を迎える前に、おいで」
「樒さんは、なんでそんなに」
茶化せる空気ではなく、言葉少なく問いかけた聖に、樒は低い声で答えた。
「さてね。自分のオススメの店を好きになってくれた相手は、たぶん俺基準で友達なんだ。だからかな」
そして、すばやく付け足す。
あとね、俺の店客少ないから。常連になってくれそうなひとには少しだけサービスしてるの。だから通えよ? と。